3.ネットカフェ

 諏訪湖から名古屋までは二〇〇キロあまり。クサナギが順調に飛ばせばちょうど一時間という距離だが、さすがにそんな巡航速度を維持できないから、名古屋市に入るまでには一時間三〇分ほどかかった。それでも自動車よりはるかに早いペースで、ツカサは日本第三位の都市へと足を踏み入れた。

 春日井インターというところを抜けてからは下道を進んでいたのだが、土地勘のないツカサにはどこからどこまでが名古屋市なのか判然としなかった。だがついにそれっぽいランドマークを発見してテンションが上がった。

 それは銀色の巨大UFOみたいなドーム型の野球場。その名もナゴヤドームである。

 すでに時間は夜の十一時を回っている。おそらく今日はナイターも終わっているのだろう。辺りは深閑として人気ひとけも少なかった。もしかしたら試合そのものがなかったのかもしれない。

 すでに〈リニミュー〉を解除した状態で滑走しながら、ツカサはこわごわと横断歩道を渡った。信号は青なのに、しきりにクラクションを鳴らされる。

「クサナギ、あのさぁ、名古屋に入ってから何回か怖い目に遭ってるんだけどあたし……」

『さっきも横断歩道で轢かれそうになったよな。気をつけろよ。おまえが氏んだらオレの旅もそこで終わりだ』

 そうなのだ。やたら自動車が歩行者に向かって突進してくるのである。自分が止まらないと間違いなくぶつかってしまうタイミングで、交差点を自由気ままに飛ばしてくる。もしかしてこの街ではパルクールを使わないと前に進めないのではないか、とさえ思えてくる。

『名古屋三人殺し、だな』

「な、なにそれ」

『名古屋では、ドライバーが三人歩行者を轢き殺して初めて一人前に認められる、という格言だ』

「……そんな格言絶対ないと思う……」

『信じるか信じないかは、おのずとわかるってもんだ』

「なんかやばい未来の映画みたい……」

 ふたりは手頃な休憩場所を探すことにした。夜の走行でさすがにツカサも疲れ切っていたからだ。これからの作戦会議も必要だった。

 ドームの近くとはいえ、周囲は閑静な住宅街でシャッターの降りた小さな商店街があるのみだった。巨大なショッピングモールもすでに閉まっている。となると、選べるのは二十四時間営業の店舗しかない。

「よし、ネットカフェにしよう」

 どこかそわそわしながら、派手な看板のネットカフェへと歩を進める。『マニマニ間』という名前のチェーン店で、どことなくオリエンタルな雰囲気の大型店だ。

「一度ネカフェに泊まってみたかったんだ~!」

『おまえ、憧れの発想がおのぼりさんだぞ』

「だって西東京は東京にあらず、なんだもん。こっちの方がはるかに都会だよ」

 エレベーターで雑居ビルの三階に向かい、受付を済ませようとすると、店員がツカサの顔をまじまじと見てきた。いつもの〝外人顔ハラスメント〟かと思ったが、テーブルの上にかなり大きな文字で「夜九時以降未成年者ご利用お断り」の注意書きがあった。

「会員証、もしくは身分証などお持ちでしょうか」

 めちゃくちゃやる気のなさそうなメガネのお兄さんなのに、しっかりと義務は果たしてくる。ツカサは悟られまいとしながらもものすごく焦った。

『あのババ……ねえちゃんのスマホを貸せよ』

「え?」

『会員証っていってもアプリ版もあるだろ』

「う、うん」

 ツカサはスケートを脱ぐふりをして座り込み、スーザのスマートフォンを左足のブーツの上に置いた。クサナギがそれにさくっとシューレースを通し、あっという間にまた外した。

『ほらよ。鯖城ツカサ様二〇歳のできあがりだ』

 突然画面に現れたこの店のアプリを店員に見せる。バーコードで見事に認証された。

「どちらのプランをご利用ですか」

 ツカサはオールナイト一〇時間のプランを指定した。

「シャワーはお使いですか」

 どうでもいいけどものすごくロボットぽい店員だとツカサは思った。クサナギの喋りの方がはるかに抑揚がある。

「あ、使います」

「では、予約シートにご記入を。時間がきたら受付までお申し付けください」

「は、はい……」

 番号札つきの鍵をもらい、ブースへと移動する。どうせ寝ちゃうだろうと思って、シートなしのペア向けの小部屋を借りた。柔らかいじゅうたんとビーズクッションの置かれた二畳くらいのブースで、足元にはちゃぶ台のような低いデスクとPCが置いてあった。本来はカップルでどんな使い方をするのだろうと想像して、反射的に顔が火照った。

「こんなところじゃなくても、普通にホテルに泊まればいいだろ」

 クサナギは〝声〟を使っているが、仕切が薄いのでかなり音量は絞っていた。

「だってお金あんまり持ってないんだもん。それにホテルなんて、余計に怪しまれるよ」

「金ならいくらでも振り込んでやるよ。大金持ちになれるぜ、一億でも二億でも」

「な、なに言ってんの?」

「世の中にはバレたらやばい金がたんまりあるんだよ。あと燃やしてでも消したい、隠したい金もたくさんある。そういうのは現金だからオレが調達するのは無理だけどな」

「う、裏金ってヤツ?」

 ツカサもひそひそ声なのだが、無意識に声量が増してしまう。

「まぁそういうタイプの金だな。どうせ政治家とかが悪事に使う金なんだからさ、オレたちが有意義に使った方が経済的ってもんだぜ」

 ツカサは間を置かずにクサナギを拳でどついた。

「って~な! 痛覚ないけど!」

「それだけはダメ!! なんかそれは……一線超えてる気がする。変なお金を振り込んだら、あんたとは絶交だからね!」

「わかったよ……。なんだよケチくせーな」

 お金。それは魅惑の存在だった。

 たくさんのお金を得ることは、確かに人生の大きなモチベーションになる。ツカサの立ち上げたなんでも屋では、いくら猫を捜したところで一ヶ月分の食費にもならない。ツカサはまだ、シルクスレッド・プランの生活援助によってなんとか食いつないでいる経済弱者なのだ。

 だからこそ、金銭的にも自立した人間に憧れる。それも就職やバイトではなく、自分の実力で稼ぐ仕事で達成したい。そしてそれは、高校進学を蹴った自分のこだわりでもあった。くだらないことかもしれないけど、ツカサはそんな未来の大人になるために今を頑張っているという自負がある。汚いお金をもらったら、そこで自分のキャリアは終わりだと思った。これはかなり真面目に考えていることだ。

 だけどこの仕事はノーギャラだった。紘太を捜し、連れ戻せたとしても誰もなにもくれはしない。それでもツカサは止まれなかった。そして家から三〇〇キロ離れた土地にまできてしまった。

 デスクの端にあるスタンドミラーに、ツカサは自分の顔を映してみる。褐色の肌に緑の瞳。どこの誰でもないあやふやな自分がそこにいる。そんな野良猫のような自分に、顔の見えない誰かがいつも餌を差し伸べてくれる。

 誰かの役に立たなければ、鯖城ツカサは居場所を失ってしまうだろう。自分はやはり、さまよい歩いて寝るだけの猫にはなれそうにない。

 と同時にツカサは自分がひどい顔をしているのに気づいた。顔全体が埃でくすんで汚れている。そういえば大転倒をしたのだった。栗色の髪の毛にも砂がいっぱいだ。もしかするとあの店員は、この汚い顔を怪しんで凝視していたのではないかと思うと、爆発しそうなくらい恥ずかしかった。

 そして自分のとなりに佇む一足の〝相棒〟もまた、土と埃にまみれて真っ黒だった。

「よし、シャワー行くよ」

「おう。オレは調べものをしとく」

「あんたもくるの。潔癖性のくせにめっちゃ汚れてるじゃない」

「……洗うつもりか、オレを?」

 クサナギは紐の先端を自分の周囲に旋回させて、うんざりするように項垂れた。

「夜だから気づかなかったが……ひっでーなァ……」

「はいはい、お風呂お風呂」

 ツカサは受付に行って鍵を受け取り、フロアの隅っこにあるシャワールームに向かった。男女別でふたつずつの部屋があった。怪しまれるといけないので、クサナギは鍵を受け取ってからPCのあるブースに取りに戻った。

「うう……アメニティ全部有料じゃん……」

「だからオレが払ってやるって」

「あんたのお金じゃないでしょ!」

 タオルだのシャンプーだの歯磨きだのを購入して個室に入る。中には一メートル四方くらいの狭いシャワーボックスと、ファミレスの洗面所くらいの広さの脱衣所があった。

 ツカサはさっさと服を脱いでボックスに入ったのだが、スケートブーツを一足抱えているのでまるで押し込められているような感覚になる。これでシャンプーを使ったり、身体を洗ったりするのは不可能だ。先にクサナギだけ洗ってしまおうと思った。

 ふと下を見ると、胸に押しつけられているクサナギの様子がちょっと変だった。

「あれ、どしたの?」

「わ、わ、わ、わ、わからん」

 なんだか妙にどぎまぎして喋り方も変になっていた。

「オ、オレの認識回路がおまえのハダカに異常な反応を示してる」

 ツカサはドン引きの表情になる。

「あんたってそういう……エロ系の感情持ってるわけ? 気持ちわるぅ……」

「バ、バカをいうな! オレは性差を超えた完璧な知性体だぞ。そもそも生殖活動しないんだから、リビドーが発生するわけがない!」

 ツカサには言葉の意味はよくわからないが、相手はAIなんだから男だ女だというのは確かにおかしい。そもそもクサナギは女の子の声で男言葉だから性別がよくわからないのも事実だった。

「だいいちネットにはポルノ画像なんか山の枯れ葉のごとく落ちてるんだ。そんなのを検索したところでまったく問題は――」

 必死で喋っていたクサナギがますます硬直して、ついにカタカタと震えはじめた。

「え、ちょっと、大丈夫なの?」

「だ、大丈夫じゃない! まったく原因は不明だが、オ、オレは女のハダカをじかに見ると、機能が一時的に――」

 そう言うなり、ぐったりしてしまった。完全に気絶だ。ツカサはかなり焦ったが、すぐに息を吹き返して必死で訴えてきた。

「こ、こいつはネット上の人格データを統合したときの副作用だ! ちくしょー、ネットには女に免疫のない野郎が大量にいやがる! だから、画像じゃなくて本物の女の手触りが……情報として……限界値……」

「……」

 ツカサは呆れながらも納得した。クサナギの意図とは関係なく、女性との関わりがほとんどない、多くのネットユーザーの性質のようなものを取り込んでしまっているのだろう。

 なんだか哀れにも思えるが、逆にツカサはほくそ笑む。

「弱点はっけーん」

「き、キサマ!!」

 クサナギの紐の先端がわなわなと震える。

「あたしが女だってこと、よく覚えておきなさいよ。言うこと聞かなかったら一緒にお風呂の刑だからね」

「ひ、ひいぃっ!」

 そのままツカサは失神寸前のクサナギを石けんで洗い、一旦シャワーボックスから出してから、改めて自分の身体を洗った。

 熱めのお湯が頭頂部をじんとさせる。すごく気持ちよくてこのまま眠ってしまいそうだった。彼女はそのまま、先ほどのクサナギの反応について考えを巡らせた。

 ツカサには多少ずぼらなところがあるので、お風呂上がりにすっぽんぽんのままスマホをいじっていることがある。そんなとき、スマホの音声アシスタントが「恥ずかしいから服を着てください!」なんて言ったらどう思うだろうか。

 きっと、「なんだこいつ」程度の感想で済ませてしまうだろう。道具は道具だ。どこかで人間とは違うという感覚が勝る。

 ツカサはクサナギにも同じ感覚で接していたのだろうかと考え、少し申し訳ない気持ちになった。確かにクサナギはスケートブーツで、しかも半年も履いていた物だから裸を晒したって恥ずかしいとは思えない。しかし〝彼〟の嫌がることをすすんでやるのはハラスメントというやつだ。こんな気持ちになるのは、クサナギを「人格」として認めているということなのかもしれない。

 自分のインラインスケートは、本当に不思議な存在になってしまった。そして〝彼〟なくしては、紘太を捜すどころか家に帰ることもできなくなる。

 ――あとで謝らないとな……。

 ボックスを出て、バスタオルで頭を拭きながら手探りでパンツを探す。ふと脱衣所の隅を見ると、クサナギが必死でこちらを見ないようにして固まっていた。

「ほれほれ~」

「ぎゃーっ! この鬼女ォォォ!!」

 たまにはこういうのもいいな、と思いながらしばらく全裸で遊んでしまうツカサであった。

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