【決意の心、今を生きる死人たち】②

 受付に出た小夜は、まず足を止めて周りを見渡した。壁にかかってある時計の時刻は、もうすぐ昼の十二時に差し掛かろうとしている。待合室に目をやると、今日は六人ばかりがソファに座って自分の番号を呼ばれるのを待っていた。

 ここへ来る時には気がつかなかったが、組合の外は眩しいほど明るく、太陽の陽ざしが降りそそいでいる。

 何とも奇妙きみょうな気分だった。さっきまでレトロな喫茶店にいたのが嘘に感じるほど現実感がない。そういえば、あれから一週間ということはもう七月の中頃か。外を見ながら、小夜はふと思う。いまいち実感はないが。

 小夜は歩き出し、受付カウンターに向かう。カウンターの中で作業をしている職員に、小夜は話しかける。

「すみません。異能力事件専門捜査室所属の泉小路です。隔離棟にいる京谷要の外出許可を貰いたいのですが」

「要君の外出許可ですか。只今待ち時間が十五分程度となっておりますが、よろしいですか?」

 顔を上げた三十代ぐらいの職員が、ハンカチで噴き出る汗をぬぐいながら答える。

「構いません。お願いします。それと診療所へ行きたいのですが、居住棟へ入る許可は取れますか?」

「今日は診療所はお休みですよ。明日になればいています」

「分かりました。では、要君の外出許可だけお願いします」

「はい。こちらの受付番号12番でお待ちください」

『12』と書かれた小さなカードを受け取り、小夜は受付カウンターから離れる。受付から離れていく小夜を、カウンターにいる職員はぎょっとして二度にどした。

 それもそうである。今の小夜は着ているスーツすらもボロボロで、顔中に殴られたあとを浮かばせているのだ。そんな女性を無視できるほうがおかしい。

 小夜がソファの空いているはしに座った瞬間、さあっと近くに座っていた人たちがあからさまに離れていった。そして小夜を見ながら、ひそひそと話し始める。

「……聞いた? あのウソツキの外出許可だって」

「見てよ、あの顔。ひどいわねえ。彼にやられたのかしら」

「とうとうあんな女の子にまで手を出したか。あの子も可哀想に」

「ていうか、あの子、捜査室所属って言ってたから捜査官だよね。あのウソツキ、とうとう捜査官に喧嘩けんか売ったってこと? ついにそこまでやったか……」

「おいおい。これって他の捜査官を呼んだほうがいいのか? メアリもスカルも牛丼買いに行ってるからいないし、流鏑馬さんは同伴外出でさっき出て行っちゃったし……」

「知らないわよ。あたしに聞かないでよ」

「ああもう! なんで今日に限ってあのウソツキも外出するのよ!」

 彼らは聞こえていないとでも思っているのだろうか。

「……」

 元々噂話うわさばなしや、こうやってひそひそと話されても気にしない小夜だが、ここまであからさまに言われるとかなりこたえる。ここから立ち去るのが一番だろうが、受付を済ませてしまったのでそういうわけにもいかない。

 と、その時。居住棟のほうから、一人の人物がズボンのポケットに手を突っ込んだまま出てきた。

 その人物……アカリは小夜に気づくと、

「……なんだその顔」

 と、小夜の顔を見て言った。

錯乱さくらんして自分で殴ったか? いい薬を紹介してやろうか?」

 アカリは小夜に歩み寄る。

「自、自分でやったわけではありません。薬も必要ありませんから」

 小夜は、慌てて言葉を返す。

「じゃあ、アイツに殴られたか?」

「そ、それも違います。要君は関係ありませんから」

「ふうん……」

 どうして彼にされたと一番に聞かれるのだろうか。それほどまでに悪評が出回っているからだろうか。要の顔を頭に浮かべ、小夜はそんなことを思った。

「アンタがここにいるってことは、あのクソボケも戻ってきたんだろ?」

「そうですね。要君は隔離棟にいますよ。あとで合流する予定です」

「……アイツならジジイの所にいたぞ」

「え?」

「オレはすぐ出てきたんで何も話さなかったがな」

 聞き返すと、アカリはそう答えた。

「……」

 小夜は額に手を当ててため息を吐き出す。

 当たり前だが、隔離棟の能力者が許可もなく勝手に居住棟へ行くことは許されていない。あの男、さっそく隔離棟から脱走したのか。小夜は心の中でため息をつく。

 小夜はついさっき要が言ったことを頭に浮かべる。

『前みたいに、この施設からは脱走しないようにするね』――“この施設から”……なるほど。子供みたいな屁理屈へりくつだ。その屁理屈に気づけなかった自分も自分だが。嘘はつかないという約束は破っていないわけだ。まんまと騙されたことに小夜はため息をつく。

「……どうしてちゃんと許可を申請しないんですかね。まったくもう……」

「抜け道があるんだよ。真ん中のレストランを通ったら簡単に行ける。ここに長いこといる奴らは全員知ってるぜ」

「その抜け道って、どこなんですか?」

「教えてやってもいいが、三十万な」

「やっぱりなんでもありません……」

 金額を提示するアカリに、小夜はうなだれながらそう返した。やはりこの子は、お金がないと何も教えてはくれないらしい。

「その手はなんだよ」

 包帯まみれの小夜の両手を指さして、アカリが聞いた。

「こ、これはその……」

 答えようとする小夜に、アカリはこんな言葉をぶつけた。

「ヘタクソが。上手い奴は殴っても手を痛めねえんだよ」

 ひく、と小夜の顔が引きつった。アカリのその一言は要に銃を向けられて怒鳴られた時や、『永遠の魔女』の呼び名を持つ咲子と対峙した時よりも、心にズキリと深く刺さった。

 小夜は返す言葉もない。そのとおりです、と心の中で呟いた。

 と、アカリがぼそりと言った。

「……“女が怪我なんかするんじゃねえ”」

「え?」

 聞こえてきたのは日本語ではなかった。何を言ったのか聞き返そうとすると、アカリが小夜の顔に一瞬だけそっと触れた。

 すると不思議なことが起きた。

「……え? あれ?」

 小夜は自分の顔をぺたぺたさわる。顔の痛みが消えていた。どころか腫れも綺麗さっぱりなくなっているような気がする。

「おい、じっとしてろ」

 アカリは今度は、小夜の手を順番に握っていく。またもや不思議なことが起きた。

 小夜は自分の両手をひっくり返したりして見つめる。顔と同じく、手の痛みも消えていた。要に巻いてもらった包帯を取ると、あれだけひどかった手の甲の傷も綺麗さっぱり消えている。

「……アカリ君の能力ですか?」

「うるせえな。いちいち聞くんじゃねえクソボケが」

 アカリは受付カウンターに行き、中に置いてあるペン立てからハサミを抜き取りながら言った。相変わらず口の悪い子だと小夜は思う。

「その髪もひでえな。自分で切ったのか? それにしてはよくそのままで外に出られるな」

 アカリの言う通り、小夜の髪は自分で切り落としたためお世辞せじでもい出来とはいえない。切り口もがたがたで、よく見ると長さも合っていない箇所もある。組合ならばまだいいとしても、街に下りたら「虐待」や「DV」などのいらぬ誤解ごかいを受けてしまうかもしれない。

「この髪はその……あとで美容院にでも行こうかと……」

「金ねえだろ、アンタ」

「……そうでした」

 小夜はうなだれながらそう返す。ハサミを持ったアカリは、いつの間にか座っている小夜の後ろに回り込んでいる。

「……期待はすんなよ」

 アカリがそう言った瞬間、うなじのあたりで、ジャキ、と音が聞こえた。もしかして、と小夜は少しだけ首を後ろに向けようとすると、

「おい、きょろきょろすんな。耳ごと切るぞ」

 すぐに後ろから声が飛んできた。小夜は慌てて顔を前に戻す。この子ならば本当に耳ごと切り落としそうな気がした。

 突然待合室で散髪をし始めた二人を、さっきまでひそひそ話していた人たちは目を丸くして凝視している。アカリはお構いなしに小夜の髪を切っていくが、彼らの視線が小夜の心に容赦なく突き刺さってくる。小夜は耐えきれずに下を向こうとする。すかさず後ろから声が飛んできた。

「下向くんじゃねえ」

「す、すいません……」

 小夜は謝りながら首を動かして顔をまっすぐ前に向ける。正面の受付カウンターでは、

「えー、お待たせしました。受付番号8番の方ー」

 と、職員が当たり前に業務を続けており、周囲からは、

「……アカリだよあれ。あの捜査官、一体何をやらかしたんだ?」

「あの嘘つきといいアカリといい、あの女の子も変な子ねぇ……関わらないほうが良さそう」

「そうだな。待合室で髪切るとか正気じゃねえ。きっとあの子も、どこかしらがおかしい子だよ……」

 いっそうひどくなったひそひそ声が視線と共に投げかけられる。顔や手の痛みは消えたが、今では別の意味で心が痛い。これは一体何の拷問ごうもんだろうかと小夜は思った。

「ババアは元気だったかよ」

 小夜の髪を切りながら、ふとアカリが言った。前を向いたまま小夜は聞き返す。

「ババア……?」

「303号室の『魔女』だよ。……サキコさん」

「ああ。咲子さん」

 誰のことかは分かったが『ババア』と呼ぶのはひどすぎると小夜は思った。彼女は四十年前に享年きょうねん二十九歳で亡くなったと言っていたので、確かに普通に数えるとそれなりの年齢になるのだが……いや、それ以上考えるのはやめておこう。そもそも、死んだ歳で止まっている彼女や他の能力者たちに年齢は関係ないと思うのだが。

「私は初対面だったので何とも言えませんが……元気でしたよ」

「……そうかよ。落ち込んだり、してなかったか?」

「? してませんでしたよ。元気でした」

「そうかよ……」

「咲子さんとは、お知り合いなんですか?」

 会話がなくなりそうな予感がして、小夜は聞いてみた。こんな地獄みたいな空気で会話もなくなったらいよいよえられない。

 小夜の髪を整えながら、アカリは言った。

「別にそういうのじゃねえよ。あの人にも……オレらは世話せわになってるだけだ。元気そうだったんなら、いい」

 そう言うと、今度はアカリのほうから聞いてきた。

「金を賭けた価値は、あの世界にあったかよ」

 前を向いたまま、小夜は答える。

「はい。行かなければ分からないことが、あの世界にはたくさんありましたから」

「……そうかよ」

 と、アカリは言った。

「お待たせしました。受付番号9番の方ー」

 そこで、カウンターにいる職員が待っている番号を呼ぶ。ソファに座っていた女性が立ち上がり、小夜とアカリを見ながら受付カウンターに向かっていく。先程「他の捜査官を呼んだほうがいいか」と聞かれ、「知らないわよ」と言っていた女性だ。ウェーブのかかった金髪をカチューシャで上げ、タンクトップとショートパンツという露出度の高い格好をしている。

 その女性は受付から書類を受け取ると、再び小夜とアカリを凝視しながら居住棟へと消えていった。

「お待たせしました。受付番号10番の方ー」

 そんな調子で受付の職員は順番に番号を呼んでいく。小夜は自分の髪が切り落とされる音を聞きながら、カウンターにいる職員を見つめていた。


「終わったぞ」

 それから五分ほどして、アカリが手を止めた。アカリの足元には切り落とされた小夜の髪が散らばっている。

「あ、ありがとうございます……」

 礼を言いながら、小夜は自分の髪を軽く撫でた。あらかった切り口が驚くほどなめらかになっている。長さを確認できるものはないかとあたりをきょろきょろしていると、斜め後ろに出入り口の自動扉が見えた。小夜は座ったままで、反射する自分の姿を見つめる。

「すごい……」

 思わず声を漏らした。あれだけ長さがバラバラだった髪が見事にそろえられている。

 小夜はアカリに顔を戻し、この子、一体何者なんだろうと思う。口や態度は悪いが、それ以上のことを経験してきているように感じる。この子は一体どのように生きてきたのだろうか。この子は一体、どんな人生を送ってきたのだろうか。

「気に入らねえなら美容室にでも行きな」

 アカリは使ったハサミの刃を服で拭きながら言った。と、小夜は気がつく。アカリの両手が小刻みに震えている。

「アカリ君、その手、大丈夫ですか……?」

「うるせえな。ほっとけ」

 アカリはそのまま震える手を尻ポケットに伸ばし、何かを取り出して小夜に差し出した。

「私の通帳とカードじゃないですか。ずっと持ち歩いていたんですか?」

「うるせえな。いちいちアンタを探すの面倒くせえんだよ。捜査室であのデカブツの顔を見たくねえだけだ。いらねえなら燃やすぞ」

「い、いります! ありがとうございます!」

 小夜は急いでそれらを受け取り、通帳を開いてそっと中を見てみる。三百万円ほどあった残金は綺麗さっぱり抜かれ、代わりにジュース一本分の金額しか残っていなかった。

「……」

 小夜は分かりやすくショックを受ける。こんな子供の小遣こづかい程度の額だけ残してもらっても嬉しくない。どころか、引き出す時の手数料でなくなってしまう。

「なんだよ。文句があんのかよ。文句があるならババアにでも言えよ。アンタが自分で決めた事だろ」

「そ、そうですが……」

 それもそうなのだが、まさか本当に全財産をここまで綺麗に抜かれるとは思っていなかったので、何とか笑顔を浮かべる小夜の顔も若干引きつっている。

「……というか、口座の暗証番号言ってませんよね? どうやって……」

「それ、オレらに聞くか?」

「……ああ、なるほど」

 小夜は頭に、東條と要の顔を浮かべる。『あらゆる情報を瞬時しゅんじに知る』能力者と、『知りすぎてしまう』対価を持つ能力者。どちらか一人がいれば、他人の銀行口座の暗証番号を知ることなどたやすいだろう。

「……ん?」

 と、残った数百円の残金を見た小夜は、ふと気がついた。

 よく見ると残された残金は、一週間前、アカリ君にジュースを買ってあげた時の金額と同じだ。

 もしかしてこれ、あの時のジュース代ってこと? ……だとしても嬉しくない。それならばいっそ、全額を綺麗に引き出してもらったほうがマシなんだけど……。小夜はそう思いながら通帳を閉じ、カードと一緒に上着のポケットにしまった。

 その時、アカリの手からハサミが落ちた。

「あ、落ちましたよ」

 小夜がそれを拾い上げるが、アカリの目はどこかぼんやりとしている。様子がおかしいことを、小夜は感じ取る。

「……そういや、オレのを教えてやるって言ったな」

 言いながら、アカリの手が動いた。尻ポケットから何かを抜き、チキチキ、と刃を出していく。アカリが手にしたのは、どこにでもあるカッターナイフだった。

「言いたくねえが、ああ言っちまった以上仕方ねえ。まさかアンタが、あの部屋から戻ってくるなんて思わなかったしな」

 そう言うとアカリは、カッターナイフの出した刃を自分の左腕に当てる。そしてあっさりと、当てた刃を強く引いた。

 赤い線のようになった傷から、ぷくりと赤い玉が浮き上がる。傷が開き、溢れた血が重力に負け、ぽたりぽたりと床に落ちていく。

「ちょ、ちょっと、アカリ君!」

 小夜は跳ね上がるようにソファから立ち上がる。受付にばっ、と顔を向けると、すでに職員はアカリを見ながら急いでどこかへ電話をかけている。

 腕から血を流しながら、アカリは当たり前のように話し続ける。

「オレのは《触れたものを修復させる》ってやつだよ。それで対価は……まあ、これだ。《直した分と同じだけ自分の体を傷つける》ってやつ。自分の傷が治せねえのは欠点だけどな。

 それで二年前、クソピエロとあのウソツキがやり合った時なんか、アイツを治した対価でオレも死にかけたぜ。まったく、あのクソったれ」

 アカリはそう言うと、血が垂れる傷の横にもう一度カッターナイフをあてがい、強く引いた。二本目の赤い線が刻まれ、すぐにそこからも血が流れていく。

「去年の『確率』のジジイとの勝負だって、アイツ、オレが治すこと前提ぜんていで乗り込んでいきやがる。ま、あのジジイのカジノでずいぶんかせげたからいいけどよ。毎回他人治して自分が死にかけるんじゃ、わりに合わねえってもんだぜ」

 独り言で文句を言うと、アカリはカッターナイフの刃を戻して、ズボンの尻ポケットにしまった。

「ア、アカリ君、血が……」

「ほっとけ。そのうち止まる」

 傷を見ながらアカリが言う。特に動じたりうろたえている様子はない。まるで慣れているかのようだった。

「今回のそれは、サービスにしてやるよ。どうせ金もねえだろうしな」

 と、アカリが言う。

 すると居住棟のほうからばたばたと職員が二人ばかりやってきた。一人は救急箱を持ち、もう一人はバケツとモップを持っている。

「アカリ君、ここはみんなの場所だから、ここではやらないでって言ったよね。これ言うの何回目かな」

「うるせえ。知るかよクソったれ」

「その言葉遣いも直してねって前にも言ったよね? もう一回咲子さんの所で日本語勉強してくる?」

「お断りだ。クソボケ」

 職員に腕の手当てをされているアカリは、空いた右手で中指を立てた。手当てをする職員がため息をつく。

 もう一人の職員は小夜の髪が散らばった床を見て、同じ色の髪を持つ小夜の顔を凝視する。ごめんなさい、と小夜は心の中で謝りながら、その職員から顔を逸らした。

 その職員はバケツとモップをその場に置いて、来た道を戻って行った。おそらくほうきとちりとりを取りに行ったのだろう。

「お待たせしました。受付番号12番の方ー」

 と、自分の番号が呼ばれた。だがアカリを残していいものかと、小夜は受付カウンターと手当てをされるアカリを交互に見る。

 目が合ったアカリは、行けよ、とでもいう風に受付をあごで示した。

「……」

 小夜はうしがみを引かれる思いでひとまずアカリに背を向け、受付カウンターに向かう。

「お待たせしました捜査官さん。要君の同伴外出ですね。隔離棟の責任者の者から許可が下りましたので、同伴外出可能です。お帰りは何時頃になりそうですか?」

「それはちょっと分かりません。遅くなるようなら、彼は今夜、捜査室に泊まらせようと思っていますので」

「あ、そうですか。それなら室長さんもいるし安心ですね。もし組合に戻ってくる場合は裏口からお願いします。今日の夜勤担当はメアリさんとスカルさんです」

「分かりました。ありがとうございました」

「要君はタグから呼び出しておきました。外出中に何か困ったことがあれば、受付に連絡をお願いします」

「はい。ありがとうございます」

 小夜は受付の男に礼を言い、邪魔にならないよう隔離棟側へる。いつの間にかアカリと二人の職員はいなくなっていた。床も綺麗に掃除されている。二人の職員は自分の持ち場に戻ったかしたのだろう。すれ違わなかったので、アカリ君はそのまま外に行ったのかもしれない。

 ほどなくして、外出許可の下りた要が隔離棟からやってきた。

「お待たせ。許可の申請、ありがとね」

 合流するなり、要は小夜の顔を見て少し驚いた。

「なんか顔が綺麗になったね。アカリ君でしょ、それ」

 何とも誤解のある言い方をして、要は笑いかける。言い方を注意するべきかと小夜は迷う。だが、要の表情から悪意は微塵みじんも感じられない。それも相まって、小夜は複雑な気持ちになる。

「手も治ってよかったね。それじゃあ行こうか。お昼何食べたい? なんでもいいよ。喫茶店の貸し切りでもさ」

 要は歩き出し、出入り口へと向かう。小夜も、彼の後ろをついていく。

 組合を出ても要は、小夜の整えられた髪には一言もふれなかった。


「おや。カナメじゃないか」

 組合を出た二人を、ちょうど敷地内に入ってきた女性が声をかけた。

「あ、メアリさん」

 要も足を止め、その女性と向き合う。

 要がメアリと呼んだ女性は、海賊の格好をしたいつぞやの人物だった。今日は赤みがかった髪を白いリボンで軽くポニーテールに結んでいる。女性の後ろには、同じく前に見た黒ずくめの人物も一緒だ。前と同じく黒のロングコートを羽織って肌を隠し、帽子とサングラスで顔も隠している。七月のなかばだというのに暑くないのだろうかと小夜は思う。

 二人とも昼食を買った帰りなのか、手には牛丼チェーン店の袋をげている。

 四人は組合の前で足を止める。

「一週間も姿が見えなかったが、どこへ行っていたんだ?」

 と、女性が要に聞いた。要は答える。

「咲子さんの所に行ってたんだよ。それで、ついさっき帰ってきたところ」

「そうかそうか。どおりであの部屋を開けても店に行けなかったわけだ」

 女性はうんうん頷き、一人で納得している。

「今回は帰ってくるのがやけに早かったが、どんな手を使ったんだ? いろ仕掛じかけか?」

 女性が笑いながら聞いてくる。要は困ったように苦笑する。

「そんなことしないよ。そんなことしても、あの人には彼氏さんがいるんだから」

「ふふふ。そうだな」

 女性はそう言って、なぜか笑みを浮かべた。

「それに今回、あの世界から出られたのは僕の力じゃないよ」

 と、要は横にいる小夜に目をやった。女性も小夜の顔を見る。どうやら小夜の顔を見ただけで何かをさっしたようで、女性は、

「ほお」

 とだけ言葉を漏らした。

「前に見た捜査官だな。ないあいだにいい顔になっているじゃないか。なあ、セリュー」

 女性が黒ずくめの男に聞くと、男も同意するようにうんうんと頷いた。

「まるで海に出る時の男たちだ。酒場さかばでビールをびるほど飲んでバカさわぎをしていても、出航となればみな顔つきが変わる。船の上で死ぬ覚悟と、命より大切な船を血で濡らす覚悟を顔に浮かばせる。今の君は、そういう顔をしているぞ。胸を張ってほこれ」

 女性が自分の胸をどんっと叩く。男もうんうんと頷いている。

「そうですかね。そういうのは自分ではよく、分かりませんが」

「そういうものだ。自分の中の変化とは。きっかけのあとに変化があり、その変化は時間と共に表に出てくる。その瞬間だけ変わっても意味はない」

 小夜が言うと、女性はそう返した。

 と、男がスマートフォンの画面に文字を打ち込み、その画面を女性に見せる。

『メアリ、そろそろ行かねばお昼休みがなくなってしまいます。牛丼を食べながら会長との会議に参加することになってしまいますよ。』

「ああ、そうだな。忘れていた」

 打ち込まれた文字を読むと、女性は小夜に言った。

「また今度じっくり話そう。受付に寄ってくれ」

 と、女性は小夜に右手を差し出した。握手である。

「死人との握手は嫌かな? お嬢さん」

 女性は赤みがかった目で小夜を見る。

「いえ。そんなことありません」

 小夜は同じように右手を差し出し、女性の冷たい手を握る。氷よりも冷たい温度が、彼女の手から伝わってくる。

「メアリだ。隔離棟の責任者をやっている。こっちはスカル。彼と私は長い付き合いでね。私は彼をセリューと呼んでいる。よろしく頼むぞ、捜査官」

「捜査室所属の泉小路小夜です。よろしくお願いします」

 二人は軽く自己紹介し合い、手を離す。

「では、我々はこれで失礼する。カナメ、そのお嬢さんに迷惑をかけるんじゃないぞ」

「そういうの、余計なおせっかいって言うんだよ」

 要の言葉に、女性は軽く笑う。

「お嬢さん。こいつにムカついたらいつでも私に言ってくれ。きついきゅうをすえてやるからな」

「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ、たまに『鼻の骨折ってやろうかこいつ』って思う時はありますが、最初よりかは慣れました」

 小夜は正直に答える。女性はまた笑った。

「では、また会おう」

 女性が言い、男も軽く頭を下げて組合の中に入って行った。小夜はしばし、去って行った二人の背中を見つめる。

「どうしたの? 小夜ちゃん。行かないの?」

 その場で立ち止まっている小夜を見かねて、要が声をかけてきた。彼の顔を見て小夜はふと、要が前に言っていたことを思い出した。

『みんな同じだよ。『死にたくない』から』

『こうなったみんなはすくなからずそうだよ。みんな『死にたくない』……その中でも僕は、特にそれが強いってことになるかな。逆を言うと、どんな形であれ生きたいってこと』

 ああ、なんだ。小夜は思う。ふ、と息を吐くように軽く笑う。

 小夜は先月の自分が思っていた疑問に、自分の中で答えを出す。彼らが今を生きている至極しごく単純たんじゅんな理由は、本当にそれだけだったのだ。

 なんだ。あんなにも悩んでいた自分が馬鹿らしい。

 一度「死」を経験したからこそ、二度目の死を味わうかもしれないのに、彼らは今を生きることを選んだ。死にたくないというだけで。彼らは本当に、それだけだったのだ。

 なんだ、それだけのことだったのか、やっと、彼らのことが分かった気がする。

「なんでもないですよ。ただ少し……」

 小夜は、空を見上げる。

 そらわたるほどに青く、雲一つ浮かんでいない。真上に輝く太陽と、すずしげな夏の風が吹いている。風の中に混じり、遠くからせみの声が聞こえてくる。

 小夜は、昭和五十六年の世界をぐるぐると繰り返し続けている彼女のことをおもう。彼女も今、あの世界で同じ空を見上げているのだろうか。それとも、あの満天の星空を見ているのだろうか。それとも、朝日や夕焼けを見ているのだろうか。

 彼女がいる「今日」は、一九八一年のいつだろうか。六月十五日かそれより先の日か、それより前の日か。

「少し……どうしたの?」

 要が聞いてくる。他人の頭の中を読めるのに。小夜は空から視線を戻し、そんな要の顔を見る。

『僕は、どんなことをしてでも死にたくない。たとえ死にかけても、死ぬようなことになったとしてもね』

 いつかの日、彼はそんなことを言っていた。

 それが彼の本心なのか嘘なのかは、まだ分からない。けれど確かにあの世界での彼は、少なくともすべて本当のことを言っていた。それは「自分が死にたくない」から本当のことを言ったのかもしれないし、たんに気分で全部教えてくれていたのかもしれない。

 彼は会った時から嘘を言っていたのか、嘘の中に真実を隠しているのか、それもまだ分からない。彼については、まだ分からないことだらけだ。

 けれど彼は自分のことを「嘘つき」と言いながら、今、私の前に生きている。矛盾した行動で自分の命を賭けながら、二度目の人生を生きている。本心か嘘かも分からない、「死にたくない」というだけで。

 だったらそれも彼の真実であり、彼の嘘なのだ。何もかもが矛盾している、おかしな自称「嘘つき」。だったらそれが、彼……『京谷要』という人間なのだ。

「嘘つき」かも「正直者」なのかも、「嘘」なのかも「本当」なのかも分からない。分からないなら、それも合わせて彼という人間なのだ。

 難しく考えすぎていた。見事自分は、彼の言葉にまどわされて勝手に悩んでいただけだったのだ。

「いえ。なんでもありません。行きましょうか、要君」

 小夜が歩き出す。その後ろに、要もついてくる。

 歩き出した小夜の顔は、一週間前の、覚悟もないまま行動していた顔とはまるで違っていた。

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