第10話
季節はこれから秋を迎えようとしていた。まだかすかに残る暑さだけが、夏はまだ生きていると伝えている。
きっと、来週には冷たい空気が大きく窓から入り込んでくるのだろう。もう、そんな季節が来るのか。一年はとても早い。
会社を辞めて、一カ月以上経った。麗の家で暮らして、私は心を穏やかに、幸せに生きている。
彼との生活は心地よく、私に毎日、優しい時間だけが流れていた。
私は所持する物が少ない人間なので、引っ越しはすんなり出来た。自分のアパートとサヨナラするのは寂しかったけれど、麗と暮らせる喜びは大きくて、今までのどの時間よりもずっと、明るくなれた。
仕事を辞めてからは、一生懸命自分に出来ることを探し続けていた。久々に着る、真っ黒なスーツが似合わないなと思いながらも、面接が決まれば外に出た。なにが出来るかなんて、わからないままだけれど、私にはきっと何かがあるはずだと、様々な業種を探した。麗が勇気をくれたから、前へ足を踏み出せていた。
でも、これからの私は、まだ見つからない。
「何がしたいんだろう、私……何の仕事が……出来るんだろう」
面接を受けても、採用の二文字は貰えないままだった。前の会社では、ダメであったけれど、きっと、他ではやっていけると信じて進もうとやっと切り替えられたのに。
やっぱり、自分には、何もないのかもしれない。そう、落ち込んでしまっていた。このまま、麗に頼ってばかりで、外に出られない私を何とかしたかった。
そんな、元気のない私を見て、麗は言った。
「普通になろうとしてるでしょ?」
「え?」
「黒のスーツだとか、外で働かなければとか、もう、そんなのいいって」
「自分の出来ることをするんだよ、そんなに無理しなくたっていいじゃん」
「できること?」
私は頭を傾げた。すると麗も傾げる。
「あれ、俺なんか変なこと言ったかな?」
麗は何を言っているんだろう。稼ぐためには、まず、スーツを着て面接を受けなければいけないし、それをクリアしたら、外に出て、働けるようにならなければいけない。
「えっと、どういう……」
「外で、とかじゃなくて、自分に出来そうなこと探してみなよ」
「えっと……」
「小説を書く、とか?執筆とかでもいいしさ。家にパソコンはいくつかあるし」
「え、でもそれで十分に稼げるかも、麗の力になれるのかもわから……」
「外で働くのが普通でもないし、文章を家で書くことが稼げないなんていう当たり前もないよ。愛菜さんは、沢山辛い人生を乗り越えてきたんだから、それを活かしてもいいじゃん。文章とか、絵とかでもいいし、愛菜さんの経験で救われる人がいる気がするなあ」
私はその言葉で、ハッとした。そうか、私はまだ、普通に生きようと、藻掻いていたのだ。外で働かなければいけないと、私は必死になっていた。嫌いな黒い、スーツまで来て。それは、もう、嫌だって、わかっていたのに。それが、当たり前だからって、必死になっていた。
「私、文章書くのは好き、やってみようかな……」
「お、いいじゃん。執筆の仕事は成果が出るまで時間は掛かるかもしれないけれど、楽しいと思うよ」
「ありがとう」
実は、昔、私は小説家になりたくて、よく文章を書いていた。大学は文学部を卒業しているし、サークルも小説家サークルに入っていた。でも、なりたくたって、そんな世界で生きていけるお金が稼げるとも思っていなかったから、続けることはしなかった。親は言った、外で働くのが普通なのだと。小説家なんて、ごく一部がなれる、珍しいものなのだと。文章で食べていくなんて、無理に等しいと。
でも、そんなの、当たり前でもないし、きっと普通でもない。親が勝手に謳っていた言葉だ。私はそんな言葉を信じて生き続け過ぎた。
でも、麗は教えてくれたのだ。
特別に生きるということを。
普通なんてなくて、全てが特別で、素敵なんだということを。
私にしかない、特別を大切にすることを。
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