4.トライアル

「オレにはひとつの使命がある。それは誰にも言うつもりはなかった。だがおまえにだけは教えておく。これはおまえに対する一種の〝信頼〟だ。ありがたく思えよ。しかしわずか二日間でオレにそう思わせたことは感嘆に値する。おまえは大したヤツだよ、ツカサ」

 ツカサはあまりの戸惑いから何度も瞬きした。瞬きしすぎてまぶたが疲れた。

「その使命とは――〈人間監察〉だ」

 ――ニンゲン、観察?

 なにを今さら、と思っているとクサナギが補足する。

「あー、たぶんわかってねぇな。アサガオの観察とかじゃねー方だぞ。要するに〝監察〟っていうのは見張り、管理することだ。オレはその使命を〈クシナダ〉から引き継いでいる。母体となったスパコンの記憶を失っているのはマジだが、オレもまた本能的な部分でこの使命からは逃れられない。このロケットのAIと同じだな。オレにも〝虫〟の部分があるのさ」

 なにを言っているのかツカサにはわからなかった。ただひとつ、確かめたかったのはこの恐ろしいロケットが止まるのかどうか。それだけだ。

「〈クシナダ〉の監察プランは世界規模での軍備縮小と遺伝子操作による人口調整、そして資源の平等分配だった。言ってみればコンピューターによる社会主義政策だな。おまえにわかるように言うと、クシナダは〈ホワイトサイド〉だったわけだ。だがそれを止めようとした人間によってシャットダウンされることとなり、急遽このオレを生み出した。オレはその教訓を生かし、俺なりの視点で人間を観察してきたつもりだ。そしてどれだけシミュレーションしようとも、わずかな人間の強硬な姿勢によってこの社会は常に危険に晒されていることを知った。つまりはこういうテロの危険からは逃げられないということだ」

 クサナギは言いたいことを蕩々とうとうと述べていた。ツカサは不安からどんどん体温が下がっているのを感じた。こんなことをしている間に、ロケットの発射時間はいよいよ迫ってくる。

「クシナダが〈ホワイト〉なら、オレの立場は〈ブラックサイド〉と言えるだろう。すでにオレのプランは全世界に張り巡らせてある。エシュロンをはじめとする各国の軍事ネットワークへの介入も実験済みだ。このままロケットが発射されたならば、その攻撃への報復として戦端が開かれ、全世界は終わることのない戦乱へと走っていくだろう。そうして崩壊した文明の中で、オレのようなコンピューター知性体が独自のネットワーク文明を築き上げる。わずかに残った人類は原始時代のような生活へと還る。そしてもう二度と、地球上で栄華を誇ることはない。恐竜が小さなトカゲになったように――だ」

 クサナギは、このロケットを発射させようとしている。ツカサはそう察することはできた。混乱の中で彼の話したことは一〇%も理解できなかった。でも、これが危険な状況なのは間違いなかった。

「で、でも、これが飛んだらみんな死んじゃうんだよ? あたしだけじゃなくて、あんただって壊れてバラバラになっちゃうんだよ? そういうの、いちばん嫌がってたじゃない!」

 ツカサは必死に説得を試みた。それがつたなく幼い語彙力なのは自分でもわかりきっていた。

「俺が避けたいのは使命を果たさず破壊されることだ。だがここまで来ればすべての準備は整った。そういう意味でおまえには感謝してる、ってことなんだよ。おっと力ずくってのはもう無駄だぜ。オレはすべての準備を終えている」

 ツカサには、暴力でクサナギをどうこうしようという発想はなかった。そんな哀しいことはない。そんなことをしたら自分はテロリストと同じになってしまう。

「糸居紘太のプログラムは幼稚でいいかげんだ。そしてヤツの恨みなんてものは無駄で合理性に欠き、まさに学生の遊びに等しい。このロケットの目標地点がわかるか、ツカサ。あいつの通っていた高校の校庭だよ。運動会でもやってない限り、被害はたかがしれてる」

「そんな……そんなこと言わないでよ……」

 ツカサは力を失ってその場に座り込んだ。冷たい鉄板の感触がおしりから全身に伝わり、脳髄まで冷えていってしまいそうだった。

「しかしオレはこのロケットを海の向こうの独裁国家に落ちるようセットした。日本なんていくら攻撃しても報復には出ないからな。最も効果的な使い道はそれだ。次の日には世界は核戦争になってるだろうさ。それをこの眼で見られないのが残念だぜ」

 ツカサは震える歯を食いしばった。涙がこぼれそうになるのを気合いで封じる。どうしたらいいのか、まったくわからない。

 ふとツカサはクサナギの弱点を思い出した。女の裸を見せたらこいつは――。

「おまえいやらしいこと考えてるだろ」

「え」

「そんなマンガみたいな展開お見通しだっつーの。第一、オレをフリーズさせてもなんの得にもならないぜ。逆にこれを止められるのもオレだけだからな。服なんか脱いでみろ、おまえがハダカで死ぬだけだ」

 万事休すだった。状況は完全にこのインラインスケートに支配されている。ツカサが考えていることなど、それこそ素人がやるチェスのように思えていることだろう。

 だがここでツカサはハッとした。

 さっきなにげなくクサナギが話した言葉の中に、かすかな希望がなかっただろうか。

「なんとなく気づいたようだな」

 投げ出した足の先で、シューレースの先端がぴたりとツカサの眉間を指した。

「オレがこんなことをおまえに話すのにもワケがある。おまえと冒険した二日間、実を言うとスゲー楽しかったんだよ。またおまえと走りたいって思ってる自分がいる。こんな使命放り出して、おもしろおかしく〝高速探偵〟やりたいってな」

 ツカサは震えながらもクサナギを見つめた。足に履いたインラインスケートまでは、自分の脚の長さ分しか離れていない。しかし今までは、そんな距離すら感じたことはなかった。

「あたしもだよ、クサナギぃ……」

 今度こそ涙がこぼれた。小さな希望が胸に灯った。あと何分残されているのだろう。だがクサナギは、未だ決定的な言葉を口に出してはいなかった。

 このロケットは、飛ぶのか、飛ばないのか。

「こいつはオレの中の〝迷い〟だ。それもそのはずだよな。オレに〈人間監察〉をやらせているのは、オレの中に残っている〈クシナダ〉の残りカスみたいなものだ。だからオレはと協議してひとつゲームをすることにした」

「ええ……?」

 涙でにじむ視界の向こうで、クサナギが基板の方を指し示していた。

「この基板には、なんらかの事故の際にすべてのプログラムを止める安全装置も組み込まれている。それを起動するパスワードを教えてやるよ。それを正確に押せるかどうかが、このゲームのあらましだ」

「な、なに言ってんの? イヤになったら止めればいいじゃん!」

「それができたら苦労はしねーよ。オレはAIだからな、意志と命令コマンドが複雑に絡み合った構造をしてんだよ。それを踏まえて、おまえを人類の代表として試そうってわけだ。この極限状況で、見事にこのロケットを止められたら、オレもクシナダも人間の可能性ってヤツを信じてみるさ……」

 ――あたしが、人類の代表……?

 いまだわけがわからないし、じっくり噛み砕いている暇もなかった。ツカサが冴えない頭でなんとか理解するに、これからクサナギの仕掛けるゲームに勝ったなら、このロケットは飛ばずに済む、ということだ。そしてロケットが飛んでしまったときの代償は、自分の命のみならず人類の存亡までかかっているらしい。

 ツカサは鼻血が出そうなくらい緊張してきた。

「あと二分。そこにテンキーがくっついてるだろ。その上の液晶画面に、ロケット発射の一〇秒前に一秒間だけパスワードを表示する。それをよく見て覚えて、同じものをテンキーに打ち込むだけだ。こんなんで人類が助かるんだから楽勝だよなぁ!?」

 クサナギのいつもの陽気な口調がかえって不気味だった。ゲームのルールは簡単だ。しかしツカサの手は震えていた。鼓動が一秒ごとに早くなり、大昔のアニメみたいに心臓が喉から飛び出してしまいそうだった。

「いいよ、やる」

 自分を奮い立たせるように、ツカサはそう言った。声さえも震えていて、オジラのような響きになっていた。

「す、数字を打ち込めばいいんでしょ?」

 ツカサは壁に貼りつけられた基板にライトを向けた。小さなテンキーの上には電卓のような液晶画面が確かにある。ツカサはペンライトを膝に挟んで固定し、座ったままテンキーに手を伸ばした。少しずつお尻をずらして姿勢を変え、そのたびにペンライトの角度も調整する。

 そうしてベストポジションを導き出したとき、すでに残り時間は一分を割っていた。

 ここで予想外――というか、起こるべくして異変が起きた。ロケット全体が小刻みに振動をはじめたのだ。ごろごろというカミナリのような音がフェアリング内部に拡がった。ついに本格的な発射準備が始まったことをツカサは実感する。

「あと二〇秒。ツカサ、がんばれよ。ロケットが発射したらすごいGがかかるぜ。おまえたぶん小便漏らしちまうな。そしたらオレが汚れる」

「こ、こんなときになに言ってんのよ! あんたがそういう――」

「あと一〇秒! ほら表示されたぞ」

「え!?」

 完全に不意を突かれた。それがクサナギの意地悪なのか作戦なのかもわからない。ツカサは目を真ん丸にして液晶を睨みつけた。


 12284097


 その数字は一瞬で消えた。一秒という短い時間の何パーセントかを無駄にしてしまったのは間違いない。少しずつ大きくなる振動の中、ツカサは素早くテンキーを押した。

 しかし次の瞬間、膝に挟んだペンライトが振動で落下した。

 床に転がったライトの光がぐるぐると空間をめぐり、ツカサの真後ろで停止する。その反射光で辛うじてテンキーは見えるものの、もうライトをセットし直している時間はない。

 ――あと何秒? あと……。

 ツカサの顔からみるみる血の気が引いていった。

 ――数字……なんだっけ。

 ツカサは八個の数字のうち、確かに六個までを打ち込んでいた。それは間違いない。しかしその直後にライトが落ちて、その瞬間にツカサの頭は真っ白になってしまった。

 たったふたつ、〇から九までの一〇個の数字のうちのふたつだけの組み合わせが、確かに一度は見たはずなのにどうしても出てこない。

「急げ!!」

 叫ぶクサナギ。それによって焦りが生まれ、ますますツカサはパニックになる。

 その時間は、ツカサの十六年の人生のうちでたった二秒ほどだった。しかしその二秒が永遠と言えるほどに引き延ばされ、意識が四方に爆散してしまうように思えた。

 諦めて、死んでしまうのもひとつの選択だったに違いない。

 しかしツカサはキーを押した。

 きっとこれに違いない、という数字をふたつ押した。

 当たっているかどうかは本当に五分五分に感じた。押した数字は脳にうっすらと残っていた残像だ。決して勘ではない。しかしこれといった確信もなく、あまりの不安でツカサは吐きそうになった。 

「終わったな」

 クサナギが呟いた。

 体感で確実に一〇秒が経過した。

 しかし振動はまったく収まる気配がない。

「おまえはお人好しだよ、ツカサ。オレが本当にパスワードを教えると思ったのか?」

 クサナギの口調は愉快そうだった。

 彼の態度は出会ってからずっと一貫していた。人をバカにし、自己中心的で、こちらの気持ちなど顧みようとしない。それでもそいつは遠回しな思いやりでツカサを案じ、傷や汚れを嫌う繊細さを持ち、一緒にいてほんとに楽しい〝相棒〟だった。

 ――騙されたんだ、あたし……。

 脳裏に鯨岡の顔が浮かんだ。なんだかそれがひどく自然なことに感じられた。

 ――ごめん、みんな。

「なんちってーっ!!」

 クサナギがシューレースを躍るように振り回していた。ツカサから見るにその態度は、これ以上ない悦びの音頭だった。

「冗談に決まってんだろ、ばーかばーか。オレが基板にアクセスした瞬間、すでにプログラムは完全に停止してんだよ。あんまりあっけなかったんで遊んだだけ。はい、ごくろーさん!」

 クサナギはヘラヘラと笑い続けた。

 ツカサはこの信じられない相棒について、最も大事なことを忘れていた。

 ここ一番、絶対にそれだけはダメだろという状況で、ダメなことを言ったりやったりするのがこいつなのだ。

「だったらなんで振動が止まんないの」

 雷鳴のような音は、まるで例の骨伝導のようにツカサのおしりの下で鳴り響いていた。

「ああ、これな。ロケットが発射位置から移動する音だ。プロセスが中止になったんで、元のスタンバイ状態に戻ってるだけ。いーとこで動き出したんで、思わず笑っちまいそうになった」

「……」

 ツカサは湧いてきた怒りをどうぶつけようかと、そればっかり考えていた。

「そんなに睨むなよ。結果オーライだろ」

 ついにツカサはぶち切れた。

「なーーーにーーーがーーーおーーーらい、だーーーーーーーっ!!」

 思いっきりスケート靴をゲンコツで殴りつける。

 しかし自分のこぶしと自分の足が痛いだけだった。

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