星の琴

河原日羽

星の琴


 言葉なんて時代遅れのもので意思を伝えあっているのは、およそ人間くらいのものだ。言葉は覚えるのに時間がかかるし、伝えたいことが伝わるとは限らない。しかも、住んでいる地域によって使い分ける(!)なんて、不経済としか言いようがない。

 僕は恥ずかしながら、”人間”種族の一員だったけれど、この世界に満ちる音楽を聴くことができた。

 初めてきちんと聴くことができたのは、5歳のころ、水族館に連れて行ってもらったときだ。イルカたちが得意げな笑顔で空中のバーをくぐる様子を見ながら、僕は浮遊感のある不思議な音に満たされていた。

「あのイルカから出ている細い光は何?ママ」と僕は尋ねた。母は、太陽の光がイルカの皮膚にあたっているのよ、イルカの皮膚はなめらかだもの、と答えた。

 なるほど。なめらかな皮膚にあたると、光はイルカの体から僕の手元まで伸びることができるらしい。

 僕はその光に触ることができるような気がした。少し手を伸ばすと、ストーブに手をかざした時のようにほんのり暖かくなり、びん、と細い光が長く震えた。何かの楽器のようだった。

 すると、水槽でイルカがひときわ高く飛ぶのが見えた。周囲の音が、一斉に沸き立つようなテンポになるのを感じた。

 そのとき、僕はイルカがウインクしたのをはっきりと見た。

『ありがとう。肌のこと褒めてくれて』

 母は大きく歓声をあげた。オスのイルカなのかしら、筋肉が多いから、あんなに高く飛べるのね。

 なるほど。すばらしいオスのイルカだ。僕は感動のあまり、思わずもう一度光を触った。

 とたんに音が騒々しいものに変わり、バケツをひっくり返したのかと思うような水しぶきがこちらに飛んできた。

「ママ。あのイルカ、たぶん女性だよ」


 それから、イルカだけではなく、コウモリにも、ネコにも、トカゲにも、カエルにも、蝶にも細い光が見え始めた。

 すべての生き物は、近づくと彼ら自身のテンポで音を奏でているようだった。そして、僕のほうに向かってきた光を手ではじくと、一緒に音を奏でることができる。生き物たちの”言いたいこと”は音となって僕に聴こえ、僕の”言いたいこと”は演奏となって彼らに聴こえる。これは、言葉で喋るよりも効率的なやり方だった。なにしろ言語の壁というものがない。というより、僕ら以外の生き物は、ずっと音でお互い通じ合ってきたのだと思う。

『きみからは音こそ聴こえないものの、』

『われわれを楽器として演奏できる特別な才能があるみたいだ』

 通学路にいた双子らしいカラスたちはそう結論付けて、ゴミ袋の上で羽を大きく広げた。やはり文学的な表現はカラスに限る。僕は賛辞の代わりに光を弾き、鐘のような音を響かせた。

 テニスのガットのような、弦楽器のような細い光を、僕は「琴」と呼ぶことにした。僕の”演奏形態”は光を手で弾くものだったし、震える様子が楽器の琴によく似ていたから。

 不思議なことに、僕は人間の琴を見ることができなかったし、人間から音を聴くこともできなかった。そして、僕自身も、ひとりだけで音楽を奏でることはできなかった。人間には音が備わっていないのかもしれない。生き物たちの間でもこれは大きな謎だったようで、僕は”音”の通じる貴重な人間として、時折質問攻めにあった。


 そのうち、だんだん耳が慣れてきて、小さな音も聴こえるようになった。

 よくよく聴いてみると、近所のケヤキの木や、チューリップの球根、タンポポの根なども、それぞれ静かなベースのように音を奏でていた。イルカたちとは光り方が少し違ったが、彼らの琴も弾くことができる。どうやら、植物は動物よりもずっとゆっくりとしたテンポの、起伏の少ない音を持っているようで、琴で語り掛けてもそのテンポを崩すことはなかった。ただ少し音程が高くなったり、じんわりとした和音が増えたり、注意深く聴いていると彼らは彼らなりの方法で演奏をしているとわかった。

 そうして考えてみると、この世界は巨大なオーケストラのようだった。

 それぞれの生き物が独自のテンポで、勝手に演奏をしているけれど、不思議と音が重なってひとつの曲のように聴こえる。

『これが聴こえないのは人間だけ』意地悪な杉の木たちが一斉にニヤニヤするような高音を立てた。

 腹が立ったけれども、それは確かだった。人間は疎外されている。


 ところで、この世界のオーケストラには、変わった打楽器の音が含まれていた。

 動物よりも、植物よりも、ずっと遅いテンポで、低い太鼓のような音を奏でている。ことに不思議なのは、どこに行ってもその低い太鼓が聴こえることだった。もちろん生き物によって音楽の大きさにちがいはあれど、普通、ある程度の距離が離れてしまえば音は聴こえなくなる。しかしその打楽器は、どんな場所に行っても同じように聴こえるのだ。

 ひょっとするとこの音は、とてもとても大きい音を出すことのできる生き物が奏でているのではないか?

『もちろん、知っているよ。あの音は私じゃない』動物園のゾウは、思慮深い眼を細めるようにした。ゾウの美しく響く音もじゅうぶん大きいが、あの太鼓のように遠くまでは届かない。『彼の名前は知らないけれども、私よりずっと大きい』

『お前たちはそんなことも知らないんだ』水族館のシャチは、水槽の遠くのほうから、トランペットのように鋭い音を立てた。

『あいつに名前なんてないよ。声が届くとしたら海の中だろうね。水中なら、空気中より深くまで響くから』

 でも、ゾウよりも、シャチよりも大きい生き物なんているだろうか。クジラかな?僕は不思議に思ってシャチの琴を弾いた。

『クジラ!馬鹿言うなよ。あいつはもっと大きいんだ。俺より、クジラのやつらより、ずっと大きな音…フン!』

 シャチは腹を立て、耳障りな高音をひと出しして音をやめてしまった。

 僕は興味を持った。もしかしたら、まだ発見されていない生き物が隠れているのかも。


 僕は真相を確かめたくなり、シャチのアドバイスに従って海岸に行った。

 しかし、あの太鼓の「琴」は見つけられていない。

 他の生き物は自分の音を持っているけれど、僕は演奏することしかできない。このままでは、太鼓の持ち主に僕の音を伝える術がないのだ。

 海面からは、魚たちのさざめくような音が流れてきた。魚を狙う海鳥のテノールが響いている。どこか遠くにクジラの歌うような音も聞こえる。確かにシャチの言う通り、だいぶ深い海中からも音が届いているようだ。

 僕は戯れに海鳥たちの琴をとって、ゆっくりと奏でてみた。海鳥たちは太鼓の持ち主を知っているだろうか。

『知っている』『知っている』『知っている』『知っている』

『でも相当響かせなきゃ彼には聴こえないよ』『大きいやつ!』『一人じゃ到底無理さ』

 相当深いところに暮らしている生き物なのだろう。

 僕は魚たちの琴に持ち替えて、彼らにも太鼓の持ち主のことを聞いてみた。

『そんなら』『我々』『が』『大』『きな声』『を』『出し』『て』『みようか』

 海中からいきなり切れ切れの音が聞こえ、びちびちと海面に大量の銀が跳ねるのが見えた。イワシの群れだ。

『我』『々は』『頭』『数が』『多い』『から』

『あるいは』『太鼓』『の主』『に届』『くか』『もしれ』『ん』

 耳の中で無数の泡がぶつぶつと立つような音がする。頼むか頼まないかという間に、イワシたちはわあっと泳ぎ出し、音を合わせてエレキギターのような音を響かせ始めた。僕は思わず耳をふさいだ。

『p、ps・gks。おもdしろいね、ddgf「・。僕もやろうddks。』

 なんだかよくわからないノイズ音がなり、ぬめぬめとしたマリンバも鳴り始めた。タコかイカか、あるいはクラゲの群れだろう。

 海は地獄のような様相を呈していた。嵐のように海中でイワシが渦を巻き、その周囲でタコが墨をはき、クラゲが発光する。曲はロックと騒音のちょうど中間といった状態で、ずっと聞いていると耳の奥に響いて吐きそうだった。しかし、たしかに『低い太鼓の音求む。低い太鼓の音求む。』と狂ったように繰り返していた。

 ぐるぐるとしたイワシの渦は、だんだんスピードを増していった。渦を巻く魚たちの琴は、いまや一本の、光の柱となって渦の中心に立っていた。僕はさすがに近所迷惑なのではないかと思い、イワシたちを止めようと琴に手を伸ばした。

 その時、琴の端に、空にかかった虹が接続していることに気が付いた。

 魚たちの琴を弾くと、繋がった虹が一緒に震えた。そして、あの太鼓の音が聞こえた。

 太鼓の音は弾くたびにだんだん大きくなり、腹に響くような、地響きのような音を鳴らし始めた。いや、実際にもう地面が震えていた。

 地震だ!

 大きく地面が揺れ、僕は思わず尻をついた。手で地面を触った瞬間、僕は太鼓の持ち主が誰であるか理解した。

 地球は歌うように長く、小刻みに震え、ぐるぐる回るイワシやクラゲたちは歓声のような音を出した。遠くでクジラが同意するようにハーモニーを奏でた。砂浜が笑い、海草が陽気に踊り、海鳥が悠々とテノールの音を出し、波がそしらぬ顔で練習曲を奏でていた。

 地震はやがて収まり、あとには静かな低い太鼓の音が残された。


 消えかかった虹をもう一度軽く鳴らすと、遠くのほうで返事するように雷鳴が轟いた。

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