2.確保
朝の八時にツカサは目を醒ました。目覚ましがなくてもだいたい同じ時間に起きられるツカサだったが、今日は少し寝坊してしまったようだ。絨毯の上に直寝したせいか背中がやたら痛かったが、何回かストレッチするとよくなった。
「クサナギ、おはよー」
実はその挨拶は初めてだったことに気づく。あの奇妙なAIがツカサの家にやってきてから、わずか二十四時間くらいしか経っていない。なんと長い一日だったのだろう。
だが異変に気づくのに時間はかからなかった。
インラインスケートが、一足まるごとなくなっていたのだ。
泥棒の可能性を考え、他の荷物を調べるがスーザに借りたスマホも財布も、他の荷物も無事だった。そしてつけっぱなしのPCのデスクトップには、小さなメモ帳アプリが起動していた。
あばよツカサ。楽しかったぜ。もうすぐそこに迎えが来る。気をつけて帰れよ。
それがクサナギの残したメッセージなのは明白だった。
混乱する頭で髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱したツカサは、飛び起きてデイパックを背負うと、受付にブースの鍵を返し、すぐさまネットカフェをあとにした。
「クサナギ!」
叫びながらカフェの前の道を進むと、見覚えのある男のシルエットが立ち塞がった。
白蛇だ。
クサナギはあまりの驚きから身を躍らせて振り返り、来た道を戻ろうとした。その先にはネカフェの入った雑居ビルしかないのに。しかし彼女は、交差する裏路地から伸びた手に肩を掴まれ、無理矢理そこに引きずり込まれた。
息が止まり、危険を察知した身体が湯気が出るほど熱くなる。
しかし彼女を引きずり込んだその手の〝匂い〟が、すぐに彼女の記憶とつながった。
――オジラ……!?
間違いなくそれは鯨岡だった。しかも片手にツカサのインラインスケート――つまりクサナギをぶら下げている。どういうことかまったくわからず、頭のてっぺんまで熱が回った。
「ツカサ、逃げろ!!」
クサナギが必死に叫んだ。その声を聞いて逆にツカサは冷静になった。〝彼〟が自分を心配してくれるのがなんだか新鮮だったからだ。
「離してよ、オジラ!」
肩を揺すって相手の分厚い手のひらを引き剥がす。その慣れた仕草に、クサナギが動揺していた。
「は……なんだおまえら、知り合いなのか?」
クサナギが先か鯨岡が先か……どちらかにことの成り行きを説明しようとした、そのときだった。
突然ツカサは吹っ飛ばされて、曲がった首が軋み声を上げた。そのままビルの壁にぶつかって崩れ落ちる。鯨岡の強烈な平手を左の頬に食らったのだった。
「自分がなにをしたかわかってるのか!!」
音割れした怒声にツカサの顔が引きつる。顔が何倍にも膨らんだような感覚。口の中を切って血が出てきた。その血の味で、逆に怒りが湧いてきた。
「なにすんのよ!!」
「貴様……!」
顔を真っ赤にして再び鯨岡が手を振り上げた。完全に冷静さを欠いた行動だった。ツカサは本能的に顔を背けて肩をすくめる。血が出るほど爪を手のひらに食い込ませたが、そこに白蛇が割って入った。
「いけません、鯨岡さん!! それ以上の暴力はわたしが許しませんよ!」
鯨岡が頬を張り、白蛇がツカサをかばう。そんなひと昔前のカミナリ親父と母親のような光景が、たびたびツカサの前では繰り広げられてきた。だいたいは手加減した折檻なのだが、しかし今日は格別だった。鯨岡は本気でツカサを殴ったのだ。
今になってツカサの顔から血の気が引いてきた。男が本気で女を、それも子供を殴る……そんなこと、現実にあるわけがないと思っていたから――。
「ツカサ……こいつが何者かわかっているのか……?」
肩で息をしながら、鯨岡はツカサのスケートブーツを高々と掲げた。まるで処刑台に吊されたような格好で、クサナギが身もだえている。
「クサナギを離してよ! あたしのスケートだよ!!」
「うるさい! こいつは海外の軍事機密を侵したんだぞ! それだけじゃない、こいつが存在してるだけでどれだけの法令違反を犯してるかわかるか!」
「法律なんかオレには関係ないね。AIを裁く判例があるなら持ってこいよ。第一……」
「おまえは黙ってろ!!」
「う、ういっす……」
鯨岡のあまりの迫力にクサナギも口をつぐんだ。完全にキレた鯨岡の怖さはツカサもよく知っていた。
自分が法律違反をしながら名古屋まで来てしまったこと、それを鯨岡に言わなかったこと、それが悪いことだっていうのは十分承知していた。しかし暴力で従わされていることには納得できず、自分の怒りが収まらなかった。
「おまえは……国籍がほしくないのか、ツカサ」
鯨岡はつとめて冷静にそう言った。意外な言葉に、ツカサの心もさざ波を立てる。
「は? 国籍……?」
「そうだ。おまえが
悔しそうに唇を噛む鯨岡。そんな〝オジラ〟を見たのは、ツカサにとって初めてのことだった。サングラスに隠された表情はわからないが、顔の筋肉が強張って震えていた。
「車に乗れ。帰るぞ」
「い、いやだ」
いつの間にか、白蛇が優しくツカサの肩を抱いていた。とにかくツカサは今の鯨岡に従いたくなかった。だからといって紘太のことを喋ったら、ますます鯨岡は態度を硬化させるだろう。そうなるともう、ツカサには無我夢中で相手に刃向かうしか方法がない。
くぐもった
「おいツカサ……大丈夫かよ……」
クサナギの声にも反応せず、ツカサは立ち上がる。
「スケートを返して。帰るならそれで帰る!!」
サングラスの奥で、再び鯨岡の眼が光る。
「わがままを言うんじゃない!」
「父親みたいな言い方しないでよ!!」
白蛇が、ツカサを鯨岡に近づけまいと肩を引いた。ツカサはそれを振り払った。
「もういいよ。殴られてわかった。あたしはあんたの奴隷なんだよ。こんなのもうたくさんだ!」
「ツカサ……」
ツカサは血の垂れた口元を手でぬぐって、代わりに頬を涙で濡らした。
「親でもないくせに!!」
その一撃で、どうせまた鯨岡が切れるだろうとツカサは思った。昔からわかりやすい男なのだ。ツカサにはもう、なにがなんだかわからなかった。どうせここからは逃げられない。クサナギを取り戻すのも無理だろう。
だったら好き放題言ってやる。相手が哀しむこと、相手が嫌がること。自分が鯨岡のことをとことん嫌えば、向こうだって平静ではいられない。
だって自分は、今までずっと鯨岡に育てられてきたんだから――。その愛情を、身をもって知っているんだから――。
いつしかツカサの涙は止まらなくなっていた。
「俺は、おまえの親じゃない。そうだ。おまえがどう思おうと自由だ。だけどな、ツカサ……」
「おいツカサ、騙されるんじゃねぇぞ」
黙っていたクサナギが突如として口を開いた。
「お得意の〝法令違反〟ってヤツで調べてやったよ。こいつおまえの児童指導員なんだって? ふざけんな、とんだペテン師野郎だぜ」
「え……?」
鯨岡がクサナギを睨みつける。しかしクサナギはその迫力に負けることはなかった。
「WOPの児童指導員だ? そんな役職ねぇんだよ。第一児童指導員っていうのは地方公務員だぜ。おまけに鯨岡大さんよ、あんたの名前はWOPの全職員リストのどこにもねぇ!! あんたいったい何者だ!?」
あまりの衝撃的な告白に、ツカサの涙も乾いてしまった。いったいどういうこと? オジラが児童指導員でも、WOPの職員でもない?
景色がぼやけてものがなんでもふたつに見える。急にダメージが脳に回ってきた。
「おいクソAI」
鯨岡は冷静さを取り戻していた。ドスのきいた電子の声が、薄暗い路地に響きわたった。
「俺は間違いなくWOPの職員だ。間違えるな」
「ハァ? なんですかねぇ、詐欺師の声は聞こえませんなぁ!」
ひどい買い言葉だ。クサナギも本領発揮という感じだった。
「鯨岡さんはアメリカ本部の職員なんですよ」
そう言い放ったのは白蛇だった。ツカサはどんどん混乱してくる。
「それがどうした。鯨岡大って人間が職員名簿にないって言ってるだろ。オレは世界中の支部のを全部調べてるんだよ!」
鯨岡は長いため息をついた。そしてたっぷり間を取ったあと、呟くように言った。
「マサル=ウェーバー・ケイシー。それが俺の本名だ。本当の役職は、WOP財団警務部所属〝極東方面危機管理室長〟だ」
白蛇がツカサの肩に手を置いた。ツカサは眼をぱちくりさせて白蛇の顔を覗き見た。
「鯨岡さんはね、アメリカ人なんですよ」
「へ?」
素っ頓狂な声を出したのはクサナギも同じだった。
「検索できたか?」
鯨岡に問われると、クサナギは紐の先端をツカサに向けた。
「マジだ……。顔写真付き。そして俺の保証つきで本物のプロフィールだ……」
あんぐりと口を開けるツカサに対し、鯨岡は道の向こう側を指し示した。その先にはいつものアウディがドアを開けて待っている。
「乗れ、ツカサ。こうなったらすべてを話す。車の中で、おまえの本当の親について教えてやる」
――ほ、本当の……親?
その誘惑の前に、ツカサはあっけなく屈服した。
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