第14話「空をとんだ夢をみた日の夜の陰鬱な憧憬」

 

 あるいは、、だったのかも知れない…


 タバコ休憩。

 現代では極めて少数派と言える喫煙者のみに許されるその制度を利用してサボる口実にするために吸いもしないタバコをから二週間、俺がその日八回目のタバコ休憩をしていると給湯室の横にある喫煙所までその声は響いてきた。

 それは、出世街道まっしぐらで個室の仕事場を与えられていた俺の同期の女が会社のデスクの引き出しで窒息死した事を知らせる声だった。

 一番下の大きな引き出しの中には書類が入っていたらしく、死んだ女はおよそ隙間などないその引き出しの中へと頭を捩じ込んだ状態で頭から水を被って自らの手で引き出しを閉め続けることで日常の中で窒息死するための空間を生み出していた。

 その両足は綺麗に折り畳まれた状態で正座し、その両手は死んだ女が自らが死ぬまで、あるいは自らを殺すまで決して逃れることが出来ない様に引き出しを押さえ付けていた。

 固く閉ざされた引き出しを押さえ付ける女の両手に込められた力は凄まじく、水で濡れた書類によって呼吸困難を起こしたとされる遺体の首の骨にはひびが入り、喉は完全に潰れていたらしい。

 死に絶えるまでその苦痛から逃れることなく自らの手で自らを殺して死に至った女の綺麗に整えられた下半身は死に至る課程で生じた生理現象によって自動的に排出された汚物で湿り、女のために用意されたその室内には新鮮なたいが放つ生臭さと汚物の臭いが交雑した独特の臭気が立ち込めていた。

 女の異変が社内全体に知れ渡ったあとから救急隊員と警察が来るまでの十数分間、ざわめきと動揺が会社を包んだ。

 ふと時計を見ると、午後三時半過ぎだった。

 無惨な姿になったその女を発見したのは死んだ女と仲のいい後輩で、その後輩はいつもなら昼休憩に入る二時過ぎになっても女が室内から出てこなかったため、様子見とを兼ねて一時間ほどが経過した時点で死んだ女へと軽食を届けに行ったらしい。

 ハンバーガーと烏龍茶。

 片手間に食える物ならばと後輩が気を遣って選んだそれらの物が死んだ女へ渡されることはなかった。

 女は自殺とされた。

 検察が解剖を打診したというがあるが、家族の意向で同僚の遺体は解剖されることなく荼毘だびされた。

 女が死んだのは木曜日、荼毘に付されたのは日曜日、現在いまはその翌日の月曜日の午後三時過ぎ。

 いつも通りの日常は再びやって来ていた。

 緑色の混凝土コンクリートがより深く、より強く緑色を放つ月曜日。

 俺はタバコを咥えて休憩していた時にふと死んだ女のことを思い出した。

「またいるし」

 それは、死んだ女がタバコを時に俺と会ったら必ず言う挨拶だった。

「えにす…」

 あるいは「えにし…」だったのかも知れない。

 それは、女が死ぬ前日の夕方に口から漏れた言葉だった。

 先に来ていた女が咥えていたタバコを灰皿へと放り込んだあとで放たれた言葉は凡そ意味など持たない言葉だった。

 えにす…

 それとも、えにし、か。

 えにしならばなのかも知れないが、なんの脈絡もなく放たれた言葉がえにしとは考えられない。

 俺はタバコを咥えながら女が何を伝えようとしていたのかおもんぱかったが、答えなど出るはずもなく、ただただ無駄に休憩時間を浪費し、凡そ五分間のタバコ休憩を終えて他の社員とスペースを共有する仕事場へと戻った。

 その日の夜、俺は去年の秋にライバル会社へ引き抜きされるかたちで転勤した元上司の男が女と同日に死んでいたという話を耳にした。

 その瞬間、俺は女の口から放たれた言葉が死んだ元上司の男へ向けられた言葉だと直感した。


 えにす…

 女が放ったその意味は恐らく…


 翌朝、通勤中の俺の脳へと映し出される緑色の混凝土コンクリートは相変わらず緑色だった。


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