第三十六話 分岐点2
風切り音が頭上からして、殺気の塊が後方へと走り抜けていく。
「おかしいな、確かに首んとこを狙ったのに」
佇んでいた位置とは対角線に移動した蜘蛛男が、空を切ったファルシオンを不思議そうに眺めている。
剣に不備があったと思うあたり、自分の腕に相当な自信がありそうだ。
その様子では、僕が意図的に避けたのだとも思うまい――自分でも驚いているのだから、そうに決まってる。
「苦しむ時間が増えるだけなのに、まぐれで命拾いしちゃったね」
敵前には相応しくないゆったりした見分を経て、蜘蛛男は獲物を肩に置くようにして担ぐ。
魔族を従えた彼は、悪を切り捨てる勇者のような自信に満ちていて。
あいつの油断を引っぺがすには、生半可な攻撃では駄目だ。
集中すればもう一度くらいは避けてやれない事もないけど、直感に頼りすぎているのが不安である。
よし、避けたな。あれ、景色が回っておかしいぞ――ぽとり。首が落とされてました。
そんな情けない最期を迎えれば、末代にまで恥を塗りたくってしまうだろう。
僕は一人っ子の童貞なので、死んだら僕が末代だけど。
「まぐれかどうかは、僕を殺してから決めた方がいいよ。初撃で決めれないなら、あんたの剣が鈍らだった可能性もある」
「俺がそんな見え透いた挑発に乗るとでも? ざーんねん。至って冷静沈着な俺の手によって、お前はこのまま地獄行きでーす」
「じゃあ地獄の偉い人にはこう説明しとく。『蜘蛛男は私よりも心の汚れた恐ろしい魔族です。どうか極刑に処して下さい』って」
「相手を煽ってどうするの……!」クルミアが這いずりながら問うてくる。責めるような口調で、持て余した感情が語尾の裏で揺れていた。
「……さっきから蜘蛛男って呼んでるけどさ、俺には母さんから貰ったザエコギュって名前があんのよ。これから死にゆく無礼者でも、呼称くらいはしっかりしようぜ」
これは思わぬ所が引っかかった。
蜘蛛男は地獄の下りでは反応しなかったものの、『蜘蛛男』という名称に対して怒りを露にした。
場の主導権を握っているはずの余裕がおもむろに剥がれ、爪先を上下に動かす。
たんたんたん、とリズムが刻まれるたびに、水を吸った汚泥が重苦しい軌道で跳ねて。
魔族は名前や呼び方に、並々ならぬ思い入れがあるのだろうか。
「ふーん、でも」
良心は痛まない。ただ、後でクルミアにめっぽう怒られる悪巧みを思いつく。
「その名前の発音、ややこしくて疲れるな。略しやすいし『ザコ』に改名したら?」
瞬間、雨だれの音だけが響く静寂。
魔族にこの言葉が通じるのかは不安だった。しかし、どうやら杞憂に終わりそうだ。
「今日は過去類を見ない最悪の日だった。後で日記にそう書くよ」
ファルシオンが雷光に怪しげな光を反射させ、血走った蜘蛛男の顔を僅かに照らす。
「書いた日記は燃やさないと駄目だ。汚い言葉を吸い込んだ紙を取っておいたら、俺の気が変になる」
「そうだな、そうしよう」稲妻が収まると、影が辺りを支配する。暗がりの中で茶鼠の体毛が擬態していて、雨粒を弾く様相だけが浮かび上がっていた。
姿勢が高くなる。いや、それは僕の恐怖心だ。感情の色眼鏡を外して見れば、体を丸めて縮こまった蜘蛛男。
しなやかな物は反発すると、野菜籠を作る時に学んだ。
底を形成しようとして曲げた木材が限界を迎え、豪速で元の形へと戻ろうとする音――軋む筋肉の躍動が、嵐の中でも鮮明に鳴り響く。
「全部、お前を殺してからなァ!!」
余りの加速度に、湿気ているはずの地面から火花が散る。
暗雲立ち込めるこの視界では、蜘蛛男の姿を捉える事はできない。恐らく、快晴の日であっても不可能だろう。
クルミアの疑問も然り。
攻撃までの時間が短くなれば、その分だけ自分の寿命を縮めるのに。
「『氷瀑の腕』!!」
――それは全て、一か八かのカウンターに賭けるためだ。
技名はただの飾りでなく、魔法のイメージを固めやすくする効果があるので。
僕は怒り狂って突進してくるであろう蜘蛛男の進行経路に、名前と共に唯一の切り札を召喚した。
透明なガラス細工の美しさに、確かな自然の強さを秘めた氷の腕。加速して止まれない蜘蛛男の頭部に向かって、拳の先端を突きつける。
反響蟲との一件で空っぽになったはずの魔力は、食しておいた団子の効果で回復していた。
半分残してしまったのに、大した効能である。
「ズガッ――――!?」
自分の力をそっくりそのまま反射されて宙を舞う蜘蛛男を睨みつけ、早鐘を打つ心臓をそっと抑える。
魔法を設置した僕は、回避を捨てて魔力の注入に全力を賭した。
『氷瀑の腕』を置いた直後に
クルミアの『白水演舞』にあっさり突破されてしまった事実も加味して、全神経を魔蔵庫の管理に捧げる必要があった。
「これが、僕の答えだ……!」
氷の拳に小さな亀裂が入り、儚げな音を撒き散らす。
残り汁が一滴も出ないであろう力量で絞り出したというのに、渾身の魔法は蜘蛛男の突貫と相打ちになってしまった。
薬効つき団子の咀嚼が僅かでも少なければ、押し切られていたのは僕だ。
きらきら漂う白銀の鱗粉に確かな虚脱感を覚えながら――しかし気丈に振舞って隙を見せない。
「……やられちまったのか?」
「そんな馬鹿な。あいつは聖騎士に囲まれて尚、全員を血祭りにあげて生き延びた選りすぐりの戦士だぞ。子供騙しの鈍器などで死ぬはずがない」
「でもよ、瞳孔おっぴろげて微動だにしてないぜ!? どう見てもキマってるだろう!?」
「あいつ一人で行かせたのが間違いだったんだ。囲んで袋叩きにしちまえばこんな事には――」
僕がいるのも忘れ、喧々諤々の言い争いを始める魔族達。お山の大将が返り討ちになったお陰で、口の縫い糸がほどけたようだ。
蜘蛛男が死んだのかどうか、蜘蛛男の武器を奪ってクルミアルドを処すべきか、そもそもあの魔族(僕)は何者なのか――平行線かつ無益な討論が行われている。
僕は鼻から息を吸って、静かに吐いてから蜘蛛男の方へと
油断はなく、敵が力尽きたのかどうかを判断するだけ。
喉から出そうな心臓を手動の栓で固定して、毛むくじゃらの相手へと近づいてみる。
暗がりと緊張で定かではなかったが、蜘蛛男は敵ながらに同情しかけてしまう程、顔色が悪かった。
気味悪く見開かれたままの眼球は黄色く濁っており、覗く乱杭歯も本数が足りていないように思える。
「…………………」
中指が欠けた手先に視線を流してから、僕は勝ち鬨も上げずに足を逆回転させる。
発するべき言葉は奇妙な雰囲気に呑まれ、吐き出した息すら雨粒に落とされてしまったようだ。
急激に冷えて大人しくなった鼓動を労わりつつも、視線を外さずに蜘蛛男から距離を取る。
「おい、反逆者が逃げるつもりだぞ。誰か追いかけて殺すんだ!」
「言ってる暇があるならあんたが行きなさいよ!」
「俺は足が折れて走れないのに、怪我人を労わる心はないのか!?」
「私だって栄養不足で今にも倒れそうなの! 子供も養う相手もいない独り身のあなたなら、死んだって誰も悲しまないでしょ!?」
「んだとこの糞アマ――」
この戦いで、誰が幸せになるんだろうか。
クルミアは言わずもがな、この場にいる魔族で心からの笑顔を浮かべた存在は一人もいない。
心と心をぶつけ合い、削り、抉り取る――摩耗していくだけの諍いに、何の意味があるんだろうか。
いよいよ内輪揉めが本格になってきた集団に意識を向け、じくじくと痛む思考で物思いに耽った。
まだ蜘蛛男を倒したとも決まっていないのに、緊迫のたるみが潮騒のように寄せては返す。
これではいけないと、僕は後ろ歩きの幅を大きくしてクルミアの元へ急ぐ。
「っお――――?」
その途中で、足取りが揺らいだ。
白銀の魔法使い 飴色あざらし @AMEIROAZARASHI
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。白銀の魔法使いの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます