娘
あべせい
娘
「お客さま。では、ご注文の確認をさせていただきます」
「あァ」
「醤油ラーメン1つですね」
「そうだ」
「お待ちください」
女店員はそう言うと、電卓のような端末機に注文内容を入力して、スタスタと他のテーブルに行った。
ラーメン1杯の注文に一々確認をとるのか、この店はッ。ファミレスのカウンターで、オレは呆れた。
23年前、この街にいたときは、こんな店は、勿論なかったが……。
例え1杯の注文でも間違えることはある。ないとは言えない。しかし、だ。いま時刻は午後3時過ぎ。20数卓あるテーブルには数組の客、カウンター席には、オレひとりだ。ウエイトレスは3名。事務所にも、休憩しているスタッフが一人くらいはいるだろう。
ラーメン1杯でも復唱するのは、この店のマニュアルなのか。それとも、いまのウエイトレス、名前は……胸に名札が付いていた。いま、こっちに向かって歩いてくる。オレは彼女にちょっと手を上げた。
名札が見えた。
「植戸礼」とあり、下に「うえとれい」
と、カナまで振ってある。
「植戸礼」!
本当に「植戸礼」なのか。オレの頭のなかで、22年前の記憶が、徐々に湧き出すように蘇ってくる。
「植戸」という苗字は、この街には多い。しかし、女性で「礼」は、多くないはず。むしろ、少ない。彼女一人と言ってもいいのではないのか。
やはり、この店に来てよかったッ。甲斐があったというものだ。
「お客さま、何か?」
礼は、オレのカウンター席の前で立ち止まった。オレの声が聞こえたのか。しかし、顔は……。
「名前はわかったけれど、年齢は書いてないね……」
オレはふつうの声で、独り言を言う癖があり、しばしば咎められることがある。
「お客さま、年齢は個人情報ですから……」
礼から笑顔で告げられ、オレはハッと我に返った。しかし、彼女の年齢は、見た目、21、2才。それくらいだ。間違いない。
「そうじゃない。この店は、チェーン店なの?」
「いいえ。ですが、いまオーナーがチェーン展開を考えています。ですから、チェーン展開が実現しますと、この店が第1号店になります」
「そォ、で、キミ……植戸礼さんは、オーナーの娘さんというわけか」
「エッ、当たりですが、どうして?」
礼は、眼を丸くして、オレを見つめる。
「店の名前が、『ドアアップ』だろう。妙な店名だから、気になっていた。『植』と『上』の違いがあるけれど、そこからひねったンだろうな。上戸を英語に直訳すると、アップドア……」
「そうなンです。よくおかわりですね。父が、店名を考えるとき、『植戸』という苗字は『上戸』と書く場合もあるから、それを英語にして『アップドア』。さらに、それを上下引っくり返して『ドアアップ』にしたそうです。『アップ』って、言いやすいし、勢いがあるからいいだろう、って言っています」
なるほど。
「じゃ、キミのお父さんは、キミの年齢からすると、50才前後……」
「ヘェーッ、そこまでおわかりになりますか?」
オーナーは、オレと同年代なのだ。再婚したのなら、それがふつうだ。
「キミは21才で、いい?」
「ですから、それは個人情報です……」
礼は、頑なに、はぐらかす。
「お母さんは、元気なの?」
最も、聞きたいことは、素知らぬふりで尋ねる。それが、オレ流のやり方だ。
「母は、12年前に亡くなりました。わたしが小学3年の頃です」
明るかった娘の顔に、ちょっぴり陰りが差す。仕方ない。あいつは、心臓の持病を抱えていた。
礼の母の旧姓も、「植戸」だった。同じ姓どうしが結婚することは、この地域では珍しくない。
「そォ、いやなことを思い出させてすまなかった。お父さんが男手一つで育ててくれたンだな」
「母は再婚でした。でも、結局、母の幸せは8年あまりしか続かなかったことになります」
オレのなかで、何かが弾けた。それが何かはわからないが……。
「お父さんはその後、再婚しなかったの?」
「いろいろお話はあったみたいですが、父は好みがうるさかったみたいで。自分でそう言っています。でも、やはり母以上の女性が現れなかったのだと思います」
そォか。男にも、出来のいいのがいる。オレのようなすれっからしもいれば……。
「お客さん、お仕事は何ですか?」
礼は、無邪気に尋ねてくる。
オレは弱った。職業を聞かれるのが、いちばん困る。で、ポケットから名刺入れを取り出し、数種類ある名刺の中から、1枚を選び、差し出した。
礼は、それを見て……、
「このお名前、何と読むンですか」
その名刺には、「クリア企画代表 羽深安示」としてある。
「はねみやすじ、だよ。珍しい名前だとよく言われる」
曽祖父が、はるか西のほうから、仕事の都合で、大昔にこの街近くに転居してきたと聞いている。その後、祖父母は何度か、近辺で引っ越しを繰り返したそうだ。
変名を使った名刺はほかにあるが、この娘の前では、なぜか、本名が書いてある名刺を出す気になった。これが、魔が差す、ということなのかも知れないが……。
「羽深、安示さん……」
礼は何かを思い出そうとしている。
「クリア企画って、どんなお仕事ですか?」
よく聞きたがる娘だ。母親に似て、好奇心が強いのだろうか。しかし、それくらい探求心がないと、ファミレスのオーナーを支える娘は務まらないだろう。
「なんでもクリアに解決します、ってところかな。便利屋というやつもいる」
実際、ふだんは、近所のドブ掃除や、街灯の電球の取り替えなンかを、頼まれてやっている。しかし、本当の仕事は言えない。
「そうですか。なんでも、ね。うちでも、お願いすることがあるかも知れませんから、このお名刺、頂戴していいですか?」
よくないが……、
「いいよ」
オレは彼女の頼みは断れない。断りたくない。つい、口が滑ったが、仕方がない。
「ありがとうございます」
礼はそう言って、踝を返す。
「ねエ、ちょっと……」
「はい、何か?」
何かはないだろう。オレが彼女をここに呼んだ用件が、まだすんじゃいない。
「この店では、ラーメン1杯でも復唱するの?」
「そのことですか。それは、わたしだけのやり方です。でも、わたしはいまはまだ学生ですが、卒業したら、この店のホール主任になり、接客マニュアルを作り変えます。その準備のつもりで、いまは、いろいろな方法を試している、とお考えください」
なるほど。この娘は、頭がキレる。母親譲りか。この店の先行きには、明るい希望が持てる。しかし、オレの狙いはそんなことではない。この娘が驚き、嘆き悲しむことだ。
ここは、都心から高速で約2時間の地方都市。その中心部を抜け、郊外に伸びる国道のバイパス沿いに、この店「ドアアップ」はある。なぜ、ここに来たのか。
理由の一つは、置き去りにしたままのオレ自身の住民票を、役所で確かめるためだった。
この店の駐車場は、33台分のスペース。隣のイタリアンの店と駐車場どうしが接しているせいか、間違えてイタリアンの客が駐める場合もあるが、逆のこともあるので、互いにクレームをつけたことがないようだ。駐車場で、客どうしがそんな会話をしていた。
前の国道沿いには、さらに和食やハンバーグ&ビフテキのファミレス、カーディーラー、ガソリンスタンド、カーショップ、定食屋、スーパーマーケット、とさまざまな業種の店舗が、1キロ以上に渡って軒を連ねている。
ところで、このドアアップは、中華のファミレスではない。ラーメン以外の、売れ筋のメニューを紹介すると、カツ丼、親子丼、天丼、パスタ、オムライス、盛り蕎麦などなど。要するに、駅前食堂を思わせるメニュー構成なのだ。
但し、メニューにある料理の写真をみる限り、どれも一工夫も二工夫もしてある。
「お待たせいたしました」
と言って、礼が1杯のラーメンをオレのカウンターの前に置いた。
なるほど、こんなラーメンにはほかの店で出合ったことがない。まず、器が違う。
これは、陶器ではなく、鉄鍋だ。手で下げる弦状の取っ手が、中央に、またぐように付いている。
次に麺だが、生蕎麦のように細長く伸ばしてから包丁で切ったのか、断面が四角くなっている。スープは透明で濁りナシ。具は、2センチ厚のポークチョップをサイコロ状に切ったものが7、8個、そして目玉焼きが1つ、さらに水菜と白髪ネギを色あいよくまぜ合わせたものが中央に副えられている。
肝心の味は?……待てッ、テレビのヘタなグルメレポートをしても仕方ない。オレの目的は、そんなヤワなものじゃないはずだ。
このラーメンが、880円とは少し高い。他のメニューも、素材が地産地消にこだわっているせいか、2、3割高く、オムライスも、1080円になっている。
まァ、いいだろう。高くても客が入っているのなら……しかし、そのところがイマイチ、把握出来ない。
この時間で、客の数が10数人。1日よくて、10数万円といったところか。これでやっていけるのか。
地方なのだから、仕方ない……。
「お客さま、ほかにご用がおありでないようでしたら、失礼いたしますが……」
「エッ」
オレは驚いた。礼がまだ、オレのそばにいて、オレがラーメンを食べているようすを観察していたらしい。オレに関心があるとはもても思えないが、ひょっとして、彼女も……。
「いッ、いいよ。自分のお仕事をしてください」
オレは慌ててそう言って、引き下がってもらった。
オレの胸のうちを、覗いていたわけでもないだろうに。
国産の中古車で、東海道をとろとろと進み、3時間ほど前にこの街に着いた。そして、市役所に寄って用事をすませた。
ほかの街はどうでも、この街で、だけは、仕事をしたくない。
太平洋に面した城下町。昨夜は、藤枝泊まり。その前は静岡、清水、富士、沼津、三島、熱海、小田原、湯河原……。いいだろう。
ホテルにばかり泊まっているのじゃない。飲み屋で酔いつぶれ、くたびれた車の中でそのまま寝ることはしょっちゅうだ。だから、車には、寝袋とタオル、石鹸を常備している。
但し、着替えなンて、野暮ったいものは持たない。安いものを買って、その都度使い捨てている。
車中泊したときは、公園の水道で顔と手足を洗う。だから、風呂に入るため、ビジネスホテルを使うのは、概ね、週に1度くらいか。元々ケチな性分なのだろう。こんな姿は、家族には見せられない。もっとも、見せる家族がいればの話だが。49才のこの年まで結婚もせずにきて、隣県に両親と、兄、姉が一人づついるだけだ。
オレの仕事で欠かせないのが、ナンバープレートの数字の書き替え。「1」は「9」に、「2」は「5」に、「3」は「8」に、「5」は「6」に変える。下の数字をすべて塗りつぶして、4ケタの数字を新たに描き込んだこともある。
東京に出て、一時イラストレーターの仕事をしていたことがあるから、この手の偽装は造作ない。それ用の筆とペンキ、ペンキ用の薄め液も備えている。
しかし、最近、つくづく考える。こんなことがいつまで続くのか、と。
続くわけがない。ムショに入るまで、止まらない、とかつて仲間が言ったことがある。
妻も子もなく、兄や姉、親とも、音信不通。女房はいた。10年前、仕事もせずにギャンブルに走る夫に愛想を尽かし、こどもが出来なかったのが幸いだったか、ある日不意に家を出ていった。いまは、どこにいるのか。
彼女の実家はみちのくだが、それぞれ独立しているとはいえ、兄弟姉妹が7人もいる故郷に帰るとは思えない。
女房はあれで、プライドが高い。親の反対を押し切って結婚した男が、どうしようもないバカだった、とは言われたくないだろう。すると、ひっそりと都内のどこかにアパートを借りて住んでいるのだろうか。
オレは結婚する資格なンてない男なのだ。23年前のことを忘れてはいけない。
「いらっしゃいませ!」
礼が元気な声で、新規の客を迎え、挨拶している。一人客のようだ。すると、カウンター席か。
「どうぞ。こちらにお願いします」
やはり……。オレの右隣の空席を1つ空けて、腰掛けた。男だ。風采の上がらない痩せこけたやつ。50代半ばにはなるだろう。ジーンズに、オレのと似たジャンパーを着ている。
彼は、「HT」のマークが入ったキャップを被っている。阪神ファンでもないだろうに。
しかし、やつの靴を見て、オレはギョッとした。編み上げの頑丈そうな茶の靴だ。あれで蹴られたら、さぞかし痛いだろう。どうして、こんなことを想像するのか。オレの深層心理がそう考えさせるのか。わからない……。
「ご注文は、お決まりですか?」
礼の声が、オレの耳に快く響く。
「醤油ラーメン……」
男は、オレのラーメンをチラッと見て、そう言った。食べるものは、どうでもいいのだろう。
「醤油ラーメン1つですね」
礼は、オレのときと同じく復唱する。
「あァ」
男はそっけない。オレのときも、礼には、そう聞こえたのだろうか。
「少しお待ちください」
礼は引き下がる前に、チラッとオレの方を見て、意味ありげな視線を寄越した。
どういう意味だ。色恋の眼ではない。
オレはラーメンを食べ続けている。彼女に、遅い、と思われたのか。
オレは別にラーメンが食べたくて、ここに来たわけではないのだから、咎められても困る。それに空席はほかにいっぱいあるじゃないか。
盗っ人は、手口を変えないと言われる。しかし、オレはそうじゃない。バールを使った荒っぽいこともやるが、自前で作った特殊な金属製の耳かき棒で、カギ穴をほじることもよくある。最も多いのが、ガムテープをガラス窓に十文字に張り付け、ガラス切りでそれを四角く囲みに、トンカチでガラスをそォーッと叩き破る。
個人の家はやらない。だから、マンションには行かない。専ら、街道沿いの会社の事務所、商店、ファミレス……。それも無人のときに限る。で、仕事は深夜ということになる。
しかし、何度も繰り返すが、この街では、やるつもりはない。昔、迷惑を掛けた街だ。身重の女を捨てて逃げた街だ。
礼の屈託ない顔を見ていると、やはり、そうなのかと思ってしまう。あいつは、一緒に暮らしているとき、楽天的な性格だった。それがオレには救いだった。
あいつが妊娠したとき、籍を入れることは考えた。それまでの同棲を解消して、正式な夫婦になる。それが生まれて来るこどもに最も必要なこと。それくらいはわかっていた。
しかし、当時、オレは、スナックのバーテンをしていて、金遣いが荒かった。そして、絵に描いたように、酒とギャンブルに狂っていた。
そんな男に、家庭の父親が務まるか。その程度の理性は働いていた。こどもが生まれたら、どうするッ。しかし、女は、生まれて来る子が男でも女でもいい。名前だけは付けてくれないか、と。すがって、オレに泣きついた。
名付け親になる。それくらいはしてもいいだろう。しなくてどうする。女の眼はそう訴えていた。
男でも、女でも、通用するような名前……悩んだあげく、オレがひねり出したのが……、
「失礼ですが……」
「はァ」
キャップの男だ。オレに話し掛けている。
見たことのない顔だ。
「この街は、初めてですか?」
「いいえ、前に来ています」
それは本当だ。2年前にも、競輪選手を追っかけて訪れた。結局、大損させられたが。だから、今回は、その分を取り返してやろうと意気込んでやってきた。
捜しモノは、前回もやったが、捜しきれなかった。しかし、今回は、昔のオレの住民票をとりだし、娘の転出先を辿り辿った。半信半疑でこの店に来たのだが、とうとう当たりクジを引いた、ってことだ。
「そうですか。やはり、土地勘はあるということですか……」
前に一度しか来ていないと言ったのに、「土地勘がある」は、ないだろう。それとも、23年前、5年余りこの街にいたことを、このキャップの男は知っているのか……。オレは、男のガッシリした肩、ゴツゴツした手の指を見つめた。
キャップの男は何者だ。
「私は、きょうは非番です。でも、やることはやります」
エッ。オレには何のことか、わからない。
「失礼ッ」
キャップの男が、いきなり、右隣の空席に移って来た。他人に踏み込まれたくないパーソナルスペースは、平均45センチと聞いたことがある。右側にいるヤツの体とオレは、30センチと離れていない。オレの利き手を塞ぐつもりかッ。
「あなた、私にどんな用事があるンですかッ」
オレは、苛立ってきた。
「あンた、もうすぐラーメンが食べ終わりますね。終わってからでいいですよ」
オレは、ジャンパーのポケットに手を入れた。ポケットの中には、護身用に、10個分を連結させた、バイクのチェーンコマがいつもしのばせてある。
「目の前のグラスが換わっているのに気がつかないのか。あンた、ヤキが回って来たようだな」
男は急にぞんざいな物言いになった。
「エッ!?」
オレは、こんなところで、と感じた。
あり得ないだろうがッ。
「お待たせしました」
礼がコーヒーを持って、キャップの男の前に置いた。
こいつの注文は、ラーメンのはずだ。
どうして、だ? しかし、ヤツは平然としている。オレの気がつかないうちに注文を変えたのか。
キャップの男は、コーヒーカップの下から、何やら紙切れを取り出した。カップの受け皿に、4センチ四方の紙切れが敷いてある。
キャップの男は、それをとった。何やら、印字された文字が見える。
と、男はその紙切れを下に落とすと、慌てて拾おうとするように、その場に屈みこんだ。
その瞬間、オレは信じられない感触を足首に覚えたッ。
「ナニをするンだ!」
思わず、大声を出した。数少ない客が、一斉にオレのほうを見た。
「大声を上げると、あンたが恥ずかしい思いをするだろッ」
オレはなんてカンの鈍い男だ。もう、すべて終わりなのか。
「この紙切れは、さっきウエイトレスが下げた、あんたのグラスの指紋と、小田原の指紋が一致したという知らせだ」
男は、拾った紙切れをオレの目の前に突き出した。
小田原ッ! 小田原は、老舗の楽器店だった。店主が閉店後、脇の駐車場に車をとりにいったすきに、オレは中に侵入した。店主は何も知らずに、必要な楽器数点を持ち出し、車に積んでカギを締め、帰って行った。
そのとき、時刻は午後10時を過ぎていた。オレは中学時代、吹奏楽部に所属して、ピッコロを吹いていた。だから、つい懐かしくなって、店内に数点飾ってあったピッコロを手に取った。必要なのは、現金だ。レジには、10数万の現金があった。
「あんた、ピッコロを一本持ち出しただろう」
そうだ。ブツは盗らないのがオレの主義だが、ピッコロなら小さくてかさ張らないし、一本をベルトに挿しこんだ。いまも、車の座席の下に隠してある。
「楽器店の主人が、現金のほかにピッコロが一本紛失していることに気がついたため、鑑識は他のピッコロにもホシが触っている可能性があると考え、徹底的に指紋を採取した」
ふだんは手袋をはめる。レジをこじ開けるときは勿論、侵入の際も手袋を外したことはない。しかし、ピッコロは指穴をふさいで手に持って構える。その癖が出て、つい手袋を外したのだろう。よく覚えていない。
「店に残っていたピッコロの指紋を全て採取して、中から店主と従業員の指紋を除くと、同じ指紋が全てのピッコロから採取された。すぐに、保管している前歴者の指紋と照合した結果、羽深安示。あんたの指紋と一致した。
あんた、5年前にも、やっているな。国道4号線沿いに、立て続けに9店舗。被害総額が1350万円。こんどは東海道を下っているのか?」
そうだ。指紋は高校生のとき、誤ってカッターナイフで友達をケガさせた時、採られたのだ。昔のことだから、安心していた。その指紋が生きていた。おれの顔は、免許証用に撮られたのを見てきたのだろう。
「指紋から名前を割りだし、車検証の写しを手に入れ、あんたのいまの中古車に辿りついた。外にあったあんたの車は、いま頃、レッカーで署に向かっている」
「ご足労をお掛けします」
オレは観念した。いつの日か、こうなるのだ。盗っ人は、こうなるまで、止まない。
「ワッパは掛けないで置くから、静かに出ようか。足も外す」
男はそう言って、もう1度屈みこむと、オレの足首と止まり木のポールに巻きつけていた青い紐付きの手錠を外した。
「刑事さん。少しだけ、待っていただけませんか。挨拶をしたいひとがいます」
「ここに、か?」
「はい……」
オレは礼を探した。すると、礼が足早にオレのほうにやって来る。
「お客さん、わたし、何も知らなくて。警察のお手伝いをしてしまいました。ごめんなさい」
礼は、悪びれた風にそう言って、頭を下げる。
「いいえ、それは当然です。あなたは賢明です。オレ、いや私はもし更生できたら、もう一度、ここに来ます。それまで、頑張ってお店を続けていてください」
刑期は6年か、7年か。
「でも、わたし、昔母から聞いたことがあります。母が最初に結婚した男性は、名前が『ハネ……』」
「礼さん。その話はウソだ。つくりごとだ。確かに、そんな話をムショ仲間から聞いた事がある。だから、この街に来たついでに、確かめようとここに立ち寄った。でも、そいつは、ムショを出てから、自ら命を絶った。残念なことだが……」
礼は呆然として、オレを見ている。
「まだ、お話が……」
礼は何か言いたげだ。しかし、オレにはもう何も用がない。
「刑事さん、ありがとうございます」
オレは、礼が自分の娘なのかという確信を持ったわけではない。礼の母は亡くなっている。いまの礼の父親に、スジを通さない限り、親子の名乗りなンて、無責任なことは出来ない。したくない。
「じゃ、行くか。礼ちゃん、お父さんによろしく」
キャップの男はそう礼に告げると、オレの背中を押して、ドアの外に連れ出した。
「待ってくださいッ!」
礼が、ドアを大きく開け、小走りに出てきた。
「お客さん。わたし、名前は植戸礼と言いますが、実は父も母も、結婚する前、苗字が同じ植戸でした。そして、結婚後、母が連れて来た生後まもない娘さんが、すぐに亡くなったため、まもなく2人の間に生まれたわたくしにも、同じ名前を付けたと聞いています。ですから……」
エーッ!
オレはガックリと肩を落とした。もう、この街にいる用はないのか。二度と来る必要も……。
すると、たまらなく悲しくなって、眼がうるんできた。若い頃のことが、くやしくて。パトカーのなかで、バカな自分を責め続けた。
(了)
娘 あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます