「第二至上主義論者」の斯くも難しき恋心

名乗るほどの者ではありません。

第1話 第二至上主義者は斯くも語りき

 初めまして、諸君。これから私が語るくだらない話にしばし耳を傾けてくれると、これ幸いである。


 これから語るのは、私が抱えている斯くも難しい恋心に関わる重大な話である。『恋』と聞いて蕁麻疹が出たり吐き気を催したりした者は即刻立ち去るか、すぐに病院に行った方がよろしい。


 それでは、語るとしよう。


 まず初めに自己紹介するのであれば、私「二階堂 次郎」は『第二至上主義論者セカンダリ・スプレマシスト』である。この『第二至上主義論者』とはつまり人生において『第二至上主義』を貫き通す者を指す言葉であり、その『第二至上主義』とは平たく言えば“二番目を愛する”ことである。


 さて、人間生きる上で重要なのは何事も“二番“である。


 よく一番こそを至上とする『第一至上主義』なる考えがあるが、その考えは愚考であると言わざるを得ない。そのような考えを至上とする者たちを『第一至上主義論者ファースト・スプレマシスト』と言い、彼らは一番をこよなく愛し、一番にしか興味がなく、一番以外価値が無いと考えている。


 しかし、私から言わせてもらえばそんな『第一至上主義論者』などは愚かであり、そんな彼らは一番を追い求めるあまりに無駄に努力し無駄に疲れ、真っ先に、つまりは彼らの念願であるところの“一番に”倒れるか禿げるか、もしくはその両方の結果を迎える。


 また、一番というのは傍から見れば優雅に見えているかもしれないが、実は常に全力で自転車を漕いでいるようなものであり、彼らは休むことすらできない。勿論、休んでもいいが休めば休むだけ後から続く者たちがどっと押し寄せる恐怖に駆られ、『第一至上主義論者』は眠れぬ夜を過ごすのであろう。故に、愚かである。


 しかし、その話をすると「じゃあ、三番じゃダメなの?」と言う『第三至上主義論者ファースト・スプレマシスト』なる者たちが現れるが、これは『第一至上主義論者』よりも救いようのないただの阿呆である。三番で安心する者には先はなく、待つのはずるずると堕落していくだけの、そう怠惰だけである。そんな者に明日は無く、そんな者は光陰矢の如く過ぎていく日本社会に乗り遅れ、気が付けば「浦島太郎」になってしまっているであろう。また、四番以下などは論外で問題外であるので、そんな者たちに語る論は時間の無駄でしかないので割愛させていただく。


 つまり、以上を加味した上で“二番”と言うのは至上なのである。『第二至上主義』こそ人類が目指す境地なのだ。風呂は一番風呂よりも二番風呂。お茶は一番煎じよりも二番煎じ。役職は委員長より副委員長。戦いは一番槍よりも二番槍。あぁ、何と素晴らしき二番目!前には犠牲となる者がいるので安心でき、後ろから続く者たちのおかげでほどよく身が引き締まり怠けることはない。


 やはり、人間は生きる上で二番目でなくてはならない。何事も二番目を愛さなければならないのだ。


 だがしかし、ここにきて生まれてから15年間その『第二至上主義』を貫いてきた私の前にとある女性が現れた。彼女の名前は「一条 春」、大和撫子ここにありと言わんばかりの清楚で黒い長髪の彼女は、入学式の終えたその日に私を放課後の夕焼けの前に連れ出すとこう言った。


「私は二階堂君のことが、好き。だから私と付き合って」


 その言葉は大変嬉しく、また夕焼けも相まって一条さんはより情熱的で美しく見えた。しかし、ここで一つ重大な問題がある。その彼女こそ私が“一番”に愛する女性であり、そんな彼女は一番をこよなく愛する『第一至上主義論者』でもあったのだ。


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「第二至上主義論者」の斯くも難しき恋心 名乗るほどの者ではありません。 @watyawatya_dp

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