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「んー、これは厄介そうだな」

 モニタを覗き込んでマリアは言った。

「すまない……」

「いちいち呻かなくても別に責めているわけじゃない。LSSの欠点くらい、初めからわかっていたことだ。論文だって山ほど出てるだろ」

「そうかもしれないが……」

 二人は先ほど撮られたステラのレントゲン画像を眺めていた。右脛骨近位端での斜骨折。その場所は大腿骨顆こっかと関節して膝関節を構成する、ちょうどアデレードが術式をほどこした位置だった。LSS法では、膝関節の安定という靱帯の機能を縫合糸に代替させるため、脛骨に骨孔を作製して糸を通す。レントゲン画像を見るかぎり、今回の斜骨折は明らかにその骨孔に沿って起こっていた。一見すると骨孔による脛骨の脆弱化が骨折の原因と思えるが、そうではない。

 アーリアから聴取した稟告はこうだ。騎乗中にステラが暴れ後肢で立ち上がった。退院後なので神経質になっているのだと思いなだめようとしたが、右後肢がガクンと落ち――そしてステラはくずれ落ち、彼女も背中から投げ出された。

 骨折はこの時、他の部分より脆弱になっていた骨孔に沿って起こった。大事なのは因果は逆ではないということだ。木に刻み目をつけて力を加えればそこから折れるが、一定以上の力が加わると木が折れるのは刻み目の有無には関係がない。つまり問題は不自然な力が脛骨にかかったことそれ自体だ。これは前十字靱帯の断裂により、膝関節の安定性が不十分となったことに起因する。ステラ自身の体重や運動量に耐えられるほどの強度を、LSS法では取り戻せなかったということになる。

 ならば、次に打てる手はなにか。

「プレートとピンで固定して、前十字靱帯CCLはいったん諦めるしかないか――」

 マリアの横でアデレードが結論を口にした。LSS法は当然ながら適用外だ。縫合糸をかけるための脛骨が折れているし、骨折面はご丁寧にも骨孔を通っている。前十字靱帯の断裂については、一旦、骨折の治癒を待ってから考える――

 だが、それでは同じことのくり返しだ。骨折が治ればまたLSSを行えばいいのか。あるいは別の関節外法を検討するべきか。堂々巡りが続くだけのように思えた。

 電話が鳴ったのはその時だった。マリアは白衣のポケットから仕事用の携帯を取り出した。電話は西棟の看護師からだった。

「……マリア?」

「ジェフが亡くなったって。クライアントが来ているみたいだ、挨拶に行ってくる」

「私も行こう」

 マリアは同行を断ったがアデレードは頑として聞かず、マリアがジェフの遺体を抱えて挨拶に来たクライアントと話している間も、遠巻きに見守っていた。クライアントは治療への礼を述べ、ジェフがいかに幸運だったかを涙ながらに語った。

 クライアントの去った正面玄関で立ち尽くすマリアの隣にアデレードが立った。

「どうも、何度経験しても慣れないもんだ」

「慣れてはいけないだろう」

 軽い口調で慰めに先んじたつもりが、アデレードの返答は限りなく誠実なものだった。マリアはアデレードに背を向けると、つとめて冷静になろうとする。

「悪いけどカルテの片付け、付き合ってくれるか」

「もちろん」アデレードはふっと笑って、「ハンカチは貸さなくていいか?」

「なかなか言うじゃないか」

 マリアは自分の頬がゆるむのを自覚しながら、書類倉庫に足を向けた。

 患者が亡くなった場合、センターではカルテの類いは速やかに倉庫に移動させることになっている。事務処理の都合というよりは、担当者の気持ちの整理のための規定だ。あらゆる受容は事実と現実の直視からはじまるからだ。

 脚立にのぼって書類棚からファイルを取ると、マリアは背後のアデレードに手を伸ばす。

「どうした?」

 ふり返ると、アデレードはジェフのカルテを熱心にめくっていた。カルテに目を落としたままアデレードが「見てくれ」と言うのでマリアは脚立を降りた。アデレードが指さしていたのは直接的な死因と思われる膵炎ではなく、その前の入院記録だった。

「この子は脛骨骨折で来たんだな」

「衝突事故だ。初診とオペはカニンガム先生が入ったが術後経過は私が診た。ちょうど骨折位置もステラと似たような場所だったはずだ。ジェフの方がひどかったが」

「ではこれは?」

 アデレードが指をさしたのは稟告をメモした走り書き。ロデリックの字だ。

 ――患肢に跛行 事故以前 CCLI?

 アデレードはカルテをめくるとさらに別の行を示した。

 左後肢:脛骨圧迫試験(+)

「ドロワーサインは」

「……伸展、屈曲、どちらもあった。完全断裂だった」

 ここに来てマリアにもアデレードの言いたいことがわかった。

「術後、そうだ。跛行はなかった。けどそれは治癒したからじゃない。骨折が治癒したって靱帯は切れたままだ――くそ」

 靱帯断裂が必ずしも跛行を引き起こすとは言えないが、ジェフは完全断裂であり、事故前から跛行が現れていた。それがなくなったのだ。これはマリアの見落としだった。

「跛行がことを見過ごしたならともかく、ことに気づかなかったんだ。カニンガム先生なら『治ったならそれでいい』と言うところだろうね」

 外科部長のロデリックは間違いなく超一流の竜医だが、物事を実のみで捉えすぎるきらいがあった。究明究理は内科や病理医、学者の仕事。外科医は修理工と同じで、目の前の症例を治すことに専念すべき。というのが彼の極端な哲学だ。そういう上司だからこそ、今回の手術計画をマリアたちに一任できたのだろうが。

 ともかく、ジェフがCCLIから回復した原因がわかれば、ステラのオペに応用できる可能性があった。そしてマリアの中にはすでにある仮説が生まれはじめていた。

「戻ろう。画像を確認したい」

 二人は足早に書類倉庫を出て処置室に向かった。

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