十二、なんとかは思案の外
祭りが終わると朝方などは急に冷えこむようになった。宿を出立する挨拶はおたがい息が白い。
「わからなくなった。民の心が」穀倉地帯をさらに巡る途中、山道でふたりきりになった時だった。晴れて、空気は澄んでおり、冷えこみ以外は楽な道中だった。
「いかがされました?」
「どうも正直に答えていない気がする」
「正直でない?」
「田畑を見た感じとあわない。収穫を少なめにいう傾向がある。どうやら税を減らしたいらしい。外国人のわたしをごまかしてもしようがないのだが、くせになっているのだろうか」
「ご研究にさしさわりございますか」そういうと、すこしあわてたようだった。
「いや、そうではないが……。話をしていると不思議なのだ。税は払いたくないのに治水や道路、橋の整備などはもっときちんとしてほしいという」
「たしかに矛盾していますね」
「おまえは人は歯車で動いているのではないといった。これもそれか?」
「かもしれませんし、一方で自分の利益だけは最大化したいと考えているなら筋は通っています。脱税は重罪なので結局は引きあいませんが」
「自分ひとりが利益を上げてどうするのだ。社会が貧しくなったら長期的には損だろう」
「しかし、目の前の利を重視するしかない暮らしもあるのです」
いまの諜報部と自分がそうだなと心の中でため息をついた。
「民とはそんなものなのか」
「これはわたしの考えですが、人にはこの世で占める位置があると思っています。その位置によって見えるもの、できることが異なるのではないでしょうか。農民には作物や家畜についてならわれわれには見えぬものが見え、できぬことができるのでしょう。しかし農民のままでは天下国家を見据えた大事業は無理です。そういうことではないでしょうか」
「そのおまえのいう位置とやらは生まれつき決まっているのか、それとも自分で選び取れるのか」
「そのふたつが混じっております。そうでなければわたしなど生きている意味がありません」
「山を登れば景色は変わる、か。やはりおまえはただの警備士ではなさそうだ。いまなにが見えている?」
「空、雲、山、川、田畑、家、人、家畜、炊ぎの煙。つまり世界です」遠くを指さしながら答えた。
「なんだかうまくごまかされた気がするが、まあいい。なら……」
その時、前方から風にのって大勢の人がやってくる音がした。まだ見えないのでふたりは耳を澄ます。
「馬もいるようです。隊商でしょうか。お嬢様、端へよけてください。狭い道です。ここはゆずりましょう」
隊商ではなかった。まず制服が見えた。駕籠二挺を十人ばかりが囲んでいる。かれらもこちらに気づいたようだった。
「あの紋は、
「なぜこのようなところで。お嬢様、ひと悶着あるやもしれませぬが、わたしにおまかせください」
「わかった。こんどは心を御してみせる」
駕籠の一隊は手前で止まった。制服の警備士が一人こちらに向かってきて呼ばわった。
「御免。当方、
「ご挨拶承った。当方は
「快諾御礼申す。さらに、道中安全のご祈念かたじけない」
警備士がお辞儀をし、止まっていた駕籠に合図をし、列が動き出した時だった。
「待て。駕籠止めよ」
前の駕籠からだった。若い男の声に引き続き、長身が降りてきた。旅装だが、武装は整えられており、封もしていない。
「これは奇遇。
「失礼をいたす。ただいまの問い、
「そのようなこと、自国でやればよかろう? わざわざ外国にまで出向かずとも」
「お言葉をお返しし、申し訳ございませぬが、われらの国には由緒ある古語は残っておりませぬ。雅な言葉や発音を残すは
「ふん。ここが辺境の田舎国だからとでも言いたいか。それなら
「資料としては数に不足がございます」
「ほお、あれでは足らぬと。まだ欲しいのか。おまえたちはどれほどの郷を併呑すれば気が済むのだ」
「両国の最近のできごとを思えばご不審もあるかと推察いたしまする。なれどもわれらは今後の両国の関係が平和穏健に進むことを希求いたしております。そのうえで、さきほどからのわたくしの返答にご不満、不足などございましたらこの膝を幾重にも折りましてお詫び申し上げますゆえ、なにとぞこの場はお収めください」
うしろで着物がこすれる音がした。お嬢様の手が震えているのだろうか。笠をしきりに持ち直している。
「ふん。おまえごとき木っ端警備士の言葉などなんの役に立つものか。そのうしろで突っ立ったままのお嬢様にも詫びてほしいものだな」敬意のふくまれていない『様』だった。
「
「姉上。そのままで。降りていただくにはおよびません」
声の調子が変わった。あせっている。しかし、その言葉が終わらぬうちに弟とおなじ目をした婦人が駕籠からでてきた。頭ひとつ分低いとはいえ、女性としては大柄で、枯木と枯葉だらけの山中にそこだけ春が来たかのような柄の着物だった。この人物なら知っているが、うわさと異なり、ふつうの装いだった。
すっと
「これはこれは。お父上や兄上にはお会いしたことがございますが、
「
相手を試してみた。弟とは異なる人種だった。反応をたしかめたい。
「いや、それにはおよびませぬ。弟はずっと駕籠にゆられていましたので疲れていたのでしょう。もちろんのことですが、われらは最近の両国間のできごとについて不審などは抱いておりませぬ。すべて収まるべきところに収まり、さきほどそなたが言ったような平和穏健に向かっていると認識しております」
「これはご賢察。心得ました。では、お疲れのところお引止めしてもいけませぬ。どうかお通りください」
「駕籠にもどっておれ。わたしはまだすこし話がある」
不満げに駕籠に乗りこむ弟を見てから、ふたりのほうに近づく。
「ほんとうに弟が失礼した。姉としていまいちど謝罪する」
香が匂うほど近い。
「研究旅行とは感心です。いまは女子がただ家と家とを結び付けるだけの存在だった時代ではない。学問は必要でしょう」
さらにそういいながら懐からなにか取り出した。櫛だった。
「だからといってめかしてはならぬということはありません。お詫びといってはなんですが、きょうここでお会いしたのもなにかの縁。どうかお受け取りください」
「お詫びなど滅相な。それにつげの櫛などわたくしにはもったいない」
さすがにだまっていることはできなかった。
「遠慮はいらぬ。
「では、お受け取りいたします。ありがとうございます」
その言葉を合図として、
「たしかに。それでは大切にお使いいたします。また、きょうの出会いは忘れません」
「人が、わたくしのことを忘れぬという。なんと清々しいことよ。それと、
そういいながら薄く朱を引いた目を
「また会うこともありましょう。では本日はこれにてさらば」
香を残して駕籠に乗りこむと、一行は出発した。二人を通り過ぎるとき、
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