【少女の正義】②
「……」
女子トイレの洗面台に手をかけ、小夜はため息をつく。正面の鏡には、濡れた顔でうつむく自分が映っている。
小夜はもう一度ため息をついた。持ってきたハンカチで顔を
小夜は蛇口をひねって水を出し、もう一度顔を洗う。冷水が少し
「……
鏡を見つめ、小夜は呟く。頭ではその
「……」
ジャケットのボタンを外し、脇に提げているホルスターから
銃はずしりと重く、持っているだけで右手が痺れる。それにこの道具は自分の手には
「……」
自分がほんのわずか人差し指に力を入れただけで、相手の命を奪える。モデルガンなどとは比べ物にならないほど簡単に。たった数グラムの弾丸で、相手を
そんな道具を現場に出る捜査官たちは
『その時に引き金を引けるか、その判断ができるか、その覚悟があるかだ』
上司に言われたことを思い返す。どういう意味なのかは、よく分からない。
覚悟とは、なんだろう。小夜は考える。そんなことを考える前に話し合えばいいのに、と小夜は思う。
昔、捜査室に来たばかりの頃。銃を使う時が来るんですかと、上司である父と先輩の流鏑馬君に聞いたことがあった。
「銃を使うのであれば
そう言うと二人は「今の聞いたか?」とでも言うようにお互い顔を見合わせ、次の瞬間、二人同時に吹き出した。
下を向き、肩を震わせて笑っている桃太郎の代わりに、照良が答える。
「あのなあ小夜ちゃん、そういう
「……」
「確かに、殺さずに済むならそれに
「分かりません」
小夜は即答する。桃太郎が吹きだし、照良が困ったように頭をがしがし掻く。
「
「あのな、それでも
「それは……銃を持つ人の技術がないだけで……」
「おいおい。
「そ、そういうことは言ってません」
「じゃあたとえば、相手が一般人の子供でも人質に取っていた時、お前は相手の頭や心臓じゃなく、そのゴム弾とやらで相手の腕を狙うのか? それとも足か? それとも銃を捨てて『やめましょう』とか言うつもりか?」
「はい。そのつもりです」
照良の横にいる桃太郎が、小夜の言葉にまた吹き出した。
「室長、俺たち全員殺されますよ、この新人に」
桃太郎が照良に冗談を言う。その冗談の意味は、小夜には分からない。
「つまりお前は、仲間の誰かが死ぬ状況でも銃を抜かねえって言うのか? 仲間が死んでも、話し合いで解決したらそれで終わりにするのか? おいおい、死んだ奴は
「……そういうわけではありません。ただ、話し合いで解決できることはそれで解決したほうがいいと……」
「人を殺せる道具を持ってんのに、か?」
「……」
「あのな、お前に支給したそれはおもちゃじゃねえんだ。それなのにお前は『話し合いで解決しましょう』なんて言いやがる。その意味を分からずにな」
「……銃を使うのは最終手段でしょう? 自分の身を守る道具として支給されていると聞きましたが」
「ああ、そうだ。自分の身を守る。死なないために、殺されないためにな。分かるか?」
照良はジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本取り出す。
「……分かりません」
「だろうな。お前はただの『仕事の道具』として銃を持ってる。俺たちは『生きるため』に銃を持ってる。この違いだよ。銃の重さも知らねえ奴が『全員助ける』なんて言ってやがるんだ。
誰も殺したくねえなら、まず生きてる人間に銃を向けてから言え」
「……」
上司としての父を見たのは、その時が初めてだった。普段とは違う顔の父に、思わず小夜は黙り込む。
「一個教えてやる。そういうのは正義や
そのままだとお前、そのくだらねえ正義で大勢の人間を巻き込んで全員死なせるぞ。それをやっても、お前は気がつかねえだろうがな」
照良はくわえていた煙草に火をつける。そして背を向ける。
「いい優しさなんだけどなあ、ここではいらねえ優しさだなあ。素直に育ってくれて喜ぶべきなのか、それとも上司として教育しなおすべきなのか。それとも別の仕事を
ぶつぶつ言うと、照良はぶらりぶらりと歩いていく。桃太郎も照良の後ろについていき、二人は去って行った。
そのときのことをふと、小夜は思い出した。父がどうしてあんなことを言ったのか、その言葉の意味は、今も分からない。
「……」
小夜はもう一度冷たい水で顔を洗い、頬を軽く叩く。蛇口を閉め、ハンカチで顔を拭く。
「……よし」
鏡に映る自分を見ながら、小夜は気合を入れる。いつまでもくよくよ考えていても仕方がない。まだ今日は始まったばかりだ。落ち込んでいる暇などない。
気持ちを切り替え、女子トイレから出た小夜は、時間を確認しようとジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。
「ん?」
と、小夜は画面を見て気がつく。『京谷 要』から着信があったようだ。録音メッセージが一件入っている。しかし、その時間を見て小夜は首をかしげる。
着信があった日付と時間は『6月15日 19:13』。今日から一か月ほど前の日付だ。しかも夜。これは一体どういうことだろう。念のためスマートフォンを再起動してもみたのだが、要からきたメッセージの時間の表記はそのままだった。
「本体の不具合じゃないなら、ただのいたずら……? まったく、暇な人なんだから」
小夜は言いながら、彼からのメッセージを人差し指でタップする。機械音声のあと、留守番電話サービスに残された彼の声が再生された。
『ごめん、負けた』
「……は?」
女子トイレの前に立つ小夜は、思わずそんな声を漏らした。意味が分からない。
『賭けをしよう。僕は……君が来ないほうに賭けるから……。待ってるから。ごめんね……』
最後に謝罪の言葉で締められ、それでメッセージは終わった。
小夜は額に手を当ててため息を吐き出した。意味の分からないいたずらだ。暇な人だと、小夜はもう一度思う。
「……」
しかし、
こんな
そしてもう一つ気になるのは、あの男が真面目に謝罪の言葉を口にしたということだ。あの男が素直に謝るなど
小夜は画面をタップし、もう一度メッセージを再生させた。端末を耳に当ててよく聞いてみると、なんだか申し訳ないというような……苦渋の決断をしたような声に聞こえる。少なくとも、演技にしてはなんだかやりすぎなような気がした。
『……待ってるから。ごめんね』
二度目に再生した録音が停止する。
「もう……!」
小夜は耳に当てていた端末を離し、画面に表示されている『京谷 要』の名前をタップして電話をかける。ここで考えているより本人に直接聞いたほうが早い。
しかしすぐに、『ただいま電話に出ることができません。ご用件の方はメッセージを……』という機械音声が聞こえてきた。小夜は苛立ちを顔に浮かばせてぶつりと電話を切る。
あの男、どういうつもりだろうか。小夜は額に手を当て、再びうーんと考え込む。こんないたずらをしておいてわざと電話に出ない、という可能性もあるが、それはひとまず置いておこう。
一番謎なのはメッセージの日付だが、まずは録音されていた内容から考えてみよう。
負けた、という言葉からして誰かと勝負か何かをしていたのだろうか。あの男が負ける勝負となると……絶対に断れない“賭け”だ。残された彼のメッセージから小夜はそう
それならば言っていた他の内容とも
だが、問題は「誰に負けた」のかということだ。「待っている」と言っていたが、場所の手がかりがないのでは探しようがない。
本当に来てほしいのか、それとも来てほしくないのか、相変わらず意味の分からないことをする男だと小夜は思う。小夜はため息をつきながら、スマートフォンをジャケットのポケットにしまった。
「……」
そしてどうするべきか、その場に突っ立ったまましばし考える。組合にいるあの人ならば知っているかもしれない。その前に、何か知っていそうな人物が一人いる。まずはその人に聞いてみよう。
しばらく考えていた小夜は、ようやく女子トイレの前から動いた。
「……あの、室長。新しく捜査官になった彼……
室長のデスクで椅子に座っている照良に、小夜は言う。照良は、パソコンの画面を見ながら言葉を返した。
「彼って? あれ、新しい捜査官なんか入ったっけ」
「……隔離棟の京谷要ですが。室長が捜査官にしたんでしょう?」
「きょうや……なに? 誰そいつ」
「京谷要です。隔離棟の」
「そんな奴いたっけ」
「先月に、室長が特別捜査官に任命した……」
「あー……ああ、いたなあ、そんな奴。うん。あいつね。覚えてる覚えてる」
パソコンの画面を見ながら、照良はのんきな返事をする。完全に今思い出したというような反応だ。
「……その彼、今どこで何をしているんですか?」
「うーん……さあな。ま、生きてるだろ」
他人事のように照良は答える。彼を捜査官と任命した張本人の言い方とは思えない。
小夜は一つため息をつく。まともに答えてくれないのならば、もう一人を当たってみよう。今から会う人が許可を出してくれれば、
小夜は自分のデスクに戻り、鞄を肩に引っ掛けながら照良に言う。
「室長」
「ん?」
「今からちょっと組合に行ってきてもいいですか? 少し気になることがあって」
「おう。いいけど、気をつけてな。というか小夜ちゃんだけじゃ入れねえだろ?」
「東條さんに確認を取ってから、居住棟に入れてもらおうかと」
「あ、そう。それならカードがなくても入れるわな。東條さんに会うならついでに面談の日程表渡してきて。あと、ついでに対価の残り時間も聞いてきて」
「分かりました」
「なんかあったら連絡な。忘れんなよ。あと、面談は週明けからだから、それまでに各捜査官、職員への日程表を完成させておくように」
「はい」
捜査室を出る前に、机の上を整理させておこう。机の上には作業途中の紙の束とホッチキスが
「そうだ。行く前に、ちょっとこれに名前と判子よろしく」
整頓を終えたと同時、上司から声をかけられた。小夜は鞄を肩に引っ掛けたまま照良のデスクに行き、渡された物に目を向ける。
「これな。俺の名前はもう書いてるから」
それは一枚の紙だった。小夜はその紙を受け取りながら聞き返す。
「何の書類ですか? 私、自分でサインするような書類はないと思いますが……」
受け取った紙の真ん中あたりに目やる。言われた通り、すでに上司の名前と判子が押されている。そのまま視線を紙の真ん中から一番上に向けると、そこには『経費使用申請書』と大きく書かれていた。
「経費申請書? 室長、私、経費で落とすようなものは必要ありませんが……」
「理由はもう書いてる。見てみろ」
小夜は言われるがまま、
『経費使用品とその理由:捜査官、泉小路小夜の大人用オムツ×30枚。理由は現場で漏らしてしまったから。これから先も必要になるかと思います。念のため』
小夜はその紙を両手で持ち直すと、
「私には必要ありません」
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