第16話 惨めな女
私はすぐさま陽向に電話を掛けた。「どした?」とこちらを覗く京子に、口の形だけで先に戻るように促す。
五回目で呼び出し音が鳴り止む。
「陽向、どうした?」
『美月さん、私怖くて、どうしたらいいか分からないの』
陽向の普段の態度からは想像もつかないような弱々しい声が聞こえる。
「陽向、今どこに居る?」
『自宅よ』
「待ってろ。すぐに行く」
電話を切った私は勢い良くトイレから飛び出し、京子たちの元へ戻る。
「京子悪い、急用できたから帰るわ」
「え?マジ?」
驚く京子を尻目に、私は再び駆けだそうとする足を止めた。悟志と龍生を無理やりどかして、ソファー席の奥に縮こまっている恭平の胸ぐらを掴んで引っ張り出した。
「お前も来い!」
恭平だけでなくその場にいた全員が、間抜けな顔で私たちを見送った。ああいうのを「鳩が豆鉄砲を食らったような顔」と言うのだろう。去り際に、「連絡先だけでも交換しようよ」と言う悟志の声が聞こえたが、振り返ることは無かった。
「ちょ、ちょっと、な、何するんですか」
私は掴んでいた恭平のシャツを離す。
「お前、ああいうの興味ないだろ」
「だ、だから帰れって言うんですか?」
「ウチもそうだから帰んだよ」
恭平は油で濡れた手をシャツの腹の部分で拭っている。
「美月さんってカッコ良いんですね」
そう言う恭平の瞳の奥に、確かに羨望の光を見た。
「お前、見る目あるよ」
私は、陽向の家を目指して走りだした。
途中で、陽向に何が起きたのかしっかり聞かなかったことを後悔した。怪我でもしているならドラッグストアに寄ってから行くべきだし、何にしても状況を確認するべきだった。
普段ジョギングで使っているスニーカーと違って、学校指定のローファーは走りずらい。カツカツと音が鳴るばかりで、一向に陽向の家に辿り着く気がしなかった。
クリーム色の外壁に黒色の屋根を乗せた二階建ての建物がある。ブロック塀に囲われた庭には、山百合の校章が描かれたシールの張られた自転車が停まっている。
私は息を整えながらインターホンを押す。少しの間を置いて、ゆっくりと扉が開いた。
現れた陽向は顔を伏せて、表情を探らせない。
「陽向、大丈夫か?」
「美月さん、走って来てくれたの?ごめんなさいね。どうぞ入って」
陽向に導かれて家に上がる。日が暮れた薄暗い屋内を、彼女の背中を見つめながら歩く。彼女の両親は共働きで、いつも帰りが遅い。私たちの足音だけが、耳の奥に響くだけだ。
陽向はリビングに入るまで一度も口を開かない。助けを求めた割には悠長なものだと思った。対面型のキッチンから見える冷蔵庫に足を向けた陽向は、中からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。
「美月さん、これどうぞ」
「陽向、いい加減何があったか教えろよ。もう平気なのか?」
痺れを切らした私は、ペットボトルに口を付けながら問い質す。
「み、美月さん。落ち着いて聞いて欲しいの」
「何が?」
何故私が落ち着く必要がある?
「真友さんが、真友さんが」
陽向は声を震わせながら私の制服のみぞおちの部分を掴む。何度か確かめる様に呼吸をした後、絞り出すように言った。
「死んだの」
私は俯いたままの陽向の顔を両手で掴んで、無理やり私の方へ向けた。彼女はその両目に涙を溜めていた。
「今なんて言った?ウチの目見てもう一回言ってみろよ」
陽向の表情に、悲しみと怯えが入り混じる。冷や汗が背中を伝う。
「真友さんが校舎から落ちて死んだの」
整えた息がまた上がる。
「それでお前はここで何やってんだよ!」
力の抜けてしまった陽向を殴るような言葉が飛び出る。私は乱暴に陽向の顔を離した。
「ごめんなさい。でも私怖くて」
「何言ってんだよ。真友のことそのままにして帰って来たのかよ!今からでも学校行くぞ!」
私はスマートフォンを取り出すと、真友に電話を掛ける。誰も出ない。
私は陽向の腕を掴んで、無理やりリビングから引きずり出す。頭に血が上って、何も分からなくなっていた。寧ろそのおかげで、心の奥から這い上がろうとする不安に足を取られずに済んでいるのだと思う。
「待って、美月さん聞いて!」
「何だよ!」
力無く引きずられるだけの陽向の胸ぐらを掴んで立たせる。
「は、華さんが……」
「まさか、華と一緒に落ちたのか?」
真友と華が手を繋いで校舎の屋上から飛び降りる姿が、今その場にいるかのように、鮮明に脳内に現れる。私に毟り取られた真友の翼は羽ばたく力も無く、ただ地面を目指して落ちていく。私がどんなに手を伸ばしても、真友には届かない。
私は陽向の頬を力任せに張った。
「泣くな!ちゃんと話せ!」
陽向は鼻を啜りながら私に向き直る。
「ま、真友さんが、華さんと喧嘩してて、内容は良く分からなかったけど、華さんが何か酷いことを言ってるみたいだったわ。それで真友さん泣いてしまって、それなのにしつこく暴言を吐いているみたいだったの。真友さんが言い返して華さんが帰って行った後、真友さんも帰ろうとしたわ。だから私真友さんを助けなきゃって思ったの。三階の教室に入って行くのが見えたから、後を追って行ったら…………何かが落ちる音がして………教室に真友さんは居なくて………私…………」
陽向は嗚咽を漏らしながらうなだれる。
「真友が、落ちたかどうかは、確認したのか」
「教室の窓から確認したわ。怖くて、どうしたら良いか分からなくて、それで美月さんに連絡を………」
もう一度陽向の頬を張ろうとする自分を、舌打ちを三回することで打ち消す。胃がムカついて足が震える。
「今から学校行くぞ」
「もう外暗いのよ!これから行ってどうするのよ」
「救急車呼ぶに決まってんだろ!」
それに、こればかりは自分の目で確かめない限り信じられない。真友がこんなに早く、私の前からいなくなるはずがない。私が彼女の手を離したのは、いつか必ず帰ってくると信じていたからだ。それをあの華が滅茶苦茶にした。
私は再び陽向を引きずりながら玄関へと向かう。
「美月さんお願い待って!今から行っても何にもならないわ。こんな時間に学校に戻って真友さんを見つけたら怪しまれるに決まってるわ。そしたら私が見捨てて逃げたんだって言われるに決まってるわ!」
「お前、何言ってんだ?そんなもん、連絡が取れないから探してたとか、適当なこと言えばいいだろ!」
「お願い、本当にお願いよ。私のこと助けて。美月さんしか頼れないの。私怖いの」
「私たち友達でしょ?」と言う陽向の瞳の奥に、羨望と救済の光が初めて見えた。彼女は綺麗な顔をぐちゃぐちゃに濡らして私に縋っている。その姿から、真友がもう居ないのだという現実が、私にのしかかってくる。
「とにかく学校に行って確かめる。話はそれからだ」
私は庭に置いてある自転車の鍵を陽向から奪い取る。陽向は観念したのか、黙って私の後ろに乗る。私の腰に回した腕が震えている。
街灯が照らす道を、全速力で自転車が走る。ペダルに力を込めること以外は考えない。真友の顔さえ思い浮かべなかった。
学校に着いた途端、勢い良く自転車を乗り捨てる。陽向は自転車と共に地面に倒れた。うめき声とも泣き声とも分からないような声を背中に聞きながら、私は敷地内を走った。自分でもどこを目指しているのかわからない。只真っ直ぐに、心の衝動のままに体を動かした。口の中がねばつく。息が上がってうまく声が出せない。
確か陽向は、真友が三階の教室から落ちたと言っていた。暗闇にそびえ立つ校舎を見上げる。三階の窓はどこも開いているようには見えない。私はあたりを見渡しながら真友のことを探した。
自分のスマートフォンから真友のスマートフォンを呼び出す。耳に聞こえる呼び出し音がうるさく聞こえるほどに、何の気配も感じられない。息を切らすように真友の名前を呼ぶ自分の声が、一層焦りを募らせる。
呼び出したままスピーカーから耳を離す。懐中電灯の機能を立ち上げて注意深く校舎の周りを探した。暗闇が光に照らされる度に、そこに真友が居ないことに安堵した。きっと何かの間違いだ。今日の陽向はおかしかった。霧のような女があんなにも感情を曝け出して、私に助けを求めてくるなんて、そもそも不自然じゃないか。そうだ、ドッキリだ。私以外の奴らが画策して、私をビビらせようとしているんだろう。どこかの陰で撮影でもしてるんじゃないのか。それか、それか、陽向に何かあったんだ。おかしくなって適当なことをわめいているのかも知れない。親が遅くまで帰ってこないから寂しかったとか、そんな可愛い理由かもしれない。だったらこんな馬鹿げたことはやめにして、彼女の頭でも撫でてやろう。今回だけはいたずらで許してやる。そんなことを考えていた。
でもそれは願望でしかなかった。
微かに電子音が聞こえる。それは私のスマートフォンから流れている音と同じだった。音のする方へライトを向けると、校舎を取り囲むようにして設置された花壇の一角が浮かび上がる。
私はゆっくりと花壇に近づいた。震える足を引きずりながら、早くなっていく呼吸を感じる。もう息を吸っているのか吐いているのかさえ分からなかった。うなじの辺りが痺れる。
電子音は確かにそこから聞こえる。ライトを照らすと、その周辺だけが雨上がりの様に光を反射した。
花壇から、山百合の制服の袖と、人の腕が伸びていた。ゆっくりとライトを持ち上げる。うつ伏せに倒れている人間の下敷きになるようにして、黒く湿ったリボンが見えた。私は口を押えて、吐き気を必死に抑えた。
リボンの上には、虚ろな瞳でこちらを見上げる真友の歪んだ顔があった。
翼をもがれ、地面に落ちた私の天使。可愛らしくて、泣き虫で、弱っちい真友。私の真友。
私は、横たわる真友に向かって手を伸ばす。もしかするとそれは、真友の顔をしているというただそれだけの物かもしれない。ふらつく足取りで何とか体を支えていた。目の前がボヤけて、自分がどこに焦点を合わせればいいのか分からない。これ以上考えることを、頭が拒否していた。
今にも倒れそうな私の背後で布ずれの音がする。首だけを回して背後に目をやると、そこには暗闇が広がっている。そして地面を擦るような不気味な音が続く。
私の足元に、黒い塊が落ちていた。それは長い髪を地面に付けて、額を擦り付けるようにうずくまっている。あの西川 陽向が、嗚咽を漏らしながら土下座をしていた。
「美月さん、お願いです。見なかったことにしてください。私と一緒にこのまま帰って下さい」
私は陽向を見下ろしたまま動かない。ここまで来ても尚、自分の保身に走る彼女を軽蔑した。私の目の前にはもう、あの霧のような女は居ない。惨めな一人の女がいるだけだった。
「陽向、もういいよ。帰れ」
私は真友の顔をした何かに向き直る。全てを投げ出してしまいたかった。
「私もう華さんを信じられない。真友さんをここまで追い詰めた人と、明日からどんな顔して会えばいいのよ。美月さんだってそうでしょ?真友さんはもう居ないの!華さんだってそう。私これ以上友達が居なくなるなんて耐えられない。私にはあなたしかいないの。だから、だから私のこと助けてよ!お願い、一緒に帰って!美月!」
陽向は顔を上げて私の足に縋りつく。私を見上げるその泣き顔に、真友の泣き顔が重なった。
もうどうでもよかった。
私の体から力が抜けて、その場に膝から崩れ落ちる。真っ暗な地面を見つめながら、自分の両手で顔を覆った。
汗塗れの髪を撫でる感触。匂い。耳元で感じる息遣い。真友の泣き顔。揺れるポニーテール。
「将来ミツキちゃんのお嫁さんになってあげる!」と笑う顔。
大きく息を吸う。それを全ての煩わしい感情と共に吐き出す。
傍らには、まだ泣き止まない陽向の頭があった。それを優しく、慰めるように撫でる。
「美月…………」
陽向は安堵したように、私を抱きしめてくる。
本当にもう、どうでもよかった。
自転車を陽向に返して、一人夜道を歩く。陽向は別れ際まで「ごめんなさい」を何度も何度も、うわ言のように繰り返していた。
頭が痛い。喉も乾いている。どこをどうやって帰ったのか自分でも分からなかった。
電気のついていない自室に、月明かりが差し込む。暗闇に浮かぶ月を、初めて見るかのように睨んだ。
「一寸先は闇だ」と、下らない大人たちは言う。明日のことなど、本当は分かりはしないのだと。そんなことは初めからわかりきっている。私と同じで、人はいつか死ぬのだと、皆信じている。それなのに下らない奴らは、「今日は不死身である」かのように振舞っている。死に怯えながら、それが遠い未来の話だと思っている。
目の前に闇がある。生まれた時からそこにある、深い闇が。
私が一歩進むと、闇もまた一歩下がる。初めは恐る恐る踏み出す。でもそれが続いて行くと、人はいつか忘れてしまう。振り返ってみれば綺麗なもので、自分の後ろには、真っ直ぐな道が一本繋がっている。だからこの一歩もまた、今と変わらず道が続いていると思い込む。
横に並んで一緒に歩いている人なんかにうつつを抜かしていると、ある時スッとその人が闇に呑まれていく。するとまた人は怯える。踏み出す一歩が重くなる。
下らない奴らはここぞとばかりに口を開く。「一寸先は闇だ」と。見えていながら気にしないことにしていたことに、今更向き直っただけの事なのに。
私の前には闇がある。私を包み込む深い闇。その中にはただ一人、私がいるのみだ。
私は、闇に漂う、孤独な月。
誰かが真友の名前を呼んでいる。何度も呼びながら、叫び声をあげている。
うるさいな。そんなに見っともなく泣きわめいたって、何も変わりはしないのに。
でもその声がどこか、私の声に似ている気がした。
こういう時に限って、舌打ちは聞こえてこなかった。
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