第8話 信長、堺へ

 次の日は、まだ夜の明けきらない内に奈良の宿舎を出た。

 十人ほどの近臣を引き連れ馬で駆ける。家来や中間、小物の一部は堺やその周辺まで先行させ、堺での様々な手配や途次での休憩、馬の飼葉の準備などを進めさせた。万一のことを考え替えの馬も手配している。

――何事にも『迅速』『万全』でありたい。

 この時期、信長は〝速度〟を求めていた。今の自分たちの軍事規模を最大限に活かすのは『機動力』だと考えている。敵が巨大であればあるほど余計にそうだ。だから信長は、何事においてもスピードを重視していた。

 が、信貴山から竹内街道に入ろうとする道で初めて海が見えたとき、信長は一度馬を止めた。

 海といってもその向こうに淡路島が横たわっているため、それは大きな川のようだった。海の手前、弓なりに沿った海岸線の一画に堀で囲まれた街が見える。

(あれが堺か)

 街の沿岸は港となっており、港から少し離れた海上には何隻かの船があった。信長は津島や熱田など尾張の港で何度も大きな船を見たことがあるが、海に浮かぶ船は見たことのない形をしていた。あれが明の国(中国)の船なのだろう。

 信長はしばしその風景を見つめていた。


 堺は商人による一種の自治都市だった。当時の経済と新技術の集積地でもあった。

 キリスト教の布教で日本に来ていたガスパル・ヴィレラは一五六一年のイエズス会報告書でこう書いている。

「堺という町は広大で、大商人が多くいる。この町はベニス市のように執政官によって収められている」

 また、ルイス・フロイスはマラッカの司令官宛に書いた書簡の中で堺を、

「日本で最も富がある港で、国内の金銀の大部分が集まるところ」

 と報告している。

 信長一行はまず港を見物した。

(やはり、津島とは違う)

 津島湊は尾張有数の港町で、木曽川の支流となる天王川沿いにあった。彼の祖父信定から支配下に入り、信長も子どもの頃から馴染みがあった。

 街は商人たちで賑わい、様々なモノやコトが集まる場所だった。

 しかし、このとき彼の目の前にある堺の港はそんな規模ではなかった。

 沖合に浮かぶ大船と所々に集められた積荷。船と港の間を行き交う小舟の数と港で働く人夫たち。そのどれもが桁違いだ。

(話には聞いていたが、)

 実際に目で見、肌で感じるものだ、と信長は思った。

 

 次に信長たちが向かった先は鉄炮鍛冶の工房。蔵に鉄炮類がズラリと並んでいるのを見、実際に鉄炮が作られる様を見学した。

 このとき信長一行に付き添い、橋渡しをしてくれたのは納屋(今井)宗久という壮年の商人だった。

 後で知ったことだが、鉄炮鍛冶の工房内というのは、技術を外部に漏らさないため、たとえ身分がある人物でも簡単に中に入るということは出来ないらしい。堺で火薬とともに鉄炮製造にも関わっていることで薬屋宗久とも呼ばれていた納屋宗久が話を通していたので、円滑に事が運んだということだった。

 宗久は見物だけでなく、最新の鉄炮の技術や流行なども信長に教えた。まるで弟子のような真剣さで信長はその言葉を聞いていた。

 当時鉄炮は、伝来した場所に因んで『種子島』と呼ばれた。

 種子島は鹿児島のほぼ五十㎞南にある。この島に明船が漂流してきたのが天文十二年(一五四三)。船にはポルトガル人も乗っており、彼らが携えていたのが火縄銃だった。

 種子島の領主、種子島時堯ときたからは南蛮人が携える見慣れない道具がよほど不思議に見えたのだろう。乗組員の事情聴取の際に火縄銃が実演として発射された。時堯は目の前で轟音を轟かせた西洋の火器に大層驚いた。大金を払って二挺を購入し、家臣の篠川しのかわ小四郎という人物に火薬の調合法を学ばせ、島内の鍛冶に複製品を作らせた。

 鉄炮はわずか一年余りで国産品が出来たという。

 製造法は本土に伝えられ、紀州の根来、近江の国友村とともに堺が主な生産地となった。

 堺ではさらに改良を加え、その性能は既にヨーロッパのそれと比べても遜色のないものになっていたようだ。

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