はじめましての距離/海に行きたかった少女

秋色

第1話 海に行く約束

 それは春休みもあと一日で終わるという土曜日の正午頃。優希がいつものようにマンションの階段を一つ飛ばしで駆け上って五階の部屋にたどり着くと、見知らぬ少女が部屋の前にいた。

 優希と同じ高校生だと思われ、制服姿にペタンコの通学鞄を持っている。ただその制服は、グレーのセーラー服に膝上プリーツのスカートという、この辺では見ない制服だ。


「おはよ」と言ったかと思うと、「いや、おはよでもないよな」等と少女はブツブツつぶやいている。

 背が高くスラッとしていて、栗色の髪のそのコは美少女に分類される。ウチなんかとは大違いだ、そう考えながらも、そのコの話しかけてきた理由がまるで分からず、頭の中がゴチャゴチャしていた。

 部屋の扉を開けると、朝のクーラーの名残りの冷気が一瞬だけヒンヤリ感じられた。玄関には昨日の大掃除で出たゴミや要らない本、ビデオがひもくくられて積まれている。相変わらずの雑然としたマンションのこの部屋を見ず知らずの少女に見せてしまっていいのだろうか? いいわけない。こんな部屋を見られるのは恥ずかしい。


 少女は言った。「どこ行ってたの? 会いに来たんだけどさ。ね、部屋に入れてくれない?」


 優希は少女が誰だか分からないので、初対面ではない口ぶりに戸惑っていた。

「ウチは近くの雑貨屋にノート買いに行ってただけなんだけど。あの、何か約束してたっけ?」

 そのコが誰かという手掛かりが欲しかった。


「え、みほとの約束憶えてないんだ」

 これで名前はミホと分かった。これは大いにヒントになる。でもミホなんて平凡な名前は幼稚園の頃から現在に至るまでのクラスメートの中に山ほどいそうだった。

 幼稚園の頃の円城寺さんだっけ。いや、小二の頃同じクラスにいた山口美帆? いや、こんなべっぴんに成長しないよな。英会話スクールで一緒だった宮脇未歩さんならキレイだったけど、こんなタメで喋ってきそうにない。


 その時ミホの言葉。

「いつだったか、海、見に行こうって言ってたよね」

 これは大きなヒントだ。


 ***********************


「さ、入って」

 優希は、散らかった部屋を恥ずかしく思いながらも、ミホを取りあえず部屋の中に招き入れた。とにかくこのコは自分と関係のある人物に違いない。それに知らない人を部屋に上げると親から叱られるかもしれないけど、男の子ならいざ知らず、同年代の痩せっぽっちの女の子だ。不本意ながらこっちの方が相手より数倍、体格がいい。

 それにママは夕方の七時近くにならないと帰って来ない。何か聞かれても、ただ友達が来たとしか言わなければ、ミホと名乗るこのコが来た事は決してママには分からないだろう。パパは単身赴任中だし、アニキは隣町で一人暮らし始めたばかりだし。

 ――でもどうしても初めて会った気がしない。どこかで以前見た憶えのある顔。という事はやっぱり自分が忘れているだけなんだろうか――

 優希は自分の記憶力のなさが情けなかった。


「あ、ギター、最近も弾いてるん?」


 ギターを弾く趣味がある事を知っているという事は、中学生以降の優希を知っている誰かに限定された。


「『びわのきもち』はまだ解散してないからね。パッとしないけど。あ、そこのソファに座ってて」


 『びわのきもち』は、同級生の女の子同士で中学の頃、結成したバンドだ。初めは三人だったが、今では一人抜けて、デュオに変わっている。

 優希たちの高校には、もっとカッコいいガールズバンド『ローリング・ジェムズ』も結成されていて、『びわのきもち』は軽音楽部の中でも、立ち位置はビミョウだ。


「女子ってやっぱきれいな同性の方に憧れるもんなんだよね。ウチらは二人とも太めだし、ダサい系だし。曲はなかなかイイ線いってるって自分でも自信持ってるんだけどね」


「でもファンもいるよね? 男子の?」


 優希はちょっと動揺しながら言った。

「男子に人気のバンドじゃないよ。小学校の時からの知り合いの野中なんて、『おまえらもローリングってつけたらいいんじゃね? 転んだ方が速そうだし』なんて言うんだよ」


「失礼なヤツ」


「ね、冷たいカフェオレでも飲まない?」


「飲む飲む! あたしカフェオレ大好きなんだ。学校帰り、駅まで歩く道でもカフェオレ飲んでて、風紀の先生から目付けらたくらい」


「何やってんだか……。ところで海って今から行くつもり? 海って言うと、この辺じゃ神田港だけど」


 優希は氷入りのカフェオレの入ったグラスをミホの座るソファーの前のテーブルの上に置いた。そしてこのコにカフェオレは、似合うなと思った。どこか記憶の片隅に残っているカフェオレを飲む少女のイメージ。


「あたしね、今まで写真や映像でしか海を見た事がないの。だから本物の海を見たくて」


「珍しいね。海を見た事がないなんて」


「……はなさないで」


「え! 話さないでって言った? ウチ、何かヤな事言ったっけ?」


「ううん。、この本棚の本のタイトル。『私を……離さないで』」


「あ、それね。映画を人に薦められて観たの。ちなみに本じゃなくってDVDだけどね。本も出てるみたいなんだけど、難しそうなんだ」


 優希は映画を勧めてくれた人の事を一瞬思い出した。


 ――びわきもの歌詞と同じタイトルの映画があります。びわきもの歌とは違う内容ですが、切なくて心にしみいる映画なので、よければ見てみてください――


「映画、好きなんだ。向こうにもビデオあるから」


「あれはね、ウチより家族のが多いんだ。何せビデオテープだもん。パパがビデオのプレーヤーを大事にしてて、だから古いビデオテープとか捨てずにとってたの」


「へえ。そうなんだ」


「そうよ。古い物でも何でもとっとくの。だからこんなにガラクタの多い部屋になっちゃって。でもあれは全部捨てるんだけどね」


「……捨てるんだ」


「うん、ついにプレーヤーが壊れちゃって全部捨てようってなってね」


「この本棚の中のはどんな映画なの?」


「どんなって、説明下手だから、難しいな。臓器提供のためだけに生まれてきた子達の話って言う事になるかな」


「身代わりみたいな?」


「そう。可哀想な話」


「あたしみたいな人生の話なんだ」


 ミホはセピア色の表紙をボーッと見ている。


「だいぶ感傷に浸ってるよ。そっか。色々あるんだ。でもね、これ普通と違う子達の話なんだよ。ウチらとは違う。SFのような現実じゃないお話なんだけど。ね、海、ホントに行く? だったら急がなきゃ」


 優希は、どうしても思い出せないこの女の子と連れ立って海を見に行く事に何だかソワソワし始めていた。

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