5-2

 瞼を開けると、強いめまいに襲われた。胸の奥からこみ上げてくるものを、堪えきれずに吐き出した。ダイブ中に酔い止めの効果が切れたようだ。

 吐ききって、さらに唾を吐き捨て、口元を手の甲で拭う。腰を上げると、まだめまいが残っていたが、それ以上に船が大きく揺れている。いよいよ本格的に、嵐の中へ入ったらしい。

 サーバ室に、彼女の姿はない。クラウスが、わたしが戻るのより先に彼女が出て行くのを見ていた。

「捕まえてくれればよかったのに」

『向こうが何もしてこないと動けないんだよ』肉体の留守居役をするAIにはあくまで自衛の権利しかない。たとえ相手の中身が人間ではなくても、外側が人間である限り、身を守る以外の行動は許されていない。『君の先輩はブリッジへ向かっている』

「舵はAIが取ってるんでしょ?」

『他の船に電子戦を仕掛けるのかも』

 そうして武装イルカたちに蜂起を促す。なるほど。

 わたしは脚のホルスターから携行銃を抜き取り、サーバ室を出る。

『彼女を撃てるのかい?』クラウスが問うてくる。

「あれはルカ先輩じゃない。イルカの意識が、どうしてヒトの肉体を動かせているかはわからないけど」

『これは推測だけど』と彼は言う。『十一頭分の意識を統合して、精神マップを埋めているのかもしれない』

 一頭分の意識では、ヒトの脳は容器として大きすぎる。それを埋めるために、大勢の意識を流し込むというわけだ。

「可能なの、そんなこと?」

『理論上はね。ただ、そうするには、ヒトの肉体側の意識を空にしておく必要があるはずだけど』

 先輩は留守のところを襲われた。あるいは――。

 何度も壁に体を打ち付けながら、廊下を進む。階段は、ほとんど這うようにしなければ上れなかった。

 上がりきったところで、〈彼女〉に追いついた。わたしはスーツの戦術補正を受けながら、銃口を〈彼女〉へ向けた。

「止まりなさい」

〈彼女〉は歩みを止めた。

「両手を頭の後ろで組みなさい」

 肩越しに〈彼女〉が振り向く。

「君に、この体が撃てるの?」

 銃声が耳を突く。引き金の重さも、発砲による反動も、全てスーツが吸収する。わたしが引き受けなければならないのは、ルカ先輩の左膝を撃ち抜いたという事実だけだ。

〈彼女〉が崩れる。痛覚を切っているのか、悲鳴はない。

「ひどいじゃないか、ナギ・タマキ」

「先輩はどうした」わたしは銃口を向けたまま近づいた。「彼女に何をした」

「殺したわけじゃない。ちょっと別の場所に入ってもらっただけさ」

 両手を使って這い始める。その右手に二発目を撃ち込む。〈彼女〉はそれでも這うのをやめない。

「自我は残っても、知性までは保てないと思ったんだけどね」〈彼女〉は言った。「まさか君を呼ぶなんて……人間というものを、少し見くびっていた」

 三発目。左手も無力化する。再生手術に期待するしかない。

「君は――誤解を――している」顔と右脚だけで、尚も這いながら、〈彼女〉は言う。「そもそも――誘いに乗ってきたのは――ルカの――方だ――彼女には元々――ヒトの体を捨てたいという――願望があったんだ」

 わたしは〈彼女〉の頭に狙いを定める。

『ナギ、脳を壊しては駄目だ。再生できなくなる』クラウスが言う。

 わかっている。だが、そうせずにはいられないのだ。

「ルカは自由を――求めていた――ヒトの体を離れ――広い海で生きる自由を――君ならわかるだろう――彼女が――抱えていた苦しみを――」

 ルカ先輩と繋がった、数多の日々がよみがえる。その中では、わたしが彼女に全てを見られるのと同時に、わたしも彼女の全てを見た。

 過去の悲しみや苦しみも、全て。

〈彼女〉は這うことをやめた。通路には、その体から流れ出た血の痕が、古い刷毛で引いたような線となって残っていた。

 わたしは銃を下ろした。船が大きく揺れながら、慟哭のような軋みを上げた。

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