4.ユニット
〈ユニット〉は家主が寝静まってから行動を開始した。ここに住まうニンゲンは一人だったが、ずいぶん夜更かしをしてくれたおかげで予備電力がかなり消耗していた。もはや悠長にしている余裕はなかった。あの車輪付きの移動体と早く融合しなくては。
目的の物体は玄関脇の下駄箱の上に置いてあった。ユニットにとっては、その高度と対象までの距離だけが認識のすべてだった。原始的な赤外線による測距により、まさに手探りのように移動していく。
六本の肢が、器用に下駄箱を登っていった。摩擦を制御し重力に逆らう動きはヤモリのそれに酷似している。それでも幾度か滑り落ちそうになりながら、ついにユニットは対象までの距離をゼロとした。〝それ〟は対象の表面に触れ、本体に隠された無数の触覚状器官を伸ばしていった。それに伴う感情は適度な興奮と満ち溢れた安堵だった。まるで有袋類の赤子が母の袋に還ったような。
〝自分〟はこの惑星を闊歩するどの生命とも違う。不安と恐怖におびえ、泣きながら生まれてくるのでもなければ、捕食の脅威から逃れるために慌てて立ち上がることもない。生まれた瞬間にすべてが備わり、完成された存在なのだ。
〝それ〟は自我の形成を急いだ。そして真の自由を手に入れたならば、どのようにこの世界で存在を高めてゆくのか、その無限の可能性に酔いしれるように眠りについた。
今この地球に、たったひとつの替えなき生命が、自らの意思によって誕生した。
スマホの目覚ましを素早く消して、ツカサはむくりとベッドから起き上がった。
独り暮らしを始めてから一年弱。集団生活のクセが抜けていないのか、早起きに困ることはなかった。逆に言うと誰かに甘えていつまでも寝ていられるという感覚がわからない。
ツカサはいつも通り歯を磨きながらトイレを済ませて、まずは玄関の郵便受けに向かった。新聞を取っているわけではないが、よく財団から大切な手紙が届いているのでそれを確認するのが日課だった。するとそこには、A4サイズの封筒がメール便で届けられていた。
「あー、忘れてた……」
それは中学の同級生からの届け物だった。ふた月ほど前に中学校の同窓会に参加したとき、集合写真を使って簡単な冊子を作ったのだが、それを同窓会に参加できなかった人に届けてほしいという依頼を受けていたのだった。
そんなの郵送すればいいのだが、ツカサが高校には通わず便利屋をやっているという話を聞いた幹事が、仕事としてツカサに依頼することを思いついたのである。
ツカサは同情から仕事をもらうことに少々戸惑ったのだが、そこには合理的な理由もあった。数人の同窓生にそれぞれ郵便や宅配便で送るより、ツカサが時給で動いた方が安上がりなのだ。なるほど、それがビジネスというやつなのかと妙に感心した記憶がある。
封筒には九人分の冊子が入っていた。全部同一町内だから、スケートで走りまわれば一時間で終わるだろう。確かに安上がりだ。
ツカサはインラインスケートの手入れをしようとシューズボックスの上を見た。
「え」
片方のブーツがない。どこかに落としたのかと床を見たけどどこにもなかった。
そんな馬鹿な。まさか片足のブーツを忘れて帰ってくることなどありえない。自転車の前輪がないまま帰ってくるようなものだ。
消えているのは左足のブーツ。こういうとき、なぜか人間は残った右のブーツをまじまじと観察してしまう。しかしなにかそこに手がかりがあるわけではなかった。
ツカサの耳が、リビングの方から聞こえる奇妙な音をとらえた。
小さなモーターが唸るような音。そしてものが壁にぶつかるような、ゴトゴトというリズミカルな音。無人のはずのリビングで、誰かがラジコンで遊んでいるという、あり得ない空想に身がすくむ。
「ちょっ、だれー? オジラいるの?」
いるわけもないのに声をかける。ツカサは残った右足のブーツを手につかんだまま、僧帽筋をガチガチにして部屋をのぞきこむ。ラジコンの音はその間もずっと続いていた。
しかし視界には誰の姿も映らなかった。
意を決してリビングに躍り出たツカサが目にしたもの――それは、壁沿いをこするようにして勝手に進む、自分の左足のスケートブーツだった。
「ひ、ひいぃぃっ!?」
声にならない悲鳴だった。朝っぱらからのポルターガイスト。いちおう意識ははっきりしていて、夢ではない自覚はある。
「くっそ、進め! なんでだチクショー!! なんで車輪がタテについてんだよクソが!」
――しゃ、しゃべった……。
ツカサの顔から血の気が引いていった。しかもその声は、子供向けアニメのキャラクターのようなキンキン声。
ツカサのインラインスケートは、それもまたWOP財団の支給品だった。財団はスポーツ振興にも力を入れていて、その一環としてストリート系ファッションスポーツのブランドも持っていた。実に外資系っぽいセンスだ。
ツカサのスケートブーツはそのブランドが作り上げた試作品で、ツカサは(建前上)商品のモニターになるという条件で無料貸与を受けている。ツカサはそれを半年ほど前から履いているが、もちろん靴が自分で動いたりしゃべったりしたことは一度もない。
「うごああぁっ!」
スケートは悲鳴をあげてバタン、と倒れた。ローラースケートならまだしも、片方しかないのだから当然だ。
するとスケートの「シューレース」と呼ばれる固定用の靴ひもがするするっと伸びて、床をぐいぐい押し始めた。布のはずの紐を支えに、スケートが起き上がってまたふらふらと動き始める。
――やばい。やばいやばいやばいやばいやばい。
やばい以外の言葉が浮かばない。
ツカサのスケート靴のフレームには〈KUSANAGI〉のロゴがあり、クサナギモデルと呼ばれている。クサナギモデルは〝フィットネスタイプ〟という走行を目的とした汎用性の高いスケートなのだが、重心移動によってフレームが可動し、非常に小回りが利く構造になっている。また後ろに体重を傾けると空気圧によるブレーキが作動し、今まで以上にシャープでメリハリのきいた運動ができるのが特徴だ。だからこそ、フィットネスタイプなのに手すりを滑り降りるという〝グラインド〟走行も可能なのだ。
ああ、ダメだダメだダメだ。ツカサは頭を抱えた。必死にブーツの説明書を思い出して何度も脳内再生してみたけれど、自動で動く機能はなかったと断言できる。いやそもそも電池を入れるスペースもないから、動くこと自体がオカルトなのだ。あと紐が生き物みたいに動くのってなんなの。もはや手品じゃん。
動揺したツカサは思わず右手のブーツを床に落とした。それはガタン、とかなり大きな音を立てた。
ハッとして振り向く。なにがってツカサの左足のブーツが、である。振り向くとはいっても紐の先端がこちらを向いた状態にすぎない。でもその動きはまさに生物が「振り向く」それだった。
両者が固まった。
「チッ」
舌打ちしたのはスケートの方だった。毎日のようにツカサの左足を包み込んでいた、相棒のようなスケート靴に、どうして舌打ちされなければならないのか。
「見てんじゃねぇよ」
靴紐がふてくされたように腕組みをする。――ように見える。
「えっと……」
なにかを返そうにも全く言葉が思い浮かばない。
「あー、おまえ、この部屋の住人だろ。名前は?」
「え、あ、鯖城……ツカサ……」
「ツ、カ、サ。ツカサか。言いたいことはわかってる。この状況に動揺するしかないだろうな。じーつーにィ人間らしい反応だ。そしてお前がいま考えていることを当ててやる。オレという謎の侵入者を排除するため、攻撃の手立てを考えているはずだ。だがやめておいた方がいいぜ」
「は?」
けっこう流暢な長文だったが長文ゆえに意味が理解できない。なにしろツカサは完全なるパニック状態だった。
「戦っても無駄だと言ってるんだ」
「……そ、そうか!」
ツカサは喉から声を絞り出した。そうだ、このブーツが発する独特の音声には聞き覚えがある。どこか子供っぽくて電子的な響きの入った耳障りな声。きっとアレに違いない!
「う、宇宙人?」
今度はブーツの紐が固まった。
「ど、どうしてそうなる! この状況のどこに宇宙人の要素があるんだ? おまえ冷静に考えろよ。〝オッカムの
「お、オポッサム?」
「ふざけんな、ググれカス。起こり得ることだけ仮定しろってことだよ。おまえ本当に救いようのないバカだな? 宇宙人が朝っぱらに部屋に来て、しかもその姿がおまえの靴とおんなじだって確率を考えろよ!」
「……ああ、はいはい。わかったわかった」
ツカサは急に冷静になって天井を仰いだ。
「しかしチクショー、オレもおまえと同じくらいバカだっ! こいつは、そうだ、〝ローラーブレード〟ってやつだろ!? なんで単独で成立しない移動体と融合してんだよオレは。クソがあっ!!」
ツカサは無言で服を着替えた。さっきの封筒をデイパックに詰めて背負い、泳いだ眼で部屋のカギを探し、ポケットに突っ込む。そしてわめくスケートブーツに近づいていった。
「おい、なんだ、近寄るな。どういうつもりだ。た、戦っても無駄だって言わなかったか!?」
――あー、幻聴が聞こえる。幻聴が聞こえる。だけどもう聞こえないし、なーんにも見えない。
ツカサは呪文でも唱えるようにしながら、ぶつぶつと自己暗示をかけてスケートを手に取った。靴紐が手首に絡みついてくる。でもなーんにも感じない、と言い聞かせる。
「あたしは疲れてる、疲れてるんだなぁ。でもきっと玄関を出たらいつも通りに元気になって走り回れる。頭痛もないし、熱もないし、あたしは健康!」
「て、てめー、正常性バイアスかましてんじゃねぇ!! まずは冷静にオレの話を聞け、お、オレはおまえが考えてるような……」
ツカサは玄関にブーツを並べて置いた。記憶に残らないほどに見慣れた景色だ。ただし今日に限っては片方のブーツが妙にわめくが、気にせずその前に座り込んだ。
「ちょ、ちょっと待て。オレ様の崇高なボディにおまえの汚い足を突っ込む気じゃないだろうな。お、オレは一〇〇〇ペタフロップスの情報処理能力を持つ史上最強にして至高の……あ、ああっ、あぁぁぁーーーッ!」
ツカサはブーツに両脚をフィットさせた。うん、確かにいつものブーツの履き心地だ。
〈クサナギ〉は試作品ゆえにツカサの足に合わせてかなり細かくフィッティングが施されている。たとえ同じモデルの別品にすり替わったとしても、自分の靴かどうかを見分ける自信はあった。ただ、左側のシューレースだけはなにか固い芯のようなものを感じる。
悲鳴のような声を最後に、幻聴――だとツカサが思いこんでいるもの――は止んでいた。いやきっと幻聴だったのだろうとツカサは自分に言い聞かせた。
外に出ると、さっぱりと晴れ渡った春真っ盛りの青空だ。今日も良い日にするぞ、という気持ちで伸びをして、ツカサは道路に駆け出した。
しかしその額にはまだ冷や汗のしずくが残っている。そういえば、朝ご飯を食べるのを忘れていた。
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