第16話「あるありふれた家庭のありふれた日常」

「行ってきます」


「気をつけてね」


 子供はやさしい言葉を言い放って生まれたばかりの老婆を見限った。

 見限られた老婆は赤黒いランドセルに跨がって逆立ちをしながら匍匐ほふく前進で山へと下りていった。

 灼熱の太陽に遮られて黄色く濁った快晴の夜空は冷たく微笑みながら老婆を包み込み、冷酷な虚像を無慈悲な実像で彩った。


遥か近くの桃源郷は極めて短い理想郷…

遠く近寄る無限の現在いまは近く離れる未来いまの果て…

過去むかし現在むかし現在いま未来いま

変わらぬなりの成れの果て…


「返ってくるぞ、返ってくるぞ。きっとうぬに返ってくるぞ」


 老婆は耳から漏れる苦しみを口から吸い込んで天に向かって大声で囁いた。

 その囁きはやがこだまとなり、天高くそびえる井戸の底へと沈澱した。


誰かが誰かの欲望ゆめみ、誰かが誰かの理想ゆめう…

喰い散らかした天の川、棄てた老婆を喰う赤子…

えた赤子はがれ…

やがて赤子に喰われ逝く…


「心配しなくてもいいから」


 老いた子供は静かに叫んだ。

 大空した大地うえに重なって四散する老婆へ向けられたその叫び声は、沈んだばかりの夕暮れに染まる透明な自尊心にちていた。

 眼で聴き、耳で嗅ぎ、鼻で視る。

 老婆と子供は互いを哀れんだ。


おくる背には目玉が一つ…

見限るはらには小銭が六つ…

行って帰るは浮世の夢か…

逝って還るは常世のゆめか…

人が孕んだ愛なれど…

愛は波乱に阻まれた…

情も情なり…

非情非常と人は哭く…

哭けば哭くほどわらい出す…

わらう角には訃苦ふく来たり…

来たれ来たれと皆わらう…

そうして今日もくるんだ…

何処かで誰かが苦死んだ…


「……さてと、朝飯でも喰うか」


 死んだ赤子はそう呟いた。

 赤子のうしろに乱れ並ぶ皿の下には生まれたばかりの老婆のにくかいむ老いた子供のすがたった。

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