〈ローズ〉の末裔
suzu3ne
第1話
凍えた地表が、半日をかけて夜を抜け出す。
素晴らしい一日を予感させる朝が、澄んだ空気をゆっくりとかき回す。
フィンは習慣通り、背伸びをしながら起きあがった。まずは地熱ヒーターの調節をし、厚手の防寒ジャケットに腕を通す。秋のこの季節、防寒具までは必要ないが、屋外での長時間の活動中に凍える事も少なくない。それなりの装備は必要だ。地熱ヒーターと自分の体温で体の内部から目覚めていくまでの時間を、窓の外を眺めながら待つ。
地平線から昇り始めた太陽は、真っ暗だった空をゆっくりと群青色に変えてゆく。日中の地平線で常に漂う赤の可視光線は、冷たい空気の中でも暖かそうに見えるから不思議だ。漆黒の中に瞬いていた星の光が少なくなり、ほんのわずかな、強烈な輝きを放つ一等星と惑星だけが空へしがみつく。
フィンは、この深く深く青暗い空と赤い地平線、黒い雲に向かって深呼吸。
二十代から八十代の働きざかりにとって、日の出を目にする時間など早朝もいいところだ。
しかし、植物を育てるフィンにとって、わずかながらでも陽の光が射す日中は、貴重な作業時間でもある。朝一番の光からでも拾い上げたい。
倉庫の奥に作った、手作りの温室へ向かう。夜の間に凍った鉄のハンドルを叩いて氷を落とし、動かす。温室の更に上を覆う屋根を開く。
低い灌木が並ぶ温室の中では、収穫を目前にしたカウベリーがぎっしり並んでいる。更に奥の温室では、一年中温水を循環させて栽培しているライ麦が揺れている。
フィンは言葉にならない植物たちの歓喜を目にしながら、夜の間に凍結と破損が起こっていないか、温室の壁や器具を点検して回る。収穫されたベリーや麦を元に作った食品の缶詰が納められている倉庫も同様だ。動植物が進入し、フィンの努力を水の泡にしていないか、慎重に目を配る。
一通り確認すると、もう朝の二時間は終わってしまう。
東の空の中空に張り付いた太陽は、その中心に黒く浮かび上がる〈ローズ〉と共に、蒼黒い昼の王者として、金の指輪の姿を露わにしていた。
その周辺に散らばる〈ドロップ〉が、指輪から砕け散ったダイヤのように小さな輝きを主張し始める。
地平線の赤い屈折の影響は少なくなり、朝焼けは遠方の大火のようになりをひそめる。その空の中、太陽光を遮る〈ローズ〉の波打つ花弁がはっきり見えるようになるまで、フィンは庭に出て、家の周囲が無事である事を確認する。
その頃になると雲が多く漂いはじめる。冷えきっていた空が光によって暖められ発生した、常に陽射しの陰をうつす黒い雲。
地上は薄暗いを通りこし、動的な不穏さを湛える闇に覆われる。
フィンは見回りの最中、煙突に爪を立てた形跡を見つけた。周囲に捕獲用の罠を増やそうと思う。動物に興味はないが、大事な家を壊されてはかなわない。
それに、自分は食べないが、獣の肉は食料になるはずだ。
物置小屋から罠を引っ張りだしていると、二キロ離れたお隣さんが犬ゾリでやってきた。
メイ夫人は、夫と二人で隠居生活を楽しんでいる老女だ。
害獣駆除で小遣い稼ぎをしているが、ほとんど自給自足の気ままな生活だ。息子たちと同じ年頃だというフィンの元へ、日に幾度と無く訪れる。
フィンがかつては考古学者の卵であったと知ってからは、その数少ない著作を買ってきてはサインをねだるようになった。親戚に配っているそうだ。フィン自身はもう金輪際、考古学に関わるつもりはないのだが。
地上が凍土に覆われ、現人類が歴史を紡ぎだしてから何年の月日がたっているのか。
いや、その現人類という呼称ですら、学術的には認められていない表現だ。
各地に残る遺跡や口伝に残る世界観、人類の元型である各種の記号と不可思議な表現。それらは凍土に埋もれた前時代の人類が現代まで残した痕跡である――フィンも所属していた『旧人類史学会』の見解は、論理が先行してしまった故に、裏付けとなる遺物の発掘が主な活動内容となってしまって等しい。
しかし危険な寒冷地帯の環境と発掘作業の中で、所属する学者は時に病に倒れ、時に行方不明となり、そして報われない発掘作業に嫌気がさし、次々と姿を消していった。
フィンも、今となっては学会の人々に『若いくせに、発掘に嫌気がさして隠居した根性なし』だと思われているのだろう。
それでもメイ夫人は、まだ四十代半ばであるフィンの学者としての知名度を上げて、再び研究させてあげようと苦心しているようだ。
過去の出版物による印税と研究者時代に稼いだ小金で細々と生活しているフィンにとって、メイ夫人の宣伝活動はありがたいものでもある。事を荒立てるつもりなど毛頭ない。だが、既に研究には興味がないのも事実だ。
メイ夫人が持ってきたのは、自家製の素焼きクッキーだった。赤土に空気が程良く入っていて、口の中で崩れる触感がたまらない。生来より食の細いフィンにとって、今ではこのクッキーこそが主食と言っても良い。あとは水と銀盤煎餅でもあれば十分だ。食道楽が舌鼓を打つセラミックステーキなど、贅沢すぎて口に合わない。
お裾分けをありがたく受け取ると、彼女は手にしていた罠に気づいた。主人に駆除させるかと尋ねてくる。
「最近は変わった噂が多いから、変なものを見かけたらすぐに呼んでちょうだい」
「変わった噂?」
「人間のフリをしている動物がいるっていう噂」
「どういう意味でしょう?」
「人間そっくりの動物が、町や山で見つかってるんだって。動物が擬態してるんじゃないかって噂だけど、どっかの国が作り出した生物兵器じゃないかって噂もあるの。だって、その動物を飼っていた人間がいるみたいだから」
「なるほど」
「その人間モドキに発雷装置を仕掛けて、テロを引き起こすつもりじゃないかって話もあるし。少し前には、その人間モドキの死体すら見つかったって噂。外見は人間なのに、中身は動物みたいな肉とか内蔵なんですって。気持ち悪いわね。だから気をつけて」
「はぁ……ご忠告、ありがとうございます」
「よく考えたら、先生は植物なんて育ててるんですから、心配するほどの事でもなかったかしら?」
顔をしかめる夫人の脳裏が、フィンには見えるかのようだった。
見渡す限り凍り付く白く青ざめた大地と揺らめく赤い地平線、黒い空、環のような太陽。世界は平面に整い、論理的な外見を持つ。
獣は山の陰や洞窟に生えたごくわずかな植物を取り合って細々と生きており、弱肉強食の、論理の通じぬ野蛮な存在。
その獣に補食される植物は、更に下等な生物である。
少なくとも、メイ夫人にとっては。
「植物は面白いですよ。野獣みたいに襲ってくるわけでもないし、でも放っておくと、我々を病気にしたり、家を壊したりする。生きているというのは不思議なものです、それを思い出させてくれます」
「それにしたって、あんな、グチャグチャ、気ままに育つものを?」
「焼菓子のタネと一緒ですよ。犬ゾリ用の犬の方が近いかな?」
「やだわ、先生。植物と犬とクッキーを一緒にしないでちょうだい。植物を育てるなんて変人みたいな生活してるから、大学から追い出されちゃうんでしょ? しっかりして」
「いや、植物は大学をやめてからで……」
「変人なのは変わりないでしょ? 天才と紙一重って奴ね、ホントに」
犬ゾリの犬たちは、婦人が会話を終えるまで、大人しく伏せていた。遺跡に残っている犬の姿より二周りは大きい。
寒冷地故の適応であろうと言われているが、それだけではないとフィンは考えている。脳の仕組みは現人類に近しいという生物学上の裏付けがあるし、彼らには野生の獣のような本能がない。彼らは犬の形をした現人類と呼んでも差し支えないと思う。もちろん、そんな事を言えばますます変人扱いされてしまうが。
夫人が犬ゾリで帰って行くのを見送り、赤土クッキー入りのブリキ缶を抱えたフィンは、物置の奥にある作業小屋へ向かう。
フィンはこの半年の間、〈ローズ〉がさまよう昼の時間の全てを使って、ここでとある設計図と格闘していた。
クッキーを一枚取り出してかじりながら、前日までの作業を確認する。
設計図は既に二十枚を越えていた。いや、細部を拡大した部品の設計図も含めると、その倍はある。それらをこつこつ、一人暮らしの合間に作り上げてきたフィンだ。
その機械は一見、横倒しになった大きなブリキの四角い箱でしかなかった。
しかしフィンは知っている。この中身が、自分が作ってきたこの機械が、今現在、この地上には存在し得ないはずの技術で作られていることを、だ。
フィンは設計図の束と一緒に、大事にとって置いた封筒を横目で確認する。
全ては、今、組み立てている機械の設計図を送り付けてきた人物との出会いから始まったのだ。
送り主の名前は、アグリ。
フィンの唯一無二のパートナーだ。
初めて見たアグリは、栗色の髪をした十二歳の少女だった。
幼い彼女に世界を、暮らしを、未来を話しながら旅をする事は、フィンの――彼女の〈案内人〉としての仕事であり、何よりも彼女の成長に心を奪われてしまったフィンにとっては、仕事以上に刺激的な旅であったことは否めなかった。
それでも、彼女と暮らした八年間が、『1000人目』であるフィンの心の傷を完全に癒してくれることはなかったのだ。
二人でこの土地にたどり着いた時、フィンはアグリに旅を終わらせたいと申し出た。
アグリは長い間、フィンを睨みつけていた。
大きくて青く澄んだ瞳は、時に「海のようだ」とも称えられていた。フィンには映像でしか理解できない海だったが、彼女の激情と繊細さを表現するにはぴったりでもあったのだろうと納得した。
だが、それまでのアグリがフィンに対してそんな顔をしたことはなかっただけに、フィンは大いに動揺したものだ。
アグリが睨むのは、氷の大地と黒い雲、暗い空、そしてその奥に控えた〈ローズ〉と決まっていたからだ。
その時、フィンは自分の選択が彼女を大きく傷つけたのだと気づいた。
フィンはアグリも自分と一緒に留まってくれると勝手に思っていたのだが、彼女は自分の生活が旅そのものであると考えていたのだ。
旅を終わらせたいというフィンの申し出は、アグリにとって、彼女と別れたいという申し出と同じことだったのだ。
もっとよく話し合おうとは思っていたのだが、翌日、既にアグリの姿はなかった。
時折、〈案内人〉の仲間からアグリの話を聞くこともあったが、彼女は今でも旅から旅の生活を続けているとのことだった。
その旅先から、アグリが送ってくるようになった設計図である。
手紙はない。
時には小包で、手のひらほどの大きさの部品や導線の束が入っていた事もある。
約半年をかけて、次々と送られてきた。
それ以外、何の音沙汰もない。
だが、フィンは思う。
自分の育てたアグリが――フィンに捨てられたと思っているアグリが、ただの酔狂でこんな事をしてくるはずがない。
彼女は、旅の中でフィンに言った事がある。
「私、無視されるのが嫌いなの」
これだけの設計図の束を前に、何もしていないとしたら彼女を理解しようとしなかったばかりか、侮辱したことにすらなる。
フィンは先日届いたばかりの、銀盤を取り出した。
銀盤煎餅といえば、大人から子供までなじみ深い、堅さと口の中で広がる刺激的な辛みが特徴のお菓子だが、〈案内人〉としてのフィンにとっては大きく意味を変える。
設計図に従って組み上げられた箱の側面を引き上げる。
箱の中には、フィンが調達した一人掛け用のソファと、生体反応確認用のベルトが二本、その周辺に押し込められた多くの配線、機材、小型モニター、そして操作用のボードが並んでいる。
ふと、メイ夫人の言葉を思い出した。
植物は実を残し、子孫を残す為だけに論理的に枝葉を伸ばす。一つ一つの葉が日光を拾い上げる為に最大効率を目指して互い違いに広がる。無秩序に見えて整然とした理由を持つ。何をしたいのか解ってしまえば、それ以上は怖くないのが植物である。
フィンにとっては、明らかに普通ではない機械の方が、ずっと気持ち悪い。
機械という物が何物であるのかを知ってしまった〈案内人〉の身であれば、尚更だ。
そんな事を考えながら、不気味な機械のソファに腰を下ろす。内部の一画に設置されていたオーブンに銀盤を差し込む。
通常なら、銀盤煎餅の味付け用にと使用されるオーブンは、フィンの〈案内人〉としての知識によって改造され、生成物の中に隠された暗号を読みとり出す道具となっていた。
巨大な模擬眼球を改造したモニターに情報を並びあげ、そのとても古く、人類誕生以前に存在した文字を写しだす。意味のない落書きのようなそれらの並びには整然とした法則と意味が込められており、〈案内人〉としてのフィンはそれらを記憶の中の情報を照らしあわせては、作業が正常に進んでいることを確認する。
銀盤から読みとられる情報が、その冷たい固まりに意志と意味と目的を埋め込んでゆく様を見守る。
だが――今回は違った。
「……え?」
銀盤を読み込ませるのは、これが最初ではない。今までも、段階を踏んで入力してきた。その情報の山を見守り続けてきた。
だからこそ、今おこなわれている作業によって、何が起こっているのか――すぐに理解できた。
フィンの知識は囁く。
これは、最後の銀盤だ。
これ以上、アグリから銀盤が届く事はないだろう。
今回の銀盤で、この不格好な四角い機械は完成する。
しかし彼女は、これを何の為に用意したのか。
フィンは赤土クッキーをもう一つかじる。
彼女たち〈審判者〉に、何があったのか。
そして自分は、どうする?
機械の作業が終わったら、植物の様子を確認し、動物たちへの牽制も含めて家の周辺を散策し、ついでに食料になりそうなものを採取し。
そんな事をしていると、あっと言う間に半日が過ぎてしまう。
夕の二時間を、朝と同じように植物たちに費やし、温室の屋根を閉める。設置していた罠が外されていた事に首を捻り、設置をし直し、寝具を用意する。
地平線へと隠れた太陽に対し、地上には本当の闇が夜となって訪れる。
かつては月というものがあったらしいが、現在はそれを目にすることはできない。
学者の一部などは、〈ローズ〉が現在の位置に固定されるまでの姿であろうと述べているが、〈案内人〉には失笑しか浮かばない説だ。
月があった頃には〈ローズ〉がなく、〈ローズ〉がある現代には月がない。
ただ、それだけの事だ。
そして、月があった頃も今も、暗黒の夜は宇宙の深淵から長い旅を経てやってきた星の光を夜空中にちりばめる。
その煌めく闇夜で空気中は凍りつく。
昼には空を覆い尽くす雲であった水分すらも一気に雪と化して落下するか、空気中の小さな氷となって夜を煌めかせるかのどちらかである。
だがその冷たい輝きは、野生の獣にとっては死の輝きであるといっても過言ではない。
夜の寒さは、現人類であるフィンにも堪える。獣ならば尚更だろう。
老齢の獣や寝ぐらを確保できなかった生き物が衰弱の上に凍死している光景は、珍しくない。
フィンは温室の暖房設備が正常に動いている事を確認する。野の獣に近しい植物たちの生体は、この夜の世界に耐えられない。
寒さ対策に厚めの寝間着を着込み、ベッドに潜り込んで、目を閉じる。
いつもの夜だった。
当然のように、体中の機能が低下していくのを感じながら、フィンは思考を停止してゆく。
思考。それが本当に自分のものであるのだろうかと、いつもどおりに思いながら、この眠りという動作そのものが偽りだと思いながら、ゆっくりと弛緩してゆく。
それが強制的に停止されられた。
こめかみに、ガツリと押しつけられた硬い筒先。
フィンは急浮上した意識のまま、ベッドの傍らに立つ毛皮の影を見た。
過剰なまでの防寒着。
口元から溢れる白い湯気。
黒く大きな、昆虫のようなゴーグル。
口元を覆った呼気温調節用のマスク。
フィンに突きつけられていたのは、殺傷力の低い、護身用の拳銃だった。だがもちろん、そのままゼロ距離で発射されれば、ただではすまない。わずかに命を拾ったとしても、こんな片田舎のことだ、助かる保証はない。
いや、それ以前に。
火薬の文化は、現人類にとって無いに等しい文化である。知識のみであり、遺跡より発掘される貴重な資源でもある。
そして、それを知っているのはフィンが〈案内人〉であるからなのだ。
一般人は、この黒い筒と鉄の固まりが何を意味するのか、理解できない。
フィンはゆっくりと、拳銃から遡って、動くのも困難なほど着込んだ防寒着の袖を見た。そのまま遡り、肩を、首を、顔を、そして下がって胸を、腰を、足を見た。
相手の全身を確認し、フィンは脳裏に古い言葉を思い出した。
曰く『歴史は夜作られる』。
フィンは、刺激しないようゆっくりと手を伸ばし、銃身を掴んだ。
「用意は出来てるよ」
こめかみから離れないようにしながら体を起こす。
「顔を見せてくれないかな? 死ぬに死ねないじゃないか」
黙ったままの相手に対し、フィンはため息を一つ。
こめかみから銃口を離さず、ゆっくりとベッドから降りる。
暖房器具を高温に設定する。暖房は、この地域一帯の電力供給を一手に担う地熱発電所からの熱を、フィルター越しに引き込む形式だ。ほどなくして温風が室内を巡り始め、襲撃者は凍り付く空気から内蔵を守る為のマスクをとった。
はちきれそうな唇。
泣きたくなるほど懐かしい青い瞳。
「ホットミルクでも入れるかい?」
「そんな物があるの?」
「そろそろ来る頃かと思って、用意して置いた」
地熱ヒーターのオーブン部分に、ミルクを入れたポットをかける。もう一つ、水を入れたポットも並べた。
「全然、驚かないのか……」
「君が思っている以上に、私は自分が殺されても仕方がない人間だと思っているんだよ」
「前はそんなんじゃなかった」
「君が小さかったから、気づかなかっただけだ」
「別れた時には二十歳。小さかったとは言わせない」
「何歳になっても、気づけない奴は気づけないもんだ」
「気づいて〈案内人〉になる〈ドゥ〉もいれば、〈ドゥ〉のままの現人類もいるって事か」
「それは皮肉かい?」
「そう思うならそうなんじゃない?」
更に室温が上がり、アグリは防寒具を脱いでいった。幼い頃と全く同じ仕草で栗色の巻き毛を引っ張る。
湯気を踊らせるミルクをアグリに渡しながら、フィンは彼女の均整のとれた肢体に目を奪われている自分に気づいた。
「……何見てるの? スケベ」
アグリはホットミルクを受け取り、警戒しながらカップに口を近づける。
「そんなつもりはなかった。本当に、僕らと同じような形に成長するんだなとびっくりしたから。あらためてね」
「逆。あんたたち〈ドゥ〉の女性型が、私たちに似せて作られただけ」
わかりきった事を口にするのは、彼女自身が再びフィンから傷つけられる――拒否される前に、拒否されても当然であるという事実を必要としているからだ。
ホットミルクと並べて暖めていた湯を、水筒に注ぎ込む。彼女との旅の間に知った夜具だ。
「ベッド、使いなさい。私は毛布を持っていけば居間で大丈夫だから」
タオルを巻いた筒を渡しながら促すと、アグリは受け取りながらも睨んだ。四年前と同じように。
「あんたと一緒に寝れば良いだけじゃない」
確かに、この寒さを想定して存在しているフィンの体は――アグリたちが〈ドゥ〉と呼んでいる現人類の体温は、常時三十六度前後を保てるよう進化している。これは旧人類の体温に近しいのだとか。
アグリがフィンの体温で暖をとる魂胆であることは理解できるが、しかし、フィンには長い間離れていた彼女と寝室を共にするという心構えが出来ていない。
絶句している間に、アグリはベッドに潜り込む。
「別に、互いにどうこうするわけじゃないって解ってるんだから」
「そりゃそうだけど……」
閉口しながら、並んで横になる。
「〈ドゥ〉は良いなあ。外見、あまり変わらない。外見だけなら私と同い年ぐらい? 人類の二倍の寿命だっけ?」
「君はだいぶ変わったけどね」
「そうだね。『1000人目』から十二年だもん、赤ん坊でも女になってる頃だし、当然だね」
アグリはそのまま目を閉じる。
疲れていたのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。
フィンは思わず安堵の息をついた。
その眠りに落ちる早さで、彼女が自分を全く警戒していない――昔と変わらぬ信頼を抱いている事がわかったからだ。
そして、自分が彼女にどれだけ負い目を抱いていたかを、嫌でも自覚したのだった。
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