第34話 信長、覚醒す
五月に入り、松平元康による三河の定書の条項はかなり形になっていた。
元康と彼の家臣は毎日今川館の門をくぐり、朝比奈親徳と関口
二人の今川重臣にとって松平元康は従順な生徒だった。基本文は元康と彼の家臣が草稿したが、親徳と親永の指摘することには一切意見を挟まず修正した。最後に義元が目を通したが、義元は何も言わずにこれを許した。
定書は七ヶ条ある。
その内容は訴訟と人事に関することで、元康が駿府にいる間、起訴人事は基本的に岡崎で決する。元康がその裁定を承認しない場合は関口親永・朝比奈親徳に伝えること、などが記載されている。
三河内で評定するなど、一見松平家に裁量を託しているように見えるが、実際は三河に駐留している今川家の家臣がこれを行い、三河の実権は関口親永・朝比奈親徳が握るということになる。
当然元康はこのことが分かっている。分かっていながら自ら書状を認めている。今川の命ではなく、松平元康がそう決めた、ということを内外に示すため、という意味合いがある。
そうせざるを得ない、ということをこのとき十八歳(現在なら十六歳)の元康はよく分かっていた。
五月十六日、定書は元康の花押によって三河に発布された。
信長は今も考えている。
今川に対し、どのような策を仕掛けるべきか。
求むべき結果は分かっている。熱田の南、笠寺や鳴海・大高の両城から今川勢を撤退させること。このことにより近隣の沓掛城などは孤立し、たやすく落ちることだろう。
また、大高のさらに南、知多半島も織田の物となる。
知多半島のほぼ中央には
当主の俊勝はこの時水野信元、信近兄弟の妹である於大を妻としていた。於大は松平元康の実母であり、水野が織田に靡いたことにより松平から離縁された過去をもつ。
つまり、水野のそのような女性と再婚している久松俊勝は、かなり織田側によっていた。
鳴海、大高城を信長が手に入れると、久松は間違いなく織田方になる。
それだけ大きな波及が期待できるのだ。
(どう仕掛ければ奴らが後退するか)
このときも信長はそれを考えていた。妙案はまだ出ていない。もう堂々巡りといってもいいかもしれない。
「フッ」
思考が途切れたとき、信長は頭の上で柔らかな含み笑いを聞いた。
清須城の奥御殿、信長は吉乃の膝枕で横になっている。縁側に近い二人と、その奥で赤ん坊を抱いている侍女がいる部屋からは、庭で遊ぶ小さな子どもの姿が見える。吉乃の含み笑いはその子供に向けてのものだったようだ。
「はしゃいでいるのです。いつもより」
信長が目を開けて自分の顔を見たのを受け、頬笑みをもって吉乃は言った。確かに信長が子どもたちの前に現れるのは珍しい。
吉乃は側室だが、長男の奇妙(後の信忠)と次男の茶筅(後の
信長には正室の帰蝶(濃姫)ともう一人側室がいたが、この時期は吉乃に会することが一番多かった。
しかし、昼間に信長がいるということはなかった。
侍女に抱かれている茶筅は二歳。但し昨年生まれたばかりなので、今の年齢にすると一歳前後となる。
そして庭で遊んでいる奇妙は三歳、今の年齢なら二歳位だろう。立って歩き始めたばかりで、歩くことがよほどうれしいのか、庭の中をちょこまかと動き回っている。
「トンボか」
奇妙は小さなトンボを追いかけている。シオカラトンボだ。
両手を前に出しながらヨタヨタと追いかける奇妙は、トンボが上昇したのを見ると、両手を上げてピョンピョン飛び始めた。トンボはますます上にいる。
「ふん」
信長は鼻を鳴らした。たわけが、と自分の子どもを見て思っている。
吉乃は可笑しかった。彼女はわが子を見ながら信長がなにを考えているのか何となく想像が付いていた。
(まるで)
子どものよう、と吉乃は思っている。幼い子どもの行動も大人と同じように評価している信長が、可笑しくてしかたない。
思えば子どもたちの名前もそうだ。
初めて自分の子が生まれたのを見た信長が、付けた名前は『奇妙』。
二人目の子どもを初めて見た時、子には髪の毛がすでに生えていた。「髷が結えそうだ」と言って信長は『茶筅』と名付けた。
つまりはどちらも信長の第一印象がそのまま名前になっている。この感覚はこの方の才覚につながるもの、と吉乃は胸の奥で思っていた。
「あのトンボ、どうやれば取れるのでしょうね」
吉乃は顔の角度を下げ、自分の膝に頭を預けている信長に聞いた。
「トンボか」
信長はむくりと起き上がり、真顔になって吉乃に目を向ける。望むところの質問だったのだろう。
「まず、待つことだ。トンボは必ず草や花のあるところへやってくる。だから来そうな所の前でじっと待つ」
やっぱりこどもだ。大好きなことを一心に話そうという目付きになっている。吉乃はその思いを笑顔に変えて、
「待っていると、トンボがその草花のところへ下りてくるのですね」
「そう、それをじっと待つ」
両手で上半身を支えていた信長は、ゆったりと前に座ると胡坐を組み、
「慣れるとどのあたりに来るか想像がつく。やつが草花に止まると、ゆっくりと近づく。そう、本当にゆっくりだ」
本当にゆっくり、という言葉を本当にゆっくりと言っている。
「ある程度近づいたら、今度はやつの目の前で左手の指をゆっくりと回す。こんな感じで」
信長は吉乃の目の前に左手の人差し指を出し、実際にゆっくりと回して見せた。
「そう、その顔。トンボも何だこれはという感じで指をじっと見ている。そのすきに」
「!」
吉乃はいきなり圧力を感じた。
いつの間にか信長が右手で彼女の左の耳たぶを握っている。しかも信長は、彼女の髪の毛を一本も掴まずに握っている。
「これだ」
信長は笑い、そしてすぐに真顔に戻った。
――これだ!
頭の中が一気に覚醒している。
(あ奴の事はいえぬ。俺がタワケだ)
信長は笑い出したい衝動に駆られた。しかし吉乃の目の前にある男の顔は、急に感情がなくなったように表情をなくしていた。
信長のこの感情は吉乃にも分からなかったのだろう。不思議そうな顔で信長を見ている。
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