名探偵「柑まあち」の事件ファイル

武野 踊

第1話 帰ってこなかった恋人

 とある街の、とある通りの奥の、とある雑居ビル。

 もしもあなたが、何かに悩んでいるのなら、勇気を出してその小さなエレベーターに乗ってほしい。

 そこで5階のボタンを押すことができたら、あなたの悩みを解決してくれる出会いが、きっとあるから……


「名探偵 柑まあちの 事件ファイル」

 File.1 帰ってこなかった恋人


 そんな話は嘘だと思っていた。

 SNSの都市伝説だと、思っていた。

 だから実際に噂のビルを見つけた時、俺は最初の「マジか」をつぶやいた。

 そのビルに入るかどうか考えている間も、入ってからエレベーターの前に立ってからも、ずっと「マジか」を言い続けた。

 けど、気がついたら俺はエレベーターに乗っていて、5階のボタンを押していて、たどり着いたそのフロアで、心臓をバクバクさせながら、最後の「マジか」をこぼしていた。

 エレベーターを降りてすぐ先にあったのは、木製の、古くてちょっとかっこいいドア。

 レトロっていう言葉がぴったりなそのドアには、大きなすりガラスが何枚かはまっていて、一番上のには金色の文字で「柑 探偵事務所」とあった。

 周りには誰もいない。

 俺は、ちょっと震えている両手を一度ぎゅっと握りしめてから、真鍮製のドアノブに手をかけた。

 ガチャリ。

 少し重々しい金具の音がしてドアが開く。

 中もやはりレトロという感じの空間が広がっていて、すぐ近くの革張りの応接セットなんて、アンティークの代表みたいな感じだ。

 なんだか高そうなカウンターテーブルや書棚や机をぐるぐると眺めて、今更俺はとんでもない場違いな場に来てしまったことを後悔した。

 やっぱり帰ろう。

 そう思った時、部屋の奥のついたてのそのまた奥から、元気な声が聞こえてきた。

「はーい! 今行くけん! ちょっとまっとってー!」

 直後、何かガシャンガランとけたたましい音がして、さらに元気な叫び声も響いた。

 俺は完全にフリーズしてしまって、ワンチャンあった「そっと帰る」という機会を失った。

「うう、痛たた……」

 なんだか満身創痍のていでついたての裏から出てきたのは、オレンジ色の三つ編みを揺らした、背の小さい女の人だった。

 頭の猫耳と尻尾もよく似合ってかわいい……ん?

「え?! 耳? え?!」

 コスプレ、かな、だろうな。クオリティ高いな。いやそんな時か? なんだこれ?

 軽くパニクっている俺に、その女の人は何事もなかったかのように笑顔を見せた。

「そこのソファーにどうぞ。飲み物出すけん、もうちょっと待ってなぁ」

「あ、はい」

 俺は勧められるままにソファーに腰を下ろし、半ば茫然とその女の人を眺めていた。

 ふわふわとしたオレンジ色の巻き毛と、すごくリアルな猫耳と、こちらもオレンジ色の猫尻尾がどれも楽しそうにぴこぴこと揺れている。

 耳も尻尾もコスプレグッズにしてはよくできてるな……本物みたいだ。本物ってなんだよ。

 そんなことを考えながら揺れる猫耳を眺めていると、ぴこぴこしていたのが急に俺の方に寄って来て、目の前でピンと立った。

「おまたせぇ。はい、みかんジュース」

 いつの間にかさっきの人が俺の前のソファーに座り、やはりにこにこしてこちらを見ている。

 机の上にはオレンジジュースの入ったグラスが二つ。

「ここに来たってことは、君、何か悩んどるんよね? まあまずは、命の水飲んで落ち着こう」

 そう言うと猫耳の人はグラスを一つ取ってオレンジジュースを飲み始めた。

 ゴクッゴクッゴクッ……ぷはーぁ!

 まるでおっさんがビールを飲んでるような豪快な飲みっぷり。

 俺もなんだか喉が渇いたので、遠慮なくそれを頂くことにした。

「あ、美味しい」

「あ、わかる? そうなんよ、これただのみかんジュースじゃないんよー。旬の温州みかんだけを絞ったストレートでね、濃縮還元じゃないんよ! すごかろ?」

 なんかすごく熱く語っているが、俺にはイマイチ凄さが伝わってこない。

 このジュースが旨いってことは十分わかったけれど。

 無言でジュースを飲む俺を見て、猫耳の人はポンと手を叩いて言った。

「ごめんごめん、自己紹介がまだやったね。ボクは柑まあち。ここで、やってくる人の悩みを解決しよるんよ」

 悩み……

 俺には心当たりがありすぎるほどあった。

 何しろもう二日ほど眠れていないくらいだ。

 でもこんな話、友人連中にはとてもできない。

 藁にも縋る思いで、たまたま見つけたSNSの書き込みをたどりこのビルにやってきた。

 ここに来れば、どんな悩みも解決してもらえる、と。

 俺は、最大級の深呼吸を一回してから、猫耳の探偵さんに向き直った。

「俺、振られたんでしょうか」

「……ん?」

 首をかしげるマーチさんに、俺は自分の身に起こった出来事を話した。

「ふむふむ、希望の大学に入り、友人たちにも恵まれ、彼女もできたんやね、すごいやん! おめでとう祭りやん!」

 めちゃくちゃ褒めてくれるなこの人……

「え、でもなにがあったん?」

「実はこないだ初めて、夕飯までいったデートして、その店出た後に、俺はもうちょっとこのままいたいなって思ってたら」

「たら?」

 マーチさん、なんか身の乗り出し方がパねえ。

「た、たら、彼女もそう思ってくれたのか、一回帰ってまた来るって言ってくれて」

「おおー! いいやんいいやん!」

「でも、結局彼女にすっぽかされて……」

「お、おおー……」

 あ、なんかしゅんとしてる。

「別れた駅で結構ずっと待ってたんですけど、終電来ても彼女来なくて、かなり落ち込んで家に帰って、それから怖くてちょっと連絡とってなくて」

「うーん、ディナーの後の様子は? 元気なかったりした?」

 俺はちょっと忘れたいと思っていたあの日のことを何とか思い出して答えた。

「いや、楽しそうでした。俺と一緒だと安心できるから、地元の方言とかもでちゃうって笑ってたのに」

「方言?」

「はい。確かそう言ってたと思います」

 その瞬間、マーチさんの猫耳がピコピコピコっと動いた。

「ひょっとして! 彼女さんの地元って?!」

 今日イチの大声。 俺は正直ひるみながら返事をする。

「え、愛媛って……」

「そやろー! そうやと思ったんよぉ」

 急に勝ち誇ったように腕を組み、ドヤ顔を見せるマーチさん。

 でも、どうしてそのことが……あ。

「同じしゃべり方」

「わかった? ボクのしゃべりも愛媛の言葉、伊予弁なんよ」

「はあ」

「ほやけん、もうすっかりさっぱり謎は解けたよ」

「え?」

「あんね、その時彼女さん、『かえってくる』とか『かえってこよう』って、言いよらんかった?」

 ……。

 記憶の中の彼女がほほ笑む。

(そしたら私、かえってくるね)

「言ってました。帰ってから、来るって……」

「それ、違うんよ」

「え? 何が?」

「伊予弁でね、『帰ってくる』は、ただ単に『帰る』のことなんよ。ほやけん、戻ってこんの」

 ……。

「ええええええええ??!!」

 思わず立ち上がり、大声をあげてしまう。

 そんな俺に、マーチさんは優しい笑顔でこう言った。

「びっくりするよねぇ、よく間違われるんよ。彼女さんもうっかり使っちゃったんやろうね」

「じゃ、じゃあ、あの時俺に言ったのは」

「うん、意味としては、普通の『バイバイ、またね』かな」

 俺は文字通りへろへろとソファにへたり込んだ。

 あまりにも、思っていたことと真実とが違っていて、力が抜けたのと、振られたんじゃなかったとわかってほっとしたのと、半々だ。

「なんだ、そうだったのか……」

「そうそう、やけん、早く連絡してあげたら?」

 はっ!

 俺は再び飛び上がった。

「彼女さん的には、楽しかったデートの直後から急に連絡とれんなった、って感じなんやろ?」

「そ、そうでした!」

 すぐに鞄からスマホを取り出し、すぐにメッセージを開く。

 何通もの彼女からのメッセージを申し訳ない気持ちで読み飛ばし、謝罪と会いたいというメッセージを送った。

「はい、よくできました。これ持ってはよ行っとーき」

 ぺこりと頭を下げた俺に、マーチさんがペットボトルを2本渡してくれる。

 そして同時に彼女からのメッセージの返事が付いた音。

 すぐ近くにいるって!

 光速ですぐに行くと返信していると、マーチさんは笑顔でこう言った。

「もろたもろた言われんよ」

「……? あ、ありがとうございます」


 その後俺はすぐにこの事務所から飛び出して、下りのエレベーターに乗った。

 小さな箱の中で一人になったら少し落ち着いて、いろいろ考える余裕も出てきた。

 今度改めてマーチさんのところにお礼に行こう。

 そう思ってふとエレベーターのボタンに目をやると。

「え? 4階までしかない……あれ?」

 俺は確かに5階のボタンを押したはず。はず、なのに。

 謎は解けないままエレベーターは1階につき、俺は箱の外に、そしてビルの外に出る。

 振り返って見上げたビルもやはり4階までしかなくて……

 とんとん。

 肩をつつかれ振り向くと、彼女がそこに立っていた。

 俺達は互いに謝り、互いに照れ笑いを浮かべた。

「あ、それ、『旬・ストレート』ね!すごい!どこで売ってたの?」

 照れ隠しか、いつもより大きな声の彼女。

 俺は、手にしたペットボトルを見て、もう一度ビルの上を見て、笑みを浮かべて。

「えっと……多分、内緒……かな」

 と、答えた。

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