大草原の小さなお城 -比興之人-
hot-needle
第1話 死人は文句を言わぬ
後にメガンの合戦と呼ばれることになる光と闇の一大決戦は、敵も味方も予想もしなかった形で決着を迎えた。
西部国境を侵した神聖連合軍に対し、魔王エメルダスは直ちに軍を催し魔都を出陣した。道々参陣する軍勢を加えつつ、メガン平原東端のレツドと呼ばれる集落に着陣。そこで陣立てを整え、二日後に雨をついて平原を南北に横断するレネ川左岸に進出して、川を挟んで連合軍主力四万八千と対峙した。
集められるだけの軍勢を掻き集めてその数七万五千。乾坤一擲の大勝負といってよかった。
魔王軍は士気横溢。
「このまま押していけば、魔王様大勝利」
魔王軍の
翌朝、晴れ上がった青空の下、魔王軍は勇壮な敵前強襲渡河を開始した。逸って突出したエメルダスが河原に馬を乗り入れたとき、突如葦の茂みに隠れていた伏兵が矢を放った。驚いた馬が石に滑って横倒しになり、落馬したエメルダスは連合軍の兵に易々と刺し殺されて
英明にして勇猛果敢、歴代魔王のなかで最も傑物と評された魔王エメルダスの、何とも呆気ない最期だった。
総大将を討たれた魔王軍は瞬時に瓦解した。
あとは全軍壊走である。
身軽になろうと得物を捨て具足を脱ぐ者、どさくさに味方の財物を盗み取る者、逃げ道を争って味方同士で争う者。兵たちの逃げ散る様は、見ていて胸が悪くなるほどだった。
「これが
川にほど近い小高い丘で、馬上の武者が吐き捨てるように呟いた。車輪の前立をした
だが、その顔は四角く武骨すぎた。乱雑に刈り込んだ黒髪には白いものが目立ち、魔族を示す青灰色の肌に裂け目のような皺がいくつも走っている。そこに老いた犬のような
男の名はゲベル・グイナン。魔王国の北の
エメルダスは連合との決戦に向けて、各地の兵を容赦なく動員していた。彼も魔王の黒印を押した動員勅令を受け、手勢を率いてはるばる南下してきたのだ。それが、敵と干戈を交える前にこの
ゲベルは、忌々しげに鞍の前輪を叩いた。
「
また始まったと苦り顔の馬廻衆を見回して、噛みつくように言った。それから空を仰ぎ、
「エメルダスの
天に届けとばかりの大音で魔王を呼び捨てに罵った。そこには亡き魔王への哀惜など微塵もなかった。
なおも魔王への
「殿様、そのような放言は聞こえが
背後に控える馬廻筆頭が、高い声で
頭頂部が平らな
ゲベルは振り向いて堕天使を睨みつけ、
「知るか。どうせもう死んどる。それに見よ。誰が聞いていると申すか」
崩れるように敗走する味方に向かって顎をしゃくった。
「我らも
「わかっとるわい」
「方陣を組め。逃げ首取られるは武人の恥ぞ。粛々と退くべし」
不安を紛らわすように、兵たちが一斉に動き出した。
「大砲は散弾を
陣夫の大半はイスの村々から徴集した百姓たちだが、ゲベルは彼らにも鉄砲の操作を教え込んでいた。
「鉄砲衆は火種絶やすな。替えの
「黒鍬、輜重は陣中へ入れ。重騎兵、襲撃騎兵は方陣外周を固めよ。差物、合印は一切無用じゃ。全て捨ててしまえ」
たちまち地面が三つ首紋の旗で覆われた。ゲベルは堕天使の馬廻筆頭に向かって、
「ナインよ、大将旗と
「よろしいのですか。魔王様からの賜り物でございますぞ」
「構わん。死人は文句を言わぬ」
雪崩を打って敗走する魔王軍の中に、固く方陣を組んだ一隊が踏み止まっているのを見つけてまず驚いたのは、連合軍の先陣を務めるゼネキデア帝国の猛将ボルド将軍だった。戦場では終始酒を飲み笑みを浮かべながら敵を追うこの異常な武将の顔から笑いが消えた。
「近寄るべからず」
配下の者たちが槍を寄せようとするのを押し
「あの陣は
戦慣れているボルド勢は兵を引いた。
方陣は、じりじりと後ろに
イスの銃兵は大半がダークエルフで、
連合軍の兵も、勝ちの決まった戦で怪我などしたくないと思ったのだろう。次第に方陣から距離を置き、背板を見せて逃げる他の敵を探して追いはじめた。やがて方陣の周囲だけ奇妙な無風地帯となった。
敵が寄せてこないと知ると、ゲベルは槍を立てさせ、トロルの砲手に命じて砲に馬を繋いで方陣の歩調を早めた。その動きを見て、我も我もと逃げ遅れた者たちが寄ってきて、いつの間にか二千ばかりの小勢は倍近くに膨れ上がっていた。
「迷惑千万。これでは鉄砲も矢も放てぬ。射界を
方陣の中央を進む古い星兜の騎馬武者が、方陣の周りに
「放っておけ。人垣と思えばよいのだ。それより、構えて方陣の中に入れるべからず」
ハンの後ろを進むゲベルが酷薄に言い放った。
「まったく、とんだ面倒ごとに巻き込まれましたな」
「繰り言は後だ。今は無事イスに帰ることのみ考えよ」
苛立たしく周囲を見回すゲベルの目がふいに止まった。
「殿、いかがされた」
ゲベルは答えず、ただ敗兵の群れの一点を
「あれは何だ」
ハンが顔を向けると、月毛の馬に横乗りした
「女でござるな」
「それくらい見れば判る」
ゲベルはハンに失望したように口を曲げた。
「敗軍の中に旅姿の女。
鞍の女は顔を
「言われてみれば、その通りでござるな。どこぞの大将に身を寄せていた白拍子でござろうか」
白拍子とは、貴人や富貴な者を相手にする
「
ゲベルは鼻で
「白拍子なら、落人どもと道行きを共にする道理があろうか」
いつ
「それにあの武者だ」
口取りしている
「ふむ、相当な手練でござるな」
ハンも二人から目を逸らさず、呻くように答えた。
「何ぞ訳ありなのだろう」
ゲベルも奇妙な主従から目を離さずに呟いた。と、一陣の風が垂衣を持ち上げ、女の顔が露わになった。
細面のダークエルフの女だ。吊り目がちの一重の眼の中の紅い瞳がやけに目立つ。その眼がゲベルに気づき、薄く紅を引いた唇が
一瞬、ゲベルは息を忘れて魅入られるように動きを止めた。
「ダークエルフにしては線が細いが、あれは
「う、うむ、そうだな」
改めて目を向けたが、すでに女は垂衣を直していた。それでもゲベルは暫く女を眺めていたが、
「何ぞ訳ありなのだろう。放っておけ」
諦めたように視線を外した。このような些事に関わっている暇はない。今のゲベルには、他に考えなければならないことが多すぎた。
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