子どもだった頃の俺は女が持つ鋭利な物を見て、立ち上がったは良いものの一歩も動かずにいた。




(動け!呆然としてる場合じゃないだろ!頼むから動いてくれ…)




そんな願いは届くはずもなく、少年から入る情報を俺はただ傍観する他なかった。




玄関からリビングまで続く廊下。その中央に立つ子ども、その視線の先には半分ほど開かれているドア。そこから見える光景から目を離れずにいた。




激しく抵抗する母、その命を刈り取ろうとする女。

母は見たこともない顔で泣いていて、女は引き攣った顔で笑っていた。




(なんなんだよこれ…)



テーブルや椅子もひっくり返り、出来たばかりの食事が床にばらまかれ、自分の母親が叫びながら必死に抵抗している。

そんなあまりにも非日常的で狂気が混じった恐怖を目の当たりにした子どもの頃の俺はもう一度ヘタっと倒れ込んでしまった。




ガチャ




また玄関が開かれる音が聞こえる。




(来ちゃだめだ…)




おとう…さん…




背広姿でドアを開け父さんは目の前の光景を見て硬直した。




わたる!!




父さんは唐突に自分の名前を大声で叫びながら全速でこちらに向かってきた。その勢いを殺すことなくこちらに飛び込んで、隠すように抱きしめられた。




抱きしめられた瞬間に父さんの苦しそうな声が俺の耳に容赦なく入ってきた。




包まれていた力が抜け、父の体がだらんと床に転がった。一瞬の暗闇から再び光が入りこむ。網膜が脳に映し出したのは大量の




鮮血




ガクガクと体が震え上がる。父さんの首には無慈悲にも刃物が突き刺さっていた。切ってはいけない箇所を切ったのか流れる血が止まらない。しかし震えているのには他にも理由があった。とめどなく流血し、顔がどんどん真っ青になっていく父さんの顔を女がそっと撫でたかと思えば、女は父さんの顔を恍惚な顔を浮かべてペロペロと舐め始めたのだ。




(く、狂ってやがる…)




女は舐めるのを止めこちらを見ると、血まみれの手で狂気の笑みを浮かべながら振ってきた。




その瞬間に体の震えが止まる。倒れるかのように前のめりになり床を蹴り上げて突進する。




(なにを…)




子どもとはいえ、不安定な体制の女性に向かって体当たりすれば倒れるのは必然だった。

女が倒れた拍子に頭を壁に打ち付け悶絶する。俺は父さんの首に刺さっていた刃物を抜き取った。




傷口からさらに激しく出血し辺りが赤く染っていく。




刃物を両手で強く握り、自身の頭の上に振りかぶる。




(やめろ…)




グサッ




刺したことにより反射で女の体が嘔吐くかのように屈折する。




もう一度腕を振り上げる。




(もうやめてくれ…)




グサッ




女はもう動いていなかった。誰がどう見ても死んでいるのがわかる。




だけど俺はもう一度腕を振り上げていた。




(お願いだからやめてくれ…)




懇願。本当にこれは自分なのか疑いたくなった。




赤く染った刃物をもう一度突き刺そうとした瞬間にその声は聞こえた。





もうやめなよわたるくん




振りかざした腕が止まり横を見る。




そこにいたのは幼きマリの姿だった。




その姿を見た俺は張り詰めた糸を切られたかのように意識を失い倒れ込んだのだった。





(ありがとう…マリ…)




倒れ込むのと同時に、俺の意識も一緒に沈んでいった。

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