偽称の虚言者 ー虚ろを巡る魔女ー

萩月絵理華

虚ろを巡る魔女

【プロローグ】

【プロローグ】

 また、今日が終わった。一九八一年、六月十五日。

「……綺麗な空ね」

 と、開け放たれた車の後部座席で女が空を見上げた。とうにあたりは明るく染まり、木々の隙間からは朝日の光が差し込んできていた。日付を超え、一九八一年、六月十六日の朝が始まる。

「今日はどんな日だったかしら。ねえ……」

 女は空を見上げながら呟いた。その声には何の抑揚よくようもなく、表情にも一切の感情が浮かんでいない。

 女の膝の上には、青白い顔をした男の頭が乗っていた。目を閉じた男は人形のように微動びどうだにしない。二人の横には七輪しちりんが置かれ、中に入っている練炭からはすっかり火が消えている。

 太陽が顔を覗かせる。木々きぎの隙間から、朝のざしを向けてくる。

 女は履いているスカートのポケットから、抜き身の包丁を取り出した。それを逆手さかてに持ち、躊躇いなく自分の喉元へと向ける。

「次こそはきっと、奇跡が起こるかしらね」

 何の感情もない声で言う。

 そして次の瞬間、みずからの喉元に向けた包丁の切っ先を、女はぐっと押し込んだ。


 ***


 コトリと、チェス盤の上に立つ白の王が倒される。

「はい、終わり。また私の勝ちね」

 と言ったのは椅子に座った女である。

 女が着ているのは女学生じょがくせいのような黒のセーラー服。学生のような格好だが女の顔は完全に大人おとなびており、顔立ちと服装がどこか吊り合っていない。そんな小さないびつさもあいまってか、女はとらえどころのないミステリアスな雰囲気ふんいきかもし出している。

「あなた、ちゃんと真面目にやってるの? 勝負に負ける才能あるわよ」

 女は倒した白の王を指でいじりながら、くすくす笑った。

 女が話しかけているのは、正面に座る一人の男である。男の格好は暗い色のパーカーとズボン。腰には同じく暗い色のポーチをつけている。

 そんな男はこめかみから汗を流しながら、盤上の倒された白の駒をじっと見つめている。

「ねえ。『この勝負に一回でも勝てたら、もう一人を殺しに行ってもいい』っていう賭けだったじゃない? でも、さっきの勝負で十五回目だったわ。それに全部私が勝ったのよ。このままだとあなた、ここから一生出られないかもしれないわよ」

 女は男に話しかける。

「……」

 男はただ、盤上の倒された駒を見つめるだけで何も答えない。

 二人がいるのは小さな喫茶店の一角いっかくだった。店の外はすっかり暗い。

 窓から見える大通りに、信号が青になるのを待つようにしてたくさんの車が停まっている。その全ては年代ねんだいを感じさせ、中には誰一人として乗っていない。近くの線路に路面電車が停まっている。その運転席にも車掌はいない。

 通りにある服屋にはポーズを取ったマネキン人形が飾られている。その人形の格好もどこか年代を感じさせる。

 妙な場所だった。店の中にいる二人以外に、他の人間は一切見当たらない。

「この世界で動くもう一人を殺したら、ここから出してあげるって言ったわね。けれどその前に私に勝たないと、この店からも出られないわよ」

 女は笑いながら言う。その全ての言葉に反論できないことに、男は膝に置いている拳をぐっと握る。

「も、もう一回……」

 と、男は声を喉から絞り出した。それに女は、

「いやよ。あなた弱いから飽きちゃった」

 と、さらりと答えた。男のこめかみから汗が流れてズボンに落ちる。

「それよりほら、さっきの賭けで負けた人は、どうするんだったかしら」

「……もう一人、ここに呼ぶこと……」

「そうよ。分かってるなら、早くやってね」

 女は微笑みかける。男は震える手をズボンのポケットに入れ、そこからスマートフォンを取り出す。命令していないのに右手の親指が勝手に動き、電話帳の画面を表示させる。そこまですると指が止まった。あとは自分で選べということだ。

「……」

 男は画面に表示されている名前を見つめる。

『アカリ君』

『泉小路照良さん(小夜ちゃんのお父さん)』

『おじいちゃん』

『咲子さん』

『透おじさん 現組合会長』

 男は画面に右手の人差し指を当て、さらに下へとスクロールさせていく。

『小夜ちゃん』

『東條さん』

『春ねーちゃん』

『誠二郎おじさん 当主代理』

 男の指が止まった。一旦止まり、また上にスクロールさせる。男の黒い目が、ある人物の名前を見つめる。

「あなたのお友達だとどうなるかは……考えなくても分かるでしょう? よく考えたほうがいいかもね。私たちと同じじゃない誰かにするか、それ以外の誰かにするか。それもまた、一つの賭けね」

 誰もいない外を見ながら女が言う。

「……」

 男は画面を見つめてしばし迷うような顔をしたあと、画面をタップした。呼び出し音の鳴る端末たんまつを耳に当てる。

 しかし呼び出し音が切れても、聞こえてきたのはメッセージを残すよう促す機械音声だった。そのことに、男はわずかにほっと安堵あんどする。ピーという音が聞こえ、男は口を動かした。

「……ごめん、負けた」

 男は言葉を続ける。

「賭けをしよう。僕は……君が『来ない』ほうに賭けるから……」

 ちらりと女のほうを見る。視界の端で、女がカウンターに立てかけている何かに手を伸ばしている。

「……待ってるから。ごめんね……」

 男は最後にこう残し、終了のボタンをタップした。

「あら。あなたが謝るなんて珍しいのね」

 と、女が言う。声と同時に、ガシャ、と何かをはめるような金属音。男の体がびくっと跳ねる。

「あ……」

 右に目を向けると、黒い穴が自分を向いていた。男は恐怖に目を見開く。

「あなたは自分の心にさえも嘘をつく最低の嘘つきだわ。そうでしょう? そんなあなたのこと、助けに来る人なんているのかしら」

「……」

 男は何も答えない。ただ目を見開かせて、こちらを向く黒い穴を見つめている。

「まあいいわ。誰が来ようとどうでもいいし、何も変わらないわ。だってここはもう、過ぎた過去なんですもの」

 女が言う。かちりという音を聞いた瞬間、黒い穴から視界いっぱいに閃光がはじける。男の意識はそこでぶつりと途切れた。


「さて。誰を呼んだのかしらね」

 女は歩道に吹き飛んだ男の死体に向けて言う。死体の頭部は吹き飛ばされて原形をとどめていない。歩道をまたぎ、道路に赤い液体をまき散らせている。

 店の中もひどい有様ありさまになっていた。男が座っていたあたりの席は粉々になっており、窓も大穴おおあないてガラスの破片が散らばっている。女の整った顔と着ている服にも真っ赤な血が飛び散り、ぽたりぽたりと床にしたたっている。

「店がぐちゃぐちゃだわ。直さなくちゃね」

 女は銃を放り捨て、カウンターの棚から包丁を抜いた。その刃先をまっすぐに、自分の喉へと向ける。

 そして何の躊躇いもなく、女は自分の気管へと包丁を押し込んだ。

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