第6話 将軍拝謁2
翌天文二十二年、義輝は細川晴元と連携し、三好長慶に戦を仕掛けた。義輝自ら京都東山の霊山城に入城したが、細川軍が敗れたことで、彼も近江朽木へ逃れた。
義輝は五年の月日を逃亡先である朽木で過ごした。
永禄元年(一五五八)十一月、南近江の守護大名である六角
そして永禄二年のこの日、義輝は二十四歳。信長よりも二歳年下だった。
義輝のいきなりの言葉というハプニングがあったものの、対面の礼は粛々と進む。
信長の紹介と彼がいかに幕府に貢献しているかということを御供衆の一人が滔々と口上したあと、信長の献上した品々の目録披露があった。
次に信長に対し、上洛へのねぎらいと今後も幕府と将軍への忠誠を続けていってほしいということの口上が長々と述べられていった。
その間、信長はずっと平伏のまま。
そのうち信長に口上の機会が与えられた。これも名誉なことらしい。
信長は平伏した姿勢のまま将軍の帰京祝いを述べ、臣下として服従していくことを誓った。
そして、将軍義輝から直の言葉を与えられる。
「織田
近くに寄るように、という意の言葉。信長は慣例どおり頭を下げたまま上半身を上げ、膝を前に立ててその場を動かずに歩く
このときチラと前を見たが、義輝の前には御簾が垂れていて、顔が見えないようになっていた。
信長は何歩分かの膝行をすると、再度平伏に戻る。
「誰か、簾を上げよ」
将軍義輝が言った。
「上様、それは……」
左右の誰かが言ったが、
「構わぬ」
将軍の声、そしてバタバタとした動きの後、
「織田上総介、苦しゅうない。面を上げよ」
将軍自身が声を掛けた。
(ほー)
感心しながらも恐る恐るといった動作で顔を上げると、鼻の下と顎に髭を蓄えた、見るからに体格の良い男がそこにいた。
「よくぞ来てくれた。礼を言う」
義輝は頭を下げた。
元々信長の上洛は、将軍義輝が帰京後すぐに諸大名に送った御内書に対して一番に応じたものだった。
御内書とは、将軍が私的な形式で発給した書状のことをいう。戦国の世となり一時衰退したが、義輝はこの形式を利用し、幕府と将軍の権威を取り戻そうとしていた。
信長の一番乗りは素直に嬉しく、礼式を破ってでも直に声を掛けたかったのだろう。
「御意」
信長は意外なほど素直な気持ちでこの言葉が言えた。左右に苦り切った顔が並んでいるのも愉快に感じる。その中、義輝に一番近い右の座に、無表情ながらもやや感心した目の光で義輝を見る男がいた。
(三好長慶ではないか)
信長はそう思った。
もしこの時代にメディアがあったなら、前日である二月二日のトップニュースは信長の上洛だったか。いや、違っていただろう。
同日、三好長慶も上洛をしている。
三好長慶、この時期この人物はまさに〝時の人〟だった。
当時の彼は摂津の芥川城(現大阪府高槻市)を本拠地とし、山城・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐および播磨・伊予の一部を掌握していた。
この時の上洛は、それまで対立していた将軍義輝との和睦後最初の挨拶のためであり、嫡男孫次郎を後継者として披露することが一つの目的だった。
和睦といっても彼にしてみれば、許した、という気持ちだっただろう。後継者を将軍に引き合わせるということは、まだ将軍の権力を認め、利用するに足ると考えているからともいえる。
三好長慶らは相国寺に入った。信長たちのいる裏辻とは目と鼻の先だが、まるで格が違う。一方は町屋で、もう一方は京都五山の第二位という大寺院だ。
三好長慶にとって織田信長という存在は、単に地方豪族の一人というくらいの認識でしかなかった。それは彼だけでなく、すべての人の見方だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます