桶狭間伝

@keimei09

桶狭間の章

永禄二年 春

第1話 信長、初上洛

 異形の者多し、と書かれている。

 今の言葉に訳すと『やばそうな奴らがウヨウヨいる』だろうか。

 永禄二年(一五五九)二月二日、織田信長の初上洛を見た都人の印象だ。

 山科言継ときつぐという公家の日記『言継卿記』での一文だが、当人が見たのか伝聞なのかは分からない。

 いずれにせよ〝異形〟という言葉。印象が凄まじい。

 やはり当時もいい意味の言葉ではなかったらしい。武士などという人種は腐るほど見ている京の人々からしても、かなり異様な風体の男たちだったのだろう。

 しかし、彼ら尾張勢にしてみれば精一杯のいでたちだった。

 このとき信長は二十六歳、鎧兜の軍装ではあるが、さやに金箔を貼りつけた熨斗のし付きと呼ばれる装飾用の太刀を腰に吊り下げ、上洛用の身繕いをしていた。

 彼は自身だけでなく、近侍の者八十名にも熨斗付きの太刀をかせた。中間小者まで合わせると総勢五百名、みな身分に応じた礼節のある服装になっている。

 信長初めての上洛は、入京する時から幕府および朝廷への礼を尽くしていたといえる。寧ろそのあまりにも堅苦しすぎるイメージが『異形』という言葉につながったのかもしれない。


 この時代、京の洛中は二つに分かれていた。北を上京かみぎょう、南を下京しもぎょうという。

 それぞれの周囲には惣構そうがまえと称される土塀と堀、土塁が囲まれ、外との出入りには櫓門や木戸門を通らなければならなかった。

 北と南がそれぞれ城塞化していたということになる。

 上京と下京の間には農地が広がり、二つの市街をつなげる主要な道路は室町通りだけだった。

 天皇の住まいである内裏は現在と同じ場所にあったが、京都御所のような広さや規模ではなく、麦畑の中にポツンと見えたと記録にある。

 とにかく、京は荒れていた。

 後奈良天皇が崩御して一年半になろうとするが、貧窮のため正親町おおぎまち天皇は即位の礼を挙げることが出来ていない。

 応仁の乱から百年近くが経った京は、戦乱のあとを未だに残していた。街は度重なる戦や火災によって失われ、街路の端々には流浪の民や干からびた死体が見られた。


 だが京の街は、次第に活気を取り戻しつつもある。

 三好みよし長慶ながよしに戦で敗れ、近江朽木に五年間逃れていた将軍足利義輝が前年十一月に帰京した。それに伴い、将軍の周囲はもちろん商人や町人など、様々な人々が京に集まりつつあった。

 京の政情は安定の方向にあり、様々な場所から建築や改築の槌音が聞こえていた。

 永禄二年二月二日は西暦に直すと三月十日。ただし当時はユリウス歴のため、現在のグレゴリウス歴だと三月二十日に相当する。

 この日、晴れ。信長一行が訪れた京は、春のやわらかな暖かさに包まれていた。

 彼らは惣構の櫓門から上京に入り、道を北にとった。彼らの向かう宿所は『うら辻』という場所にある。

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