番外編 「電気ウサギはお月さまの夢を見るか?」




 最近、家で杯を傾ける時間が楽しい。

 それというのも、あれこれと忙しい妻に代わって、晩酌の相手をしてくれる相棒ができたからだ。

 ラジオのスポーツ中継を聞きながらちびりちびりとアルコールを口に運び、地熱ストーブの吹き出し口に足を投げ出して床に座り込む――潔癖症ぎみの妻からは小言を言われる体勢だが、そうやってぼんやりと仕事とは関係ない事柄を思い出したり、目が滑るのに合わせて新聞を読んでいる時間は、至福の一時ってやつだ。

 妻は夜になる度に、昼にはできなかった編み物をしたり、料理の下ごしらえに精を出したりしている。昼にやれば良いだろうと言えば、近所の奥様連中との対話に忙しいのだそうだ。

 いつの時代でも、昼の奥様方は噂話を咲かせる事に大忙しのようだ。

 まあ、今回に限ってはそれも仕方がないと思いつつ、傍らに振り返る。

 最近の晩酌の相手をしてくれる相棒がそこにいる。

 狭いケージに入ったままであるのが不憫で申し訳ないのだが、我が家には元々いなかった家族なもんだから、先の飼い主の道具をそのまま使うしかないのだ。

 ウサギである。

 扁平なボールじみた体型に、ぺたんと倒れた耳で、せわしなく鼻をひくつかせている。

 ケージ越しに深い毛並みに指を埋めてみながら、スポーツ中継の解説や展開予想を語る。

 妻はわからないからと、相づちすら打ってくれないが、ウサギは最初から返事をしないだけマシだ。期待してないだけ、気軽に話しかけられる。

 餌をはんでる姿などは見ているこちらも気分が良くなる。自分が酔って楽しくなっているように、この小さな獣も少しは楽しくなっているような気がするからだ。

 とはいえ、獣である。

 妻はウサギに触る度に、あまり良い顔をしない。

 嫌々ながら調達してきた野草をはむ姿など、気分が悪くなってしまうらしい。ついには、その姿を見慣れてしまって愛らしいとすら感じる夫をも蔑む始末だ。

 獣といっても、ペットになっているぐらいだから、彼女が心配するような野獣の類――血液が噴出したり内蔵や肉が飛び出してくる気持ちの悪い、植物が悪い意味で発達したような野蛮な生き物――ではあるまいと思うのだが、これが少々事情があるのだ。

 なんせ、このウサギはその野獣の死体が転がっていた家で飼われていたウサギだからだ。



 妻と一緒に今の家を借りたのは、二年前の事だった。

 比較的安い物件と理想的な住宅街の中にある事から、二人で手を取り合って喜んだものだ。

 だが、しばらくたって、なぜ安いのかという理由を思い知った。

 隣人が、一言で言うと、変人だったのだ。

 彼らは植物を育て、その実を食していたのだ。

 全く理解できない事に。

 もちろん、今でも理解できない。

 だが現実に――休日、何気なく隣りの庭を眺めている時、隣りの奥さん――キャロルさんが、庭先に繁らせていたベリーの実を一つつまみ、何気なく口に入れたのを見た時、言いようのない恐怖を感じたものだ。

 足下の白石ではなく、植物の実だ! 子供だってそんな事はしない!

 そもそも、壁を浸食するツタを放置しておく事そのものがおかしな事だと言わざるを得ない。蛇が巻き付いているよりはマシって程度で、あの絡まる動植物が壁に張り付く様を平気で放置しておける感覚は、どうにも理解に苦しむ。

 だが、そういう外観や食生活以外において、隣の人々は理想的なほどに親切な人たちであったことも否めない。

 娘さんのアリスも、一緒に住んでいたおじさんだというシグも、奇怪な行動をとったキャロルさんも、皆、人当たりの良い人々で、壁のベリーはともかく、一般的な雑草の片付けや凍結して壊れた家屋の修復などは、妻や自分が気づくより早く見つけては、手早く修理してくれたぐらいだ。

 会話も不快な目にあった事はない。

 強いて言うならば、様々な年格好の人々が入れ替わり立ち替わりする家であった為、何度も家を間違えられたことぐらいだろうか。

 間違えた訪問者たちも、総じて気のいい連中だった。年も背格好も共通したところはなかったけれど、まあ、変人には変人なりの人の良さがあるのだろうと思ったもんだ。

 それでも、引き払って引っ越すほどの騒ぎにはなり得なかった。

 妻も、他の近所の奥様連中と仲良くやってたし、キャロルさんもその輪の中にいたのは確かなのだから。


 その隣家に不幸が訪れたのが、数週間前。

 住んでいた三人、全員が殺されたのだ。


 犯人は捕まっていないし、そもそも、いろんな人々が出入りしていた家だ。旅行者じみた人間も少なからず居た為、捜査は難航しているとも聞いた。

 だが、何よりも。

 奥様連中も妻も体を震わせて噂しているのが、正常な死体がアリスのものしかなかったという状況だ。

 キャロルとシグの死体も無かったわけではないが、どう見てもそれは野獣の類と同じ身体構造を持っていて、とうてい人類だとは認定できないというのだ。

 まるで、キャロルとシグの皮をかぶった獣のようだったという。

 捜査が進み、彼ら三人が全く身よりらしい身よりのない人々だったとわかるにつれ、ますます噂は拡大していった。

 この地方の都市法に従い、身よりのない人々の遺品は近隣住民へ分配された後、残った品を地熱で処分される。

 資源や居住区が限られてしまう以上、当然の方法だ。遺品だからと無駄に捨てる必要はないのだから。

 遺品だからと拒否するならば、地熱で大地に還せば良いだけだし。

 そんなんで、キャロルさんたちの遺品は、自治会で公開され、分配された。

 これが少し不思議なのだが、妻達は不審な遺体の状況について散々議論を戦わせ、散々気味が悪いと騒ぎたてていたにも関わらず、遺品の公開には嬉々として連れ立って行くのだ。

 結果、妻が引き取ってきたのが――アリスの飼っていた、このウサギというわけだ。


 なぜこのウサギを選んだのかと尋ねたら「私が通ると追いかけてきたから」と言う。

 ウサギは犬ぞりの犬のように役に立つものでもないし、非常時に何かしてくれるような賢さがあるようにも思えない。

 当初はがっかりしていたが、妻に言わせれば、まだマシな方だという。

 他は到底理解できないような絵画や設計図、そして植物の山だったそうで、不審死に納得すると同時に気分が悪くなる奥様が続出したそうな。

 そんな中、ウサギはまだ身近な存在だったけれど、エサ代やエサがわからないからと、誰も引き取らなかったらしい。

 それにもかかわらず、ちょうど通りかかった妻の足下を追うように、ケージの中でウロウロと歩いた姿は、妻の共感を呼んだというわけだ。

 ところが――そんな運命的な経緯があったにも関わらず、先に気持ち悪いと言い出したのが妻なもんだから、本当に女心というものはいくつになってもわからない。

 そんなんで、最初は衝動買いにも似た遺品の引き取りに呆れていたのだが……これが意外な事に、私の生活に欠かせない相棒となっていたわけだ。



 今も、ラジオから流れる音楽を聴きながら、アルコールを片手に床に転がり、傍らのウサギに仕事についてぼやいているのが、楽しくて仕方がない。

 ウサギが来るまで、いったい、どうやって晩酌をしていたのかわからないぐらいだ。

 秋になって、同僚と外で呑む機会が減って――日が落ちたら寒すぎて外出できないからだが――少々物足りないと思っていたのだが、とんでもない。

 杯をあおりながら、ほんの少しだけ、自分は自分の話を聞いてくれるモノが一人でも一匹でもいれば満足できるんだという事実に寂しく感じたりもするが……それすらもウサギはちゃんと聞いてくれるし、たまには鼻をひくつかせて相づちを打ってもくれる。

 気のせいだろうがなんだろうが、それだけで楽しいのも事実だから、相当、酔ってもいるし疲れてもいるのだと自覚してる。

 でも自覚しているのと解消できるのは違うだろう?

 だからこそ、ウサギ相手のヒトトキは、大事なここ数週間の楽しみだった。




 ある日、いつもどおりウサギと語りながら呑んでいた夜。

 不思議な夢を見た。

 見慣れた夜空には、まん丸の黄色とも白とも呼べない天体が迫っていた。

 それを見上げるのは、まぎれもなく、我が家のウサギ。

 扁平な体を直立させ、耳をぺたんと倒し、鼻をひくつかせながら燕尾服で、人間のようにイスに腰掛けている。

 どこからか懐中時計をとりだし、目の前の真っ白な丸いテーブルに置いた。

「旦那さんには、いつも楽しいお話を聞かせてもらってます」

 ウサギは、妙にイラつく甲高い声で、そう言った。

「だから、これはお礼です」

「お礼?」

「みなさんがやった事のない、お月見って奴です」

「おつきみ? なんだ、それ?」

「月のない星に住んでる旦那さんにはわからないでしょうが、まあ、風流の極みって奴ですよ」

「風流?」

「どうです? こんな夜空、旦那さんは見たことないでしょう?」

 ウサギは鼻を猛烈な勢いでひくつかせ、得意げに空を見上げた。

 真っ暗じゃない空――もちろん、夜空一面が星で白く輝く姿を見たことがないわけじゃない。

 でも、ウサギが見ろと言っている「おつきさま」とやらは、今にもこちらへ向かって落下してきそうなほど大きく、気が気でない。

 こんな大きな星、こんな大きな隕石、見たこともない。

 大きなクレーターもはっきり見えるし、全体としては巨大な目玉のようですらあるのに、これのなにが面白いのか、さっぱりわからない。

 ウサギにバカにされることだけがイヤでその場に止まっていたが、逃げ出したくてならなかった。

「あそこに住んでたんですよ」

 ウサギはそんな事を言った。

「おまえ、あんな、目玉の星にいたのか?」

 我ながら間抜けな質問だと思いつつ、夢だから仕方がないと納得した。夢って奴は、どうしても直接的な表現になってしまう。思考の一時置き場がない。困ったもんだ。

 ウサギは否定も肯定もしなかった。

 聞いてなかったかのように続ける。

「旦那さんと話せるのは、月の夜の、そして旦那さんが泥酔してる時だけなんです」

「そうなのか?」

「今までも何度か連れてきたんですが、旦那さん、いつも忘れてしまうから」

「そうなんだ?」

「今日はまだ少しまともかな?」

「おまえ、何をしたいんだ?」

 ウサギは、空からこちらに向きなおって言った。

「旦那さんと、故郷を眺めたかっただけですよ。それだけが楽しみなんです。旦那さんが私に話すのが楽しみなように、私は誰かをここに招待して、一緒に月見をすることだけが楽しみなんです。意味も何もないですよ」

「それだけが?」

「もう、みんな居なくなってしまいましたから。もう、旦那さんだけなんですよ。あの月を見れる人は」

「みんなって、キャロルさんたちか?」

「みんなはみんなです」

 他にも何か話したと思うけど、思い出せない。

 もちろん、ウサギはいつもどおりだ。

 草を食べること以外、普通のウサギだった。




 ところが事件は唐突に訪れた。

 ある日帰宅してみると、ケージごとウサギが居なくなっていたのだ。

 妻に問いただすと、あっさりと答えた。

 曰く、健康診断の検査に出したから、と。

 ずいぶん気に入ってるみたいだから、ウチで飼う為に病気を持ってたりしないか、確認したかったのだという。

 なんせ、キャロルさん達が飼っていたウサギですからねと、妻は念を押した。

 そう。あの植物を食べる人たちの飼っていた動物だ。そしてこのウサギが植物を食べる姿は確認済みだ。

 つまり、獣の一種である可能性も高い。

 愛玩用のウサギは、通常、カルシウムの多い岩石を主食とする。変わったところでは石炭なんかを口にする種類もあるようだけど、一般的には石灰の類を与える事が多い。

 キャロルさん達が育てていただけに、そして食べるに任せて植物を食べさせていたのだが、妻にはそれがどうしても我慢ならなかったのだろう。ペットならペットらしく、石灰を食べろと言いたいらしい。

 だが、植物を食べる姿しか見たことのなかった妻としては、いざ石灰を出して食べなかったら、怖くてケージにふれる事もできないというのだ。

 だから、検査で獣だとわかったらそのまま処分してもらうという。



 なんてことをしたんだと思った。

 昨夜、酔いつぶれる前に見た鼻をひくつかせる仕草が最後の別れになるとは思いたくなかった。

 こんな事なら、せめて朝もケージに挨拶して出ていけば良かったと思うが、すでに後の祭りだ。

 妻はなぜ怒っているのかわからないと言い、こちらもなぜ怒っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。

 あのウサギが普通じゃないと、うっすら思っていたからだろう。

 あの夢の事もある。

 見たことのない風景の中、しゃべるウサギ。

 夢なんて、子供の頃に一度見たきりだ。

 それをあのウサギが何度も見せてた?

 忘れてるだけで?

 それを信じるか?

 いや、信じる信じないではなくて。

 それ以上に、ここ数日の楽しみを、一瞬ではぎ取られた無念さが、ずっしりと堪えた。

 こんなにあのウサギが気に入っていたのかと、目の前に突きつけられた気分だった。

 今晩、どうやってすごそうか。

 そんな事が思い浮かんだ。

 そしてすぐに、ウサギの命よりも自分の楽しみを先に考えている自分に愕然とする。

 もうすでに、自分はあのウサギが処分されるとわかっているってことだ。

 それは、つまり、あのウサギが普通じゃないと覚悟しているということでもある。

 ペットではなく、異質な、野の獣だと、わかっていたということだ。

 わかっていたけど、自分は気にしなかったという事だ。


 不意に、キャロルさんたちの事が思い出された。

 あの人たちだって、気の良い人たちだったではないか。

 多少おかしな習慣を持っていたとしても、死体の異常さに眉をひそめる前に、もっとするべき事があったんじゃないのか?

 もっと、もっと――。

 そう、もっと悲しむべき事が起こっていたんじゃないのか?



 地熱ストーブの前で、いつもどおりラジオをつけたけど、全く耳に入らなかった。

 ウサギがいないから、横になってケージに語りかける必要もなくて、そのまま猫背になって、首と腰が痛くなるまで、ぼんやり酒をあおっていた。

 ウサギの言ってた「おつきみ」とやらの何が楽しいのかわからなかったけど、その時ずっと、あの天体の事を考えていたような気がする。

 ウサギはみんないなくなったと言っていた。

 みんないなくなったのは、誰のせいなんだろう?

 ウサギたちのせいか?

 あの月とやらのせいか?

 それとも……。




 それからの三日間は、ひどい有様だった。

 仕事では、自分でも信じられないような凡ミスが続き、あまりの酷さに上司に呼び出されたぐらいだ。

 家に帰れば、妻が「たかがウサギぐらいで何を」となじる。

 あまりに夫が意気消沈しているもんだから、罪悪感を覚えたらしい。

 なじられればなじられるほど、こちらも落ち込む。

 なんせ、自分でも理由がわからないのだから。

 そんなにまで――まるで恋人にフラれたかのように自分の存在まで疑うっていうのは、やっぱり異常事態だったし、それ以上に、自分の中にわきあがった疑問が頭から離れなくて困っていた。

 あのウサギが野の獣だったとして、どうして自分は共感することができたのか?

 どうしてあのウサギは、自分にあんな夢を見せることができたのか?

 もし当然にできたのだとするならば、自分は、あのウサギに等しい存在だったのではないか?

 つまり、自分も、キャロルさんたちと同じように――。


 そう思えば思うほど、食事も喉を通らなくなった。

 酒の味もわからなくなって、手元の酒瓶の残りが「これっぽっち」から「まだこんなに残ってるのか」と重いため息に変わった。

 妻が休暇をとってみたらと声をかけて来て、それも良いかと考えた。

 たかがウサギぐらいで。

 心底、そう思ったんだが、体が動かないのは仕方がない。

 世の中には、つまづいて転んだだけで死ぬ人間もいるのだ。

 自分がそういう類の人間だったってだけなんだろう。

 そう納得するしかなかった。




 本格的に休暇を取るつもりで、会社の書類を取り寄せて帰った夜だった。

 何気なく夜空を見上げたが、あの瞼に張り付いて消えてくれない不気味な白とも黄色とも言えない大きな目玉の天体は見あたらなかった。

 当たり前だ。生まれた時から見上げている空に、そんなものがあるわけがない。

 どこまでも真っ暗な底知れない夜空に、白いダイヤの粉塵がまき散らされたような天の川。

 星の光は地上まで照らしてくれないから、真っ暗な道を歩く人々。もちろん、街灯はそこかしこに灯っている。帰宅するのに問題ない。

 でも、あの目玉の天体があったら、さぞかし、この街灯の数は減っているのだろうなとも思う。あんなに明るいものがずっとあるのなら、太陽の金輪が転がる昼の間でも、足下を照らすのに重宝するだろう。

 でも、あれはただの夢だし、ただの幻だ。

 おおかた、あの夢を見た夜、妻が電灯の光をこちらの目に向けた瞬間があったに違いない。

 それにしても、ひどい夢だった。

 今でもあの天体を夜空に思い浮かべてしまうんだから。

 そう思いながら、玄関をくぐった時だ。



 目の前に、ケージが置かれていた。

 白くてふわふわの毛皮の、扁平な塊が隅にあった。

 何を口走ったのかわからない。

 ケージを抱えて、すぐに地熱ストーブの前に運んだ。

 揺れたケージに驚いたのか、ウサギはケージの中で一頻り走り回った後、またこちらに背を向けて扁平な塊に戻ってしまった。

「何もない健康体だって」

 妻が騒ぎに気づいてやってくると、そう笑った。

「心配して損しちゃった。キャロルさん達が野草をあげてたから食べてただけで、このまま食べさせていたら消化器官に異常が起こっただろうって。今日から餌を変えていいって」

「なんで……健康診断だけなのに、なんでこんなに時間がかかったんだ?」

「キャロルさんの事件で、自分のペットが野獣じゃないかって不安に思った人が増えたんだって。ほら、野獣とペットの外観って、ほとんど一緒でしょ? 違うのは食べ物と落ち着きがあるかないかぐらいで。だから念のためって、ペットショップに健康診断を依頼する人が急増したんだって」

 自分もその一人であることを棚に上げて、妻は苦笑した。

「それに加えて、食べちゃいけない草なんか食べてたから、一度おなかの中を空っぽにさせて、草の欠片とか排除したみたい。お腹にさわってみて。手術してとり出したって言ってたから」

「手術? おまえ、同意してたのか?」

「そりゃ、そのままにしておいて、いつか腸閉塞になるよりは良いでしょ?」

「じゃあ、ウサギが獣じゃないって知ってたんだな?」

 妻は不思議そうに頷いた。

「そりゃねぇ。あなた、本気で獣だと思ってたの?」

 そう言われてしまうと、なんとも言えない。

 確かに、あんな夢さえ見なければただのペットで納得してたはずだ。

 あの、妙にリアルな「おつきさま」とやらを見なければ。

「それじゃ……ウチで飼っていいんだな?」

「それであなたがちゃんとお仕事してくれるんだったらね」

 俺はグラスと酒瓶を取るため、キッチンに飛び込んだ。



 それ以来、一度も「おつきさま」の夢を見たことはない。

 妻はウサギに名前をつけたらと言うのだが、このウサギはウサギでしかなくて、相棒はこのウサギだけだと決めているから、名前なんて必要ないと思ってる。

 強いて呼ぶなら、ウサギって名前なだけだ。

 ウサギはもう、野草を食べなくなって久しいせいか、それとも手術の原因が草だったとわかったのか、たまに出してみても見向きもしなくなった。

 そして、草ではなく別のものを要求してるかのように鼻をひくつかせている。

 その仕草を見るたび、燕尾服で語ったウサギの声を思い出す。

 今となっては、その燕尾服のウサギと語ったことすら酒の肴で、ケージに向かって話すような事でしかないんだけど。

 それでも、酒の力でうとうとしながら急にそら恐ろしくなる時がある。



 このウサギ、あいつと違うんじゃないのか?

 病院で処分されたけど、あんまりがっかりしている夫の為に、妻が用意したそっくりなペットじゃないのか?

 もし本物なら、また見せてほしい。

 あの、落ちてきそうなまばゆい天体を。

 そして話してほしい。

 どうしてみんな居なくなってしまったのか。

 それとも、ウサギが言っていたように、自分が忘れているだけなんだろうか。

 本当は、毎晩、あれを眺めているのだろうか。



 そんな事を思いながら、今日もグラスを片手に、ウサギの前で酔い転がっている。

 ウサギはガリガリとうるさくカルシウムの餌をはんでいる。

 いつもどおりの夜。

 いつもどおり。




 <了>



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〈ローズ〉の末裔 suzu3ne @classix_2cv

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