後悔を癒してくれる、後輩が今日もかわいい。

マスターべーターストロング

プロローグ

 ビー玉を月に透かして見つめていると、なんだが月に自分が見透かされているような気がして嫌だった。


 祭りのあと、誰もいない河川敷。

 ラムネの瓶をかち割って、ビー玉を取り出して。

 嫌に澄んだガラスの粒から水面に揺蕩う月を朧気に眺めていた。


 このビー玉の末路のように、おれもどこかへ身を投げて、誰からも見向きもされずただ存在するだけで記憶からも記録からも消え去ってしまえたならどれだけ楽か。


 おれにそんなことができる度胸もなければ器量もなかった。


 誰よりも、愛を受けて育った自負がある。

 誰よりも、優しさをもって生きた自恃がある。

 そして誰よりも、後悔をもって生まれてしまった自責がある。


 その寂しさに虚しさに、今は祭りの後の静けさに息を落とすしかないのだ。


 中途半端に血に濡れたカッターは紙すら切ることはできないし、吐いて戻して転がったウイスキーのボトルも今は芳醇の欠片さえない。

 このままどこか違う世界へ行ってしまおうと押し出した胡散臭い錠剤の粒は、おれをどこへ連れてゆくこともなく、ただ目の前の現実を空になった箱の束と一緒になって押し付けてくるばかりだった。


 気がまぎれるなら何でもよかった。でももうそれも、うまくいかない。

 手を伸ばすたびに、自分の指が腕がどんどんと自分の気が付かないうちに失われていっているようなそんな気分だ。


 もう何も、望んじゃいない。


 一日でも親より長く生きて、ひっそりと消えられりゃもうそれだけでいい。


 だから。


 だから、せめて少しでも。


 誰にも、気づかれることのない平穏を。

 残さなければならない。


 すり減るばかりの心の傷に、気づかないふりをするように、おれはビー玉を水面に浮かぶ月に投げた。

 もう暗くてその行方が分からない。

 でも、きっと綺麗な放物線を描いて。

 あの水面のおぼろげな幻想に、落ちこぼれて消えるのだろう。


 水が跳ねた。


 少し甲高い音がした。


 夏の夜の冷涼な声音が、ゆっくりと耳朶を撫でた。


 そう、おれの真後ろで。

 ……真後ろ?


「…ビー玉、綺麗ですよね。月みたいで」


 おれの真後ろに、青白い月光にあてられて今にも透き通るほどの透明感を持った少女が独り、月を見ながら微笑を浮かべて小首を傾げていた。

 月のように白く透き通った肌に、少し気だるげなそれでいて柔らかい印象を受けるジト目。白地にナイトブルーのリボンのついたセーラーワンピース。ちょこんと可愛らしいキャスケット帽をかぶっていて、その姿がどこか堂に入っていて、可愛らしいとはまさに彼女のためにある言葉ではないのかと思うほどにおれの目には衝撃的だった。

 


 何億光年も離れた夜空に輝く星、おぼろげに霞む月。

 しかし、その幾年もの時間と輝きの連続性とを今にも止めてしまえそうなほどおれの目には美しく映った。

 おれと同じ屋台で買ったのだろうか、華奢な指先がラムネの瓶を掴んでいる。

 それを小さな桜色の唇にもって行くと、彼女は少し瓶を傾けた。ビー玉が揺れた。彼女の流麗なピンクベージュの髪が風に揺られた。

 空には花が、夏の音がした。


「綺麗ですね、花火」

 

 月夜に弾ける色鮮やかな音たちのなかに。

 ひっそりと鈴を転がすような人懐っこい甘い声音が、なによりも透き通って聞こえた。


「ああ、綺麗だな」


 柄にもなく、そんなことを呟いた。


 高校一年生。

 夏の幻に照らされた、遠く儚い思い出は。

 空にかかった火の花の、眩い光に消えた。


「………ん」


 ピピピピと、無機質な目覚まし時計が耳朶を揺らした。

 ほの明るいカーテンを透かした光に、目を細めた。


 久しぶりに、あの日のことを夢に見た。


 今でも、あの時のことを単なる夢だったのではないかと時々思う。


 でも、夢として片付けるにはあまりにも形づいていて、忘却の彼方へ捨て去るにはあまりにも色めいている。


 たった数分、一緒にいただけ。


 それでも、時々こうして夢に見る。


 なぜなのだろうか、自分でもそれが分からない。


 ゆっくりとカーテンを開いて、外を眺めた。

 いつもよりどこか空が高くて、天気は良好。


 あいつの名前、なんだったっけな。


 夢の内容をもう一度ぼんやりと思い出しながら、眠たげな眼を擦った。


 ゆっくりと、体を起こしていつもどおり時計に目をやるとそこにはいつも通りの時間が_____え。

 おれはもう一度目を擦って、かぶりを振って自分が正気か疑った。

 深呼吸をして、自分の正面にある時計をゆっくりと見据える。


 そこには、やはりいつも通りの時間が…ない。


 マジかー、そっかー、やったか、おれ。


 頭を抱えてため息を一つ。

 時刻は8:50分。

 通学に一時間を要するおれにとっては絶望以外のなんでもない。


「はぁ…ただの遅刻ならまだいいんだけど…」


 そう。

 おれは完全にやらかしてしまった。

 だって今日は。


「始業式、なんだよなぁ…」


 おー、よくみれば窓から見える空がいつもより明るくて高い。そういうことか、そりゃ高いわ。


 さーて、新しいクラスへなじむ最初の一歩を踏み外した男はどうやってこの一年をやり過ごすやら。


 なんて、空元気に他人事のように自分のことを考えながらぐーっと体を伸ばすとあくびも一緒に出て、今更ながらに、早く起きなかったことへの後悔の念が湧きだしてくる。


 勇気は一瞬、後悔は一生。


 されど後悔は、一瞬にしてやってくる。

 この後悔をどう癒せばよいものか、今日もまた後悔しながら足掻くとしよう。

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