第111話 人工知能、アイナの日誌を見る
他人の日誌を見る事に、抵抗が無かったわけではない。
だがずっとアイナから視線が動かなかったエスさえ惹きつける音を、その日誌は発していた。そよ風に乗ってページが開いただけなのに、まるでアイナの声にさえ三人には感じられた。
そこには、アイナのぱんぱんに詰まった想いが記されていた。
「……」
自分達でページを掴むでもなく、丁度近くにあった日誌を三人は見た。
左上に記録されていた日付は、クオリアと会った三年前を指していた。
『私は、クオリア様に恩返しをするためにメイドをする。メイドの人間達は私を殴るけど、前にいた所よりはよかった。クオリア様が庇ってくれた。一日も早くクオリア様の役に立てるよう、頑張りたい。そして書き言葉を覚えるため、日誌を始めた。クオリア様の最初のプレゼントだった』
少しページがめくれる。
まるでアイナが見て、と言っているかのようだった。
『いっぱいメイド、覚える事が多い。他のメイド達は誰も教えてくれない。クオリア様だけが教えてくれる。はやくやる事も、言葉も覚えたい。クオリア様にもっと頭を撫でられたい。クオリア様に教わった言葉を、もっと使えるように、学びたい』
また風が吹いて、ページがめくれる。
『風呂に入れさせてくれない。獣人は汚いからって。でも、めげない』
一瞬だけそんな言葉がサブリミナルのように流れていき、やがて数ページ進んだところで止まった。
『クオリア様が、自分の入浴時間で私がこっそり水浴びさせてくれるようにした。タオルが取れてしまってクオリア様に裸を見られた。恥ずかしいよ。こんな汚い体を、いっぱい見られてしまった。今でもどきどきが止まらない。でもクオリア様が私の裸に照れて目をつぶった時、嬉しかった。どうしてだろう。分からない』
『でもクオリア様に沢山謝らせてしまった。私が恥ずかしい気持ちで立ち直れていないのではと心配していたみたい。女の子の君を傷つけたくないって言われた時の熱さが、まだ止まらない。お湯でのぼせてるのかな』
『でもやっぱり裸を見られるのは恥ずかしい。考えてみれば、お兄ちゃんにだって見られるのイヤだった。水浴びの方法はもっと考える』
更に多くのページがめくれる。
現在へ近づいてきた。今年の日付だ。
『クオリア様へ剣術や魔術、勉強を教えていた家庭教師が来なくなった。ワナクライ様がクオリア様を見限ったらしい。メイドや執事達も、クオリア様に更に冷たくなった』
インクが霞んでいた。
何か液体が零れた形跡がある。
それだけではない。筆圧が強かったためか、紙が深く掘られている。
だが隣のページで、その筆圧は少しだけ薄れていた。
『クオリア様は今日、私を連れて、一緒にお母様の墓へ向かった。クオリア様が五歳の頃に魔物に襲われて亡くなったらしい。クオリア様はお母様の事を語る時だけ、とても笑顔だった。きっとお母様の事が大好きなんだろう』
『私はお墓は初めてで、クオリア様が祈り方を教えてくれた。クオリア様は「花に載せる言葉が大事なんだよ」と言ってくれた。私は多分、「あなたの息子であるクオリア様に、沢山のものを貰いました。感謝しきれません」と言った気がする。届いたかな』
『そしてクオリア様は、いつかお兄ちゃんの墓も建てると約束してくれた』
『嬉しかった』
『こんなに優しい人を、どうしてサンドボックスの人達はこんなにも卑下するのだろう。クオリア様は落ちこぼれなんかじゃない。世界がクオリア様のような人ばかりであればいいのに。私がずっとクオリア様の事を支える』
一ページだけ開いて、また涙がにじんでいた。
涙が覆っていた箇所には、『お兄ちゃん』の文字があった。
『お兄ちゃんに、クオリア様を会わせたかった』
『きっとクオリア様ならお兄ちゃんとだって仲良くなったと思う。いい友達になれたと思う』
『お兄ちゃんとクオリア様が並んで歩く背中を、見たかった』
本当にクオリアとリーベが、仲の良い親友として語らう瞬間を想像していたのだろう。もうその未来が来ることは無いと、頭では分かっていても。
だが日付が現在に近づくに連れ、その足跡が弱弱しくなっていく。
悲しいものに、なっていく。
『クオリア様の様子がおかしい。アロウズ様のせいだ。最近イジメが酷い。だけど私が止めに入ったら、逆にイジメがエスカレートした。クオリア様に貼るガーゼの量が増えていく。クオリア様はいつもの笑顔で言う。「大丈夫」って。でも私はそう感じることは出来ない。クオリア様が心配だ。私はどうすればよいのだろう。私はどうしたらクオリア様を支える事が出来るのだろう。こんな時お兄ちゃんならどうするだろう』
次に開いたページは、2週間前。
そのページには、悲痛のインクが滲んでいた。
『クオリア様がいない。ずっと眠っている。クオリア様がいない。苦しい。悲しい。いやだ、いやだ、いやだ。でも私は信じる。クオリア様はまた目を覚ますって。待とう。大丈夫。待とう。クオリア様は、起きる。いつかきっと起きる。私が信じないで、誰が信じるの』
クオリアも、スピリトも納得する。
この日付こそ、クオリアが自殺した日だった。
『だってクオリア様がもう起きなかったら、私は生きていけない。お兄ちゃんがいなくなった時、私はおかしくなった。一人ぼっちだと、私はおかしくなる』
『どうして、私の大事な人は皆いなくなるの』
『もう一人ぼっちは、いやだ』
『クオリア様、起きて』
また風が侵入する。
ページがめくれる。
しかしクオリアは、その日誌をもう見ていなかった。
カーテンがめくれた窓ガラスに映った自分へ、右手をぶつけていたからだ。
「クオリア!?」
室内に響く殴打音と亀裂音。
スピリトとエスが言葉をかけるも、クオリアは背中を震わせた反応しなかった。
蜘蛛の巣のようにひび割れた自分自身へその視線を向ける。
「クオリア、あなたは誤っている」
憤慨した視線を向ける。いつもの機械的な口調が、酷く震えていた。
「あなたはここで、アイナに“頑、張れ”を送るべきだった……ここにいるべきは、
しかし、その視線の先にいるのは紛れもなく自分だ。
窓ガラスに映っているのはクオリアであり、そして自分だ。右手の拳を打ち付けたままま、クオリアは肩を落とす。視線を下に落とす。
「クオリアが、ずっとアイナの隣に位置していた場合、この記録に記載された不利益は、アイナにはなかった……、“クオリア”が……あの時、アイナの隣に位置していれば……」
憎んでいたのは、人工知能がインストールされる前のクオリアだけではない。
ガラスの亀裂で皮膚を破り、血塗れの手なんかよりもずっと悲痛な後悔に苛まれていた、人工知能としてのクオリアもだ。
こんなに綺麗で、好きで、美味しい日誌を書く少女を守れなかった自分を許せなかった。
「……状況分析」
一方で、クオリアは演算を始めた。後悔に押されるようにして、思考を巡らせる。
今自分に何が出来るかを。アイナの為に何が出来るかを。
日誌の内容を思い起こす。その中にヒントは書かれていた。
「状況分析。もう一人、ここには位置すべき存在がいる」
この日誌の中には、クオリアの次に多い言葉があった。
“お兄ちゃん”という単語だ。
「アイナに“がんば、れ”を送るべき存在は、リーベだ。その為、
■ ■
第零師団の一人は、既にロベリア邸に忍び込んでいた。
縮地も扱える体術集団でありながら、その専門は隠密行動。例え何千人と目を光らせていようと、視線誘導を駆使しして気配を遮断し、暗殺対象の喉元まで接近するのは彼らの専売特許だ。
殺される瞬間まで、対象は殺された事に気付かない。
「……さぁて、一番乗りだ」
第零師団の侵入者は、既に執務室で一人真剣に搔き集めた情報と対峙しているロベリアを視界にとらえていた――。
『Type GUN』
ぎょろりと。
臨界状態を迎えたように、赤くなったクオリアの眼が天井以外何もないその方向を睨んだ。
一条の光線は、建物内の壁や天井を貫通し――侵入者を貫いた。
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