合唱の授業2
「まあ、なんなの。あなた」
「わたしはフレアディーテを指名したのよ」
三年生の生徒があからさまにむっとした声を出した。
「フレアディーテ・バルツァーよりもわたくしのほうが技量も実力も上ですのよ。それなのに、彼女を指名するだなんて。そんなの酷いですわ」
おそらくは、わたしを助けてくれたのだろうに、そのことを一切感じさせない。分かりにくい彼女の気遣いにじわりと胸の奥が温かくなる。
胸を反らしたソーリアの堂々とした態度に先輩たちが「あれは確かグラーバッハ家の」とか「侯爵家の……」など小さく噂する。
学園内では皆平等に、とはいえやはり家名はそれなりに知れ渡っている。
「なあに、あなたフレアディーテ・バルツァーを庇うつもり?」
この騒ぎを主導した先輩が片眉を持ち上げた。
「いいえ。わたくし、幼少時から声楽の教師をつけてもらっていますの。ですから、一年生の中で誰よりも自信がありますのよ。今ここでアピールをしておけば、メルデン大聖堂でのコンサートの選抜隊に選ばれるかもしれませんもの」
「ちょっと、お待ちになって!」
ソーリアの主張を聞いたヒルデガルドさんが声を張り上げた。
「そういうことでしたら、わたくしだって立候補させていただきたいわ。わたくしだって、幼少時からみっちりと礼儀作法や楽器に声楽を仕込まれてきましたのよ。そこのソーリア・デュマ・グラーバッハに負ける気はしませんわ」
ヒルデガルドさんもソーリアと同じように、音楽室の中心に進み出た。
二人は、ビシバシと視線を絡ませ合い、互いにけん制し合っている。
この授業は学園側が適当にクラス分けをしたはずなのに、どうして濃い二人が同じクラスなのだろう。たぶん、他の一年生も思っているはず。そしてデイジーは別のクラスだから今この場所にはいない。
この二人の間に割って入れる一年生はデイジーだけなのに。
「わたくしだって、あなたに負ける気などしませんわ」
「あら、言ってくれるじゃない」
「そっちこそ」
「ちょっと、あなたたち一体何なのよ。わたしはフレアディーテ・バルツァーを指名したのよ!」
「そうよ! あなたたちはお呼びじゃないのよ」
音楽室は騒然とし始めた。
誰もがこの騒ぎがどういう方向に向かうのか興味津々に見守っている。
最初の発端になったわたしはというと、相変わらずその場に立ちすくみ、顔を白くさせたままぷるぷると震えている。情けないことこの上ないけれど、この空気の中進み出る勇気など、わたしには持てるはずも無いのだ。
「それで、わたくしは誰のために伴奏をすればいいのかしら」
よく通る声で疑問を投げかけたのは、別の場所に座る生徒だった。
「……アマリエ」
三年生の先輩がばつの悪そうな顔をつくった。
ソーリアとヒルデガルドさんも押し黙る。
立ち上がったのは、はちみつ色の髪の毛の美しい先輩。小さく形の良い白い顔に、目や鼻といった各部位が絶妙なバランスで配置をされた上品な顔立ちの女性。
彼女は何の感情も乗っていない眼差しで会話の中心となった生徒たちを見つめている。
「では、わたくしに」
「いいえ、わたくしですわ」
ソーリアが主張すると、続けてヒルデガルドさんも口を開いた。
「生徒自らが立候補するというのなら、尊重するわ。ではまず、最初にソーリアから。次にヒルデガルド。いいわね」
「ええ、もちろんですわ。アマリエ様」
ソーリアがにこりと笑った。
ヒルデガルドさんは不承不承頷いた。
「で、でも! アマリエ」
三年生の先輩が急いで間に入ろうとする。
「他に何かあって?」
「わたしたち、納得がいかないのよ!」
「そうよ。あんな子がアマリエを差し置いてリオルク様の婚約者だなんて! あなたが何も言わないからわたしたちが!」
「それはいまの合唱の授業とどう関係があるのかしら?」
アマリエ様は静かな声のまま返した。
「それは」
「あのリオルク様に選ばれるのだからさぞ完璧なご令嬢なのだと」
先輩方がぽそぽそと言い訳を口にする。
「それは公私混同というものだわ。少なくとも合唱の授業には必要ない」
三年生の先輩たちが互いに視線を絡ませ合う。
主導権は完全にアマリエ様がにぎっていた。
それでも三年生の先輩方の中には、消化不良の念がくすぶっているように感じ取れた。
たぶんわたしが過剰にこの空気に反応しているからというのもある。学校というのは特殊な籠の中だ。年上の人間たちから好意ではない感情を向けられることは、死刑勧告にも等しい。
「わたくしがリオルクと仲が良く見えるのは、生徒副会長だからだわ。ただそれだけの関係よ。それは彼だって同じことだわ」
淡々とした口調で言い終わると、アマリエ先輩はすとんと椅子に腰を落とした。
教室内は別の緊張感に包まれていた。
わたしは胸元に手を置いた。まだ心臓がじくじくと痛んでいる。同級生たちの気づかわし気な視線からもわたしは逃げたかった。
呼吸が少しずつ上がっていく。このような悪意を向けられることに、体が既視感を覚えている。どうしてだろう。前にもこんなことがあった?
胃の奥から何か嫌ものがせりあがっていく感覚に、わたしは耐えながら呼吸を落ち着けようと努力をする。
「ソーリア。準備をして」
アマリエ様がよく通る声を出した。教室内に秩序が戻り始める。
「どうしたのですか。合唱の練習をきちんとしていたのではないですか?」
ガチャリと、扉が開いて教師が入ってきたのはそんなときだった。監督者が戻ってきたことに、ようやくわたしの体が安心をして呼吸が楽になった。
教師は生徒たちの間に流れる、どこか雑然とした空気を敏感に感じ取った。
「申し訳ございません。今から再開するところです」
アマリエ様がもう一度立ち上がり、たったいま戻ってきた教師に頭を下げた。
それからは教師の目もあってか、いつも通りの合唱の授業に戻った。
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