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 こうして王女の竜はアデレードが担当することになった。助手にはリリカがすばやく手を挙げた。

 マリアもその場では表立って異論を口にしなかった。アデレードは今日の執刀医の一人であるし、「竜医の格」とかいう馬鹿げた基準はともかく、マリアたち若手の中では技術も経験もたしかだったからだ。残る問題は、既に二件のオペを抱えた彼女に初診を十分に検討し準備する余裕があるかどうかだ。

 センターでも、事故や救急の症例で飛び込み初診がオペになることはある。しかしその場合はセンター長以下、経験豊富な上役の竜医たちが担当する。たとえこのセンターの出資者である王族の命だろうと、若手が独断で執刀するというのはあまりに異例だった。

 運び込まれた王女の竜は大型乗用種アングロアラブの牝、ステラ。マリアも王族を扱ったBBCのドキュメンタリーで王女の愛竜として紹介されるのを見た覚えがあった。まずは職員数名がかりの鎮静の後に身体検査、加えて三方向のX線撮影と、念のためCT撮影が行われた。結果は当初の予想通り右前十字靱帯の断裂だった。

 診断もつき、昼前には既にオペを待つだけになっていた。

 大型竜種において、前十字靱帯断裂の症例は珍しくない。手術自体もありふれたものになる。竜医を含め、突然聞かされた王女の名前に慌てていたセンター職員たちも、ほっとした様子を見せていた。

 しかし、マリアにはまだ不安があった。

 マリアはアデレードが一人になるタイミングを見計らって呼びとめた。廊下の途中で、仕立てのよい白衣姿がふり返った。金の髪がさらさらとなびく。アデレードは傍らに再診のボルゾイを連れていた。

 ボルゾイ種はかつてのロシア帝国において貴族が大型竜狩りの供とした狩猟竜だ。運動能力に秀でた長くしなやかな四肢とすらりとした体躯、気品に満ちた容姿に加えて、穏やかな気性が魅力の品種だ。わけてもそのボルゾイは品のある純白の鱗を持つ個体で、腫瘍によって右前肢を断脚した後でも、打たれるような優美さをたたえていた。公爵家の令嬢と並ぶと、絵に描いたようなという言葉が陳腐なくらい似合って見えた。

 アデレードが要件を尋ねてきてマリアは物思いを中断した。手短に、今回のオペについての再考を提案する。

「私では不適格だと?」

 院内の廊下、ちょうど窓からの日射しが逆光になって、アデレードの表情は窺えない。

「そういう意味ではないよ。けれど十分な検討の余裕もなく、先生方もいらっしゃらない。何かあってからでは遅い。王女殿下の騎竜ともなればなおさらだろう。懸念材料もある」

「つまりそれは、私では不適格という意味だろう」

「だから違うと――」

「そうさ」

 語調を荒げたアデレードに、連れていた竜がびくりと顔を上げた。引かれる首輪を嫌がって身をくねらせる。マリアに詰め寄るアデレードは、ふだんはけして見せない激情を顕わにしていた。

「今回のオペも、自分がやるべきだと思っている」

「そんなことは……」

「いいや、あるさ。明日だろうと今日だろうと、先生方がいないのは同じだ。そして私も君と同じ、今日の担当医だ。殿下の意向に逆らって明日に回すのと、今日オペするのでなにが違う?」

 アデレードは鼻を鳴らして笑う。

「もちろん担当が違うとも。明日なら君がオペに入れるからね。君を品のない言葉で罵る者たちもいるが、君だって周囲を見下しているのは同じだろう。私のような世襲貴族は、たとえ技術や経験が不十分であろうと、君のような優秀な者を押しのけて、家の権威でもって執刀させていただいているというわけだな」

 見当違いな批判だとは返せなかった。アデレードの剣幕に気圧されただけではない。彼女の言葉は確実にマリアの心中を言い当てていた。昨日あの時も、ずっと以前から、それはマリアの心の底で燻り、陰に陽に彼女を動かしてきた思いだった。

 首が熱くなった。

 その傲岸を見抜かれていたことが、恥ずかしく、そしてひどく情けなかった。

「……だんまりか」

 アデレードはため息と共にかぶりを振った。

「そうだな、リリカの言うことも間違いではないのかもしれない。よくわかったよ。首をすくめて待っていれば事が過ぎ去ってくれる――みずからの一挙一動に家名を賭ける我々とは違う、それが君たち平民の甘えなんだな」

 またあの表情だった。アデレードはきびすを返し、

「待ってくれ」

「まだ何か?」

「術式は……」

「もちろん、関節外法だ」

 口を開きかけたマリアを、アデレードは手を挙げて制した。

「言いたいことはわかっている。ステラは運動量も多く、体格もいい。関節外法では安定性に不安が残る。とはいえ人のように自家腱移植ができるわけもない。他に方法がないのは君も知っての通りだ。――っと」

 アデレードの腰に、白いボルゾイがねだるように身を寄せた。彼女がその頭を撫でてやると、竜は満足げにゆったり尾を振った。それでほだされたのか、アデレードの表情が和らぐのがわかった。髪が窓からの陽を透かし、彼女のほころんだ横顔に金色の影を落とした。

 ややあって、まっすぐな目がマリアを見た。白衣の胸ポケットに手を当てる。そこに留められているのは杖を象った銀のピン。竜の巻きついた銀の杖――マリアの胸にも飾られる王立協会の公認竜医師証である。

「わがアデレード・ハイリヒヘルトの名に賭けて君に証明しよう。これは、私自身の手で、勝ち得たものなのだとね」

 金の髪、凜々しい面差しと湖面のごとき青いひとみ。傍らに竜を侍らせ、スクラブの上に羽織る白衣はさながらサーコートと見える。そうして不敵に笑って見せる女は、まるで竜を駆ったかつての騎士のごとき口上で、己が決意を宣誓した。

 激してすまなかった、と告げると、今度こそアデレードは廊下を去っていった。その隣に三脚の竜が、そうとは思えないほど優雅な仕草で付き従う。

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