第61話 若き日の義元、京へ

「ご帰郷に先立ち、これまで親交を深めた公達の方々もお呼びしてございます。本日は連歌の会を調えてございます。また夜には心ばかりではありますが酒席を用意してございます。駿河の夜を存分にご堪能下され」

 下座の義元は恭しく言い、頭を下げた。

 季遠からは義元、隣に氏真、その後ろに重臣たちが並び、義元に合わせて一同が一斉に平服する。

 四辻季遠は満足そうに大きく頷いた。

 小休止のあとは書院に移り、連歌会が始まった。主客である季遠を始め、義元、氏真、そして朝比奈親徳、三浦正俊を筆頭とした重臣たち。駿河に滞在している公家たち。皆が達者といっていい。さながら都の文壇が集結したかのごとくといえた。

 夕方過ぎに連歌会の興行が終わると席を変え、酒盛りとなった。このときは『七五三の膳』が振る舞われた。本膳七菜、二の膳五菜、三の膳三菜の宴で、酒が延々と続く。

「これだけ贅を尽くした酒宴は、京ではもう味わえまへんでしょうな」

 義元と共に一座を見渡す首座に座っている四辻季遠は、義元に顔だけを向けて感慨深げにそう言った。

 義元は微笑みで応えた。季遠は言葉を続け、

「それにしてもこの駿河の地は、冬も凍えるような寒さの日は少なく、ほんま過しやすいとこどすなあ。これから京に帰るか思たら、やや気持ちが暗あなります」

「左様、京の地は盆地ゆえ身を切るような寒さが続きます。くれぐれもお体にはお気をつけくだされ」

「これはありがたきお言葉。身を切るいうのはほんまにそうどすな」

 季遠は義元に笑顔で一礼した。

(確かに、京の冬は本当に寒かった)

 義元は京での修行時代を思い出した。義元にとって京は、若き日のほろ苦い記憶を呼び起こす第二の故郷だった。

 京にいた何年間かは、彼にとっての『青春時代』だったといえる。


 父の今川氏親が亡くなったのは大永六年(一五二六)六月十三日だった。方菊丸は八歳になっていた。

 家督は長男の氏輝が継ぎ、今川家当主となった。しかし氏輝はまだ十四歳のため、実母の寿桂尼が後見人となり、領国経営の第一線に立った。

 寿桂尼は、後に女戦国大名と称されている。氏親が中風を患った晩年の十年間、寿桂尼は夫の任を補佐した。そのため、彼女が氏輝の後見人になるのに左程問題はなかった。

 当時、女性が政治に関与するということは稀有なことだった。氏親自身、数ある重臣がいたにもかかわらず、妻に政務を託したのはよほどの信頼があったからに違いない。

 今川家の分国法である『今川仮名目録』は、革新的な内容と完成度の高さで現在も評価が高い。これは今川氏親が死の直前に病床で制定したものとされているが、寿桂尼の意向も大きいといわれている。

 夫の死後、寿桂尼の政務は約六年間続いた。その間、駿河は安定し、内乱や外圧が起こることはなかった。彼女としては気の休まることもなかったろうが、その力量は並みではない。

 寿桂尼は、当然誰からも一目置かれる存在になっていた。


 父の死から四年後の享禄三年(一五三〇)冬、方菊丸は善得寺から駿府に戻って得度の式をあげた。京の建仁寺から常庵じょうあん龍崇りゅうそうが駿府に下向してきたためだ。龍崇は九英承菊が修行をしていたときの師といえる人物だった。

 方菊丸、十二歳の今川義元は、武士の成人式である元服を受ける代わりに、剃髪し墨染めの衣を着けることになった。

 承芳しょうほうと号した。

 僧としての暮らしが本格的にはじまったといえる。

 承芳の祖母で前年に亡くなった北川殿の隠居所跡に庵が建てられ、善得院と称した。僧となった方菊丸のために建てられたこの寺は、善得寺の駿府出張所のようなものだった。承芳と九英承菊はそこに入った。

 善徳院では京下りの公家たちとの交流が多くあった。この頃から師である九英承菊は、京での本格的な修行を考えていたようだった。

 程なく、承芳と九英承菊は京へと赴いた。

「あまり期待せぬほうが、いいかもしれません」

 京に向かう旅の途中、九英承菊は主筋にあたる弟子にそう言った。京は母の故郷であり彼のあこがれの地であった。だから仕方がないともいえたが、承芳があまりにも浮かれ、同時に緊張をしていた姿にわざと水を差したのだろう。

 承芳は師の言葉をいぶかしんだが、実際に京の街に入った途端、その言葉の意味が分かった。

 京は、荒れていた。

 師である九英承菊は、建仁寺に入る前に都の中を承芳と共に歩いた。

 享禄年間、この時期の京の荒廃は、織田信長が初めて上洛した永禄二年二月よりも凄まじかったと思われる。


 今朝みれば浅茅が原と成りにけり

   これやきのうの玉敷の庭


 浅茅が原とは荒れ果てた野原の事をいう。古歌にもある通り、十六世紀の天皇家の貧窮ぶりは数々のエピソードと共に残されている。その多くは江戸時代初期に記されたものが多く、一概に信用できるものではないが、若き承芳を落胆させるのには充分といっていい光景だった。

 都は所々の塀や築地が破れ、一見して乞食や野武士と分かる、駿府では見かけたことがないような人種がいた。街路には屍骸が転がり、何ともいえない匂いがした。

「将軍はどうしておられるのですか」

 疑問に思った承芳が隣を歩く承菊に聞くと、

「さて、今はどこにおられるのか」

 と返事が返ってきた。

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