悲しむ少女は立ち去った。化け物を殺す女性は引き金を引く。
上がっていた太陽は沈み初め、空はオレンジ色に染まる。
建物にぽつぽつと明かりが
老人と変異体の少女が訪れた駅にも。
「ネエ、オジイサンノ名前……坂春……ダッタヨネ?」
切符の自動券売機で手続きしている老人に、変異体の少女が尋ねる。
「それがどうしたんだ?」
「コレカラナンテ呼ンダライインダロウ? オジイサンデイイノカ……坂春サンデイイノカ……」
老人……坂春は少し考えた様子だったが、すぐに口を開いた。
「言いやすい方でいい」
「……ソレジャア、試シニ坂春サンッテ言ウネ」
「そうか。そういえば今更になるが……お嬢さんの名前もまだ聞いてなかったな。その姿になる前の記憶がないと言っていたが、名前は思い出せるか?」
変異体の少女は首をひねっていたが、すぐに首を振った。
「ゼンゼン覚エテナイ……」
「まあいいだろう。思い出したら俺に言ってくるといい。それともいっそのこと、名前を作るのはどうだ?」
「……イイ名前、アル?」
今度は老人が首をひねっていたが、やはり首を振った。
「……すまん、まったく思い浮かばんな」
「大丈夫……思イツイタ時デイイカラ」
「なんか同じことを言い返された気がするが……ん?」
老人が急に顔色を変えた。
「ドウシタノ?」
「今思い出した。この駅限定の“炭酸コーヒー”を買い忘れていた!」
「……オイシイノ? ソレ」
「確か、コインロッカー室の近くに自動販売機があっただろう!」
「タクサンロッカーガアル部屋?」
「ちょっと行ってくる! お嬢さんは少し待っててくれ!」
老人は一目散に走り去って行ってしまった。
「……ア」
切符の自動券売機に、老人の財布が置かれていることに変異体の少女が気づいた。
それと同時に、駅は暗闇に包まれた。
しばらくして、停電は回復した。
駅員のアナウンスが、原因を調査中だと伝える。
「……大森さあん、もうそろそろいいですかあ?」
駅の中のトイレの前で立っていた晴海が呼びかける。
「ちょっと待ってくださいよ。ハンカチがなかなか出なくて……」
しばらくして、大森がハンカチで手を拭きながら現れた。
「先輩、停電の件は本当に大丈夫だったんですかね?」
「わからないねえ。とにかく、依頼の場所に行くよお」
「確か……突然変異症にかかった赤ん坊をコインロッカーに捨てちまった。その赤ん坊を処理してくれって話でしたよね? まったく、腹立つババアだったぜ……」
「仕事は仕事だからねえ。ちゃんとやってよお?」
「わかってますよ。とにかく、そのコインロッカーに……」
ドンッ
「ん?」「キャッ!!」
大森に誰かがぶつかった。巨体な大森はびくともしなかったが、ぶつかった人物は勢いで尻餅をついてしまった。
「……あなた、昼間のお」
晴海は倒れた人物……変異体の少女を見てつぶやた。
「坂春さんはどうしたんですかあ?」
「……」
一瞬だけ口にするのをためらったが、少女は2人に老人のことを話した。
「そのじいさんがコインロッカー近くの自販機に買い物に行ったが、財布を落としていった……てことだな?」
ゴーグルを装着している大森に対して、変異体の少女は静かにうなずいた。
「それなら一緒にこねえか? 俺たちもそのあたりに向かうところだ」
「また不用意に親切にしているう……」
「……」
変異体の少女は黙り込んでしまった。おそらく、2人を信頼していないのだろう。
晴海はため息をつき、1人で歩き始めた……
「あ……あひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ……」
3人は、悲鳴を耳にした。
その悲鳴をもっともはっきりと聞いたのは、自販機を前にポケットをあさっていた坂春だった。
「……このコインロッカー室からか?」
坂春が注目したのは、コインロッカー室と呼ばれる部屋だ。
中はコインロッカーが並んでいる。そのひとつひとつが普通のコインロッカーよりも大きく、大荷物を入れるのに適した大きさだ。
その天井にはクモの糸が張り巡らされている。そして奥には、男がクモの糸で配線板ごと壁に縛られていた。
近くのコインロッカーのひとつがぶち破られており、その中には大量のクモの糸がある。そのいくつかはヒモのようにつながっている。
そのヒモの先には、
「……こりゃあ、見ていられないな」
変異体の赤ん坊は声の聞こえた方を向いた。
坂春が哀れな目で変異体の赤ん坊と破られたコインロッカーを見つめていた。
赤ん坊の変異体は坂春をにらんで口を開け、糸を吐きだした。
坂春は右によけると、奥の壁に糸が張り付いたのを確認して、その場で足音を立てた。
それに反応して、変異体の赤ん坊はその場で飛び上がる。口の糸に引き寄せられて、左腕を上げて猛スピードで迫り来る。
すぐにしゃがんだ坂春に、変異体のツメはかすりもしなかった。
坂春は立ち上がると、変異体の赤ん坊を追いかけるように来た道を戻る。
壁に張り付いた変異体の赤ん坊は坂春にむき直し、飛びかかってきた。
「すまんな」
低くつぶやく坂春の拳が、変異体の赤ん坊に接触した。
拳が変異体の赤ん坊の鼻をめり込む。
変異体の赤ん坊は、床に落ちた。
「……申し訳ないが、後は警察に任せるしかないな」
坂春は赤ん坊を残して、立ち去ろうとした。
変異体の赤ん坊の目が開いた。
坂春は自分の拳を見る。
殴ったときに付いていたのだろうか。
クモの糸が、坂春の拳に付着していた。
その糸は、変異体の赤ん坊の口から出ていた。
坂春の反応よりも速く、変異体の赤ん坊が飛びかかった。
ピシュン
何かが飛んでくる音がする。
その何かは、変異体の赤ん坊の胴体に直撃した。
「ボケていましたよねえ、坂春さん」
晴海の声が聞こえた。
コインロッカー室の入り口に、3人の人影が立っていた。
晴海、大森、そして変異体の少女だった。晴海はサプレッサーを付けた銃口の大きい拳銃を握っている。
胴体に穴を開けられ、よろめく赤ん坊。
黒い液体をまきながら、それでも晴海に飛びかかる。
「下がってろ!!」
大森が前に出てきて、大型のクラッカーのような物を向ける。
クラッカーに付いているヒモを引っ張ると、網のようなものが飛び出す。
その網は、変異体の赤ん坊を捕らえ、地面に落ちた。
「こいつはもう……処分するしかないな」
網の中でもがく変異体の赤ん坊を見ながら、大森が断言した。
「……」
変異体の少女は黙ったまま、変異体の赤ん坊を見つめていた。それを見た晴海はあきれたように首を振った。
「……まさかその変異体を助けようとは思っていませんよねえ?」
「ワカッテル。デモ……コノ子、ズット寂シカッタ。オ母サンニ会イタカッタ。怖ガレズニ、コンナトコロニ捨テラレナカッタラ……オナカヲ空カセテ人ヲ襲ウコトナンテナカッタノニ……」
「それで?」
「……ナンデモナイ」
か細い声でつぶやきながら出口を振り向く変異体の少女。
「お嬢さん、いくぞ」
「ウン……」
老人と変異体の少女はコインロッカー室から立ち去った。
「……」
晴海は赤ん坊の額に銃を突きつけながら、晴海は固まった。
そんなこと、わかっているよ!
薄暗い部屋の中、
胴体に穴を開けられ、額に銃口を当てられている大蛇の変異体の前で、
少女は叫んだ。
お母さんは人を襲った! それはわかっているよ!
だけど、お母さんは怖かっただけなの!!
それでもお母さんは、私を覚えている!!
どうして殺す必要があるの!?
おじさんたち、怖いの!?
お母さんが怖いの!?
どうして、変異体は怖がられるの!?
どうして……お母さんは……
引き金が引かれ、晴海の頬に黒い液体が飛び散った。
コインロッカー室の中で、首のなくなった変異体の赤ん坊をビニール袋に入れた晴海は、ビニール袋の中をじっと見つめていた。
「先輩……」
大森の声を聞いて、晴海はかったるそうに口を開いた。
「……なんにもないよお」
黒い液体のかかっていない肌が、ぬれたように光った。
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