3.ルーツ
アウディの後部ドアが音を立てて閉まった。後ろの座席にはツカサと鯨岡が並んでいた。鯨岡の足下にはツカサのスケートブーツが左右セットで置かれている。そして運転席に白蛇が座り、エンジンをかけた。発進を知らせるウインカーの音が鼓動のように聞こえる。
「……さっきはすまなかった」
鯨岡はハンカチをツカサに手渡した。グレーのチェックの男物。ツカサはそれをふんだくったが、口元の血は乾いていて拭く必要もない。
「ずっとあたしにウソついてたの?」
ぼんやりと前の座席のヘッドレストを見つめながらツカサは言った。車がゆっくりと前に進み始めた。
「……おまえを騙していたわけじゃない。鯨岡大という名前もオレのものだ。少なくとも、おまえの前ではオレは鯨岡だった」
「児童指導員だって言ってたじゃん。それはウソなんでしょ」
「……」
そこに助け船を出したのは白蛇だった。
「鯨岡さんはシルクスレッド・プランにおいてはあなたの里親になってるんです。ただそれは書類上のもので、いつも一緒にいられない自分が親になるのはおかしいって、児童指導員なんて肩書きを名乗ってたんですよ」
「さ、里親ぁ……?」
ツカサはずっと自分に親はいないと思っていた。養護院にいた間も養親はおろか里親の話だって一度も聞いたことがない。そりゃそうだ。ずっといたんだから、すぐそばに――。
あまりのことに怒る気にもなれなかった。
「そういうのも関係あるんだ、あたしの、本当の両親のことと……」
車はスピードを上げて大通りに合流してゆく。ツカサは否応なくこの短い旅の終わりを察していた。
「順番に話そう。そうだな……まずはおまえの母親だ」
ツカサはごくりと喉を鳴らした。
「おまえの母の名は
「は……」
せっかく耳にした名前に胸が躍ったのに、その数秒後にさっそく偽名だと言われてツカサは呆然となった。しかも無戸籍って、自分と一緒じゃないか。
「この日本でも無戸籍のまま暮らす人間は意外と多い。彼女は根無し草で、いろいろな名前を使ってパスポートを偽造し、外国を飛び回っていた。雲雀はどちらかというと海外で名を馳せたフリージャーナリストだった。それも戦場専門のな……」
「ふ、ふぅん……」
ツカサは必死で情報を整理していた。
「オレは取材を受ける立場で彼女と知り合った。聡明だが、かなりしたたかで気の強い女だったな。外国の危険な戦場ばかりをフィールドにしていたから、すごく肝が据わっていた。オレも彼女が気に入り、いい友人になったよ」
ツカサはなんだか悪い予感がして、先に確認することにした。
「あ、あのさ……あんたが本当の父親だっていうのは無しにしてよ。最悪じゃん、そんなの」
「……どういう意味だ」
鯨岡はムッとする。ハンドルを握る白蛇が思わず吹き出した。
「鯨岡さんも日系なんですよ? 雲雀さんと結ばれても、ツカサちゃんのような肌の子は生まれません」
「あ、そっか……」
先を急ぎすぎたことをツカサは恥じた。
「え、でも待って」
ツカサはすぐに聞き返した。
「さっきの話からすると、オジラって……戦場にいたってこと? その、お……お母さんの取材対象だったんでしょ?」
いま聞いたばかりの人物を母と呼ぶのは、ツカサにとって抵抗があったが、その先に控える疑問の方がずっと重要だった。
「俺がここから話すことは、おとぎ話だと思ってくれていい。おまえの中で信じられなかったら、それは作り話だということだ」
「えっ?」
ツカサはその言い方が納得できなかった。だが、鯨岡がなにか言いづらいことを言おうとしている気持ちは汲み取れた。それが、もしかすると自分の理解力のキャパシティを超えてしまうかもしれないということだろう。
もしくは、心で受け止めきれないほどに、悲惨な話が待ち受けているのかもしれない。
アウディはいつしか料金所を抜けて、高速道路に入ったようだった。しかもその道路は地下をくぐるものだった。向かっている方角はわからないが、少なくとも名古屋都心部から離れていく一方なのは間違いない。
「オレとおまえの父親は、同じ種類の仕事についていた。その仕事の名前は――〝紛争コーディネイター〟だ」
「ふんそう……?」
最初にツカサが思い描いたのは〝扮装コーディネイター〟。でもそんな愉快な仕事が戦場にないことくらいすぐわかる。
「きなくせぇ話になってきたな」
鯨岡の足元で今まで黙っていたクサナギが、ぽつりと呟いた。ようやくツカサは〝紛争〟というきわどい単語に思い当たった。それがいい言葉でないことはよく知っていた。
「紛争コーディネイターといってもふたつの種類がある。俺は当時からWOPの職員で、主に当事国から依頼を受けて紛争の解決に当たる方だった。〈ホワイトサイド〉なんて言われている」
トンネルを照らす白いライトが、鯨岡の顔にしましまの影を落としていた。
「俺の仕事は、内戦の終息期に残った敵対組織と交渉して、武装解除させることだった。その見返りに金銭を与え、生きるための仕事や土地を用意する。武器を捨てたゲリラのボスを政治家に変えたりもした。そうやって血みどろの〝戦争〟を終わらせ、民主主義の〝政争〟へと切り替えていくのが俺の役目だ」
「その……ヒバリっていう人は、オジラのそういう仕事の取材をしてた……てこと?」
結局、如月雲雀を母と呼ぶのをツカサはやめた。鯨岡は頷いてから話を進めた。
「もう片方のコーディネイターは〈ブラックサイド〉だ。こっちは武器商人の依頼で各地に紛争を起こすのが仕事だ。……勘違いするなよ? これはチェスの白と黒からきている用語だからな。従来はスパイ組織の工作員がやってたことだが、フリーで荒稼ぎするプロも多い。おまえの父親もそのひとりだ」
「え……悪い人、なの?」
鯨岡は首を揺すった。
「どんな人間も立場や見方を変えれば他方からは敵になる。紛争コーディネイターなんていうのはその最たるものだ。おまえの父親は〈キュー〉と呼ばれていた。その道では大物のひとりだ」
「きゅ、きゅう?」
そういうニックネームの元マラソン選手なら知っているが、まるでツカサにはピンとこない名前だった。なんか可愛くさえある。
「本名は俺も知らん。クエスチョンの〝Q〟というヤツもいれば、ビリヤードの〝キュー〟だというヤツもいる。後者の方がしっくりくるな。まるで玉突きのように人の心を操り、いとも容易く戦争を起こすプロ中のプロだった。いま現在続いている内戦の中にも、ヤツが火をつけたものはたくさんある」
ここに来てツカサは完全に理解力を失っていた。戦争を起こすプロ? そんなやばい人間が、自分の父親だというのだろうか。しかも名前が〈キュー〉? まったく身近でもないし想像もできない。聞けば聞いただけ混乱する存在だ。自分はそんな人間の血を引いているというのだろうか?
「ど、どんな人だったの。そのキューさんって……」
白蛇がくすりと苦笑した。鯨岡はサングラスの奥の視線を遠くにやった。
「俺は一度しか会ったことがない。それも戦地で交渉の現場だった。とんでもない山奥のゲリラのアジトで、あいつは高級ワインを用意して待っていた。そう、おまえによく似た浅黒い肌でターバンを巻いてたな。だが人種も母国もまるでわからん。もちろんその国でもお客さん扱いだった」
「あたしに……似てた?」
鯨岡はツカサと眼を合わせ、ふと疲れたように鼻柱を押さえた。
「目元がキューによく似てるよ。そういえばキューも碧眼だったな。おまえの眼よりももっと明るい緑色だった」
「そう……なんだ」
確かにそれはおとぎ話だった。
鯨岡はかなり具体的に話してくれたのに、両親のどちらも偽名で父親の国籍は不明だった。結局自分は何人かもわからず、はっきりした名字も不明なまま。これでは作り話といわれても仕方がない。しかしこの話、どれだけ偽名が出てくるんだと突っ込まずにはいられなかった。
「で、あの、こっからが重要なんだけど、あたしの両親って生きてる?」
そりゃそういうことも聞きたくなってくる。すると鯨岡はやたらでかいため息をついた。
「キューは空爆で死んだ。確かリビアだったと思う」
――く、空爆……。
これまたダイナミックすぎる死因でまったく親近感が湧かない。自己紹介で語ったらインパクトじゅうぶんなエピソードになるだろう。
「おかあ、さんの方は……?」
「それがよくわからん……。すまん、実は今も総力を挙げて手がかりを探している。しかしどこにもいない」
「へ?」
「今から十六年前、突然
「……あたし、レバノンってとこで産まれたの?」
じゃあレバノン人じゃん! と喜んでいいのか悪いのかわからない。ツカサははっきり言ってレバノンがどこにあるのかも知らなかった。
「病院の産婆の話では、雲雀は出産してまもなく、目を離した隙にいなくなっていたという。だがその産婆は何者かから大金をもらっていたことがあとでわかった。だからそいつの話の信憑性はまるでない。残された子は勝手に俺に託された。まるで病院の連中みんなが俺の来るのを待っていたような、奇妙な空気だった。おそらくだが、雲雀は俺に子供を委ねて計画的に失踪する気だったのだろう。その理由はまったくの謎だ」
「はぁ……」
なんだか父親以上にとんでもない母親のような気がする。ツカサはそんな女に会いたくなかった。結局は子供を捨てたのである。
「だがあいつの気持ちもわからなくもない。コーディネイターは危険な仕事だしな。〈ホワイト〉といえども、目的のためには戦闘をはじめいくつも危険な橋を渡る。恨みを抱くヤツも多い。〈ブラック〉ならなおさらだ」
話し疲れたのか、鯨岡の喉に埋め込まれた機器がヒューと鳴った。
「鯨岡さんの喉は腫瘍の手術でこうなった、ってあなたには言ってますけど、本当は敵対勢力の拷問でやられたんですよ」
「へ、へぇ……」
なぜか嬉しそうに白蛇が教えてくれた。ツカサにとっては知って得する情報とは言えないけども。
「余計なことは言わなくていい。まっすぐ前見て運転しろ。とにかくだ、キューが恨みを買っていた人間の数は百や二百じゃない。組織ぐるみ、国ぐるみで狙われていたのが〈キュー〉という人間だ。その子供なら、間違いなく標的になる。国をメチャクチャにされた連中が、その恨みを晴らすためにな」
その言葉を聞いて、急にツカサは鯨岡の言いたいことがわかった。
「あたしが……日本にいるのって、お母さんの国だからってだけじゃないの?」
「そうだ。ここが世界で最も安全な国だからだ。おまえの戸籍や国籍がないのも、おまえを狙う組織から身を護るためだ。キューの子はこの世界から消す必要があった。そして二〇年も経てば時代が変わり、おまえにも自分で生き方を選ぶことができるようになる。そう信じて俺たちはおまえを護ってきた。……わかってくれるか?」
「……」
鯨岡の言いたいことはわかる。そんなぶっ飛んだ過去を持つ両親の間に産まれたなんて、ツカサは想像したこともなかった。
ドラマや映画で自分のような境遇の子が出てくると、きっと自分も――と想像したことは数え切れない。事故で死んだとか、駆け落ちして記憶をなくしたとか、都合のいいロマンを見えない両親に投影していた。
ところが父親は戦争を起こすのが仕事で? 空爆で死んで? 母親は戸籍も本名も不明のジャーナリストで? 自分をレバノンで産んで? それで友人のおっさんにすべてを押しつけて蒸発してしまった?
なんかもう笑うしかなかった。こんなの人に話しても、誰も信じてくれないだろう。
「キューってヤツの情報はインターネットにもほとんど落ちてねぇな。都市伝説みたいなもんばっかだ。今でも生きてるって信じてる奴らもいる」
親切にクサナギが教えてくれたが、どう反応したらいいかツカサにはわからなかった。
「別にいいよ、親の過去なんて。生きてて実は刑務所でした、とかでもイヤだし。あたしはあたしだもん。護ってくれてたのは嬉しいけど、あたしのやることに制限なんかかけられたくない。国籍のために箱に入ってろって言うなら、あたしは日本人にならなくてもいい!」
鯨岡は素早くこちらを向いた。ツカサは頬の痛みを思い出してびくりとする。
「そうじゃない。おまえはしたいことをすればいいんだ。ただし目立つな。それも悪いことで目立ってはダメだ! 慎重に自由を謳歌しろ!」
なに言ってるんだ、とツカサは憤る。そして急に思い出したことがあった。
ツカサがアイススケートで才能を見せたときその芽を摘んだのも、なにかの分野で目立つことを恐れたせいではないのだろうか。思い返してみれば、有名なスケート教室の先生が近づいてきたときから、急にオジラはスケートリンクに連れて行ってくれなくなったのだ。
そんなことで、と思わずにはいられなかった。
「でもあたしの仕事の邪魔はしないでよ。今からでもいいから降ろして。あたしには人を捜して、依頼人のところに連れて行く義務があるんだから!」
鯨岡は首を振った。
「糸居紘太のことか」
ツカサは眼を丸くしたが、先ほどの話を聞いたあとだと驚きも半減だった。なにしろ鯨岡は〝
「ヤツのことは諦めろ。俺もいろいろとそいつについて調べていた。もしそいつのハンドルネームが〈ハーミット〉なら、糸居紘太はテロリストと行動を共にしている。ただの犯罪じゃない、テロだ!」
「て、テロ……?」
「俺の仲間が、今日の早朝に確認している。名古屋港であるテログループが〝武器〟の取引を行った。その場に日本人の少年がいたらしい。顔を確認させたが、糸居紘太にほぼ間違いない」
「ツカサ、そいつは本当だ」
クサナギが補足する。ツカサはまばたきするのも忘れていた。
「相手はガチのテロリストだ。武器だってどっさり持ってるんだぜ。行ってもしもし、なんて話しかけられる状況じゃねぇ。蜂の巣にされちまうよ」
「こいつの言うとおりだ。糸居紘太の件は俺たちに任せろ。俺がなんとかする」
「……」
しかしツカサは引き下がろうとはしなかった。
「だったらあたしもそこに連れてって! 名古屋港? 違う場所? 糸居くんのところに連れてってよ! あたしだって知りたい。どうしてそんなことするのか。あんなに優しいお母さんがいるのに、どうしてみんなを裏切るようなことするのか。あたしにだって知る権利はあるじゃん!」
勢いで言ったはいいものの、そんな権利があるかどうかは微妙だった。それでもツカサはこんな中途半端な幕引きはしたくなかった。ツカサは紘太の母と約束したのだ。ひとりのプロの〝なんでも屋〟として。
「ダメだ。頼むからおとなしくしてろ!」
鯨岡は大人の頑なさではねつけた。説得が通用する相手だとはツカサも思ってない。
「糸居くんの居場所、知ってるの?」
答えるはずもないがツカサは鯨岡の表情を観察する。十六年も一緒にいた相手だ。黙っていた方が饒舌なこともある。鯨岡は口を一文字に結んだまま、微動だにしなかった。
――オジラは居場所をわかってない?
「オレは知ってるもんねー」
クサナギのその声に、鯨岡の片眉がぴくりと動いた。
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