第48話統治改革
年が明け1478年になった。
そう言えば去年は応仁の乱が終わった年だったような気がするけど、関東にはあまり影響はなかった。
そして石神井城には新年の挨拶に来る国人領主が続々と押し寄せた。
出来れば正月はゆっくりしたかったけど、どうやらそうもいかないようで、結局国人領主からの挨拶が終わったのは1月6日だった。
まあ4日から新年の挨拶を受け付けると先に伝えておいて6日に終わったのなら良しとしよう。
ただ、正月から宴会続きだったのが苦痛だった…。
そんな慌ただしい2日が終わり1月7日には、国人領主達がそれぞれの所領に帰ったので静かになった石神井城の広間に、今後関東を統一する為に働いて貰わないといけない人達に集まってもらった。
石神井城城主、豊嶋泰経、宗泰親子
川越城城主、太田道灌、資康親子、そして道灌の父である太田道真
鉢形城城主、長尾景春、景英親子
忍城城主、成田正等、顕泰親子
三浦城城主、三浦時高、高救親子
の11人が関東の地図を中心に車座になり座って居る。
本来であれば上杉朝昌、朝寧親子も来るはずだったけど、大森家の動向が怪しい事に加え国人領主を纏めきれていない為来れないと言い、新年の挨拶も代理で使者を立てており、どうやら本当に身動きが取れない状況らしい。
「それで今回、5家の当主とそのご子息に集まって貰った理由は、昨年手に入れた武蔵の国19郡の統治に関してだ。 今後、関東を統一するにあたり、それそれが一軍の将として国人領主を指揮して貰いたいと思って居る。その為にそれぞれに管理する土地をここで伝えようと思う」
そう伝えると一同が今まで通りではないのか? と不思議な顔をしている。
確かに…、言葉足らずだった。
「説明が不足してたね。 時高さん、朝昌さんは別として現在の所領から新しい所領に移動してもらって管理地の国人領主を家臣化して貰いたいんだよね」
話を聞きいっていた皆さんはそれぞれの反応を示すも、所領が増える事、本貫地として景春さんの鉢形城、道灌さんの川越城、泰経さんの石神井城は安堵するものの城の維持などの為、城下町とその近隣のみは残すという事で納得してもらった。
豊嶋泰経、宗泰親子には葛飾郡と埼玉郡、足立郡の一部
太田道灌、資康親子には多摩郡と都築郡の一部
長尾景春、景英親子には
成田正等、顕泰親子には埼玉郡の一部、足立郡の一部、横見郡
と割り振り、大体15万石づつ管理するようし残りは自分の直轄地とし、検地後15万石に満たなければ自分の所領から補填する予定だ。
今年は武蔵全土で正条植えを導入するので収穫量が増加するから恐らくこれで大丈夫なはず。
因みに景春さんだけ管理する郡が多いのは1郡1郡が小さい為に多くなった感じだ。
って誰だよ! 武蔵19郡をにしたの!!
現代で言う所の深谷市とか本庄市とかが幾つもの郡に分かれてるし。
一つか二つに纏めとけよ!!
それはさておき、現在検地を進めてはいるものの武蔵全土の検地が終わるまでにはまだ時間がかかる為、実際新しい所領への移動は秋の収穫後になる。
ただ例外として秩父一帯は一足早く自分の所領する事を宣言し、秩父の国人領主は加増して転封し他の土地に移って貰った。
これにより、豊嶋泰経、宗泰親子と成田正等、顕泰親子には下総方面を、太田道灌、資康親子には甲斐、相模方面を、長尾景春、景英親子には上野方面を担当してもらう事になる。
後は国人領主の転封に関してだけど、これはそれぞれと繋がりの深い国人領主が自分の管理地域に居た方が色々とやりやすいだろうから4家同士で話し合いを持つことになった。
これに関して自分はノータッチで丸投げだ。
だって誰が誰と仲いいとか仲が悪いとか知らないもん!!!
因みに担当地域で古河公方や関東管領に味方する国人領主は攻め滅ぼすように厳命しておいた。
既に領地を追われた国人領主の多くが古河公方や関東管領、そして相模方面に逃れているが早いうちに降伏し所領を安堵された国人領主の中にも若干信用できない人達も居るとの報告を受けたからだ。
「それで所領はこれで良いとして、前々から思っておりましたが宗麟様は我らを、さん付けで呼ばれますが既に我らは宗麟様の家臣、これからは呼び捨てでお願い致します」
泰経さんがそう言うと、全員が頷く。
「いや、自分の居た世界では目上の人には上下関係なく…」
「いえ、それでは示しがつきません、敵を呼び捨てにし味方に敬称を付けるのは知っていましたがこれよりは呼び捨てでお願い致しまする!!」
何でだろう?
敬称を付けて呼んでたら拒絶された。
上下関係をはっきりさせるのが大事なのはわかるけど、この時代ではそんなもんなのかな?
その後、泰経の弟である豊嶋泰明を始め一門衆の白子朝信、 宮城政業を直臣にする事を認めさせ、道灌からは父親の太田道真を直臣として相談役にする事を認めさせた。
道灌の家臣であった斎藤真氏も直臣として取り立てた。
翌日、諸将が所領に戻ったので直臣の役割分担を決める為主だった人を集める。
主殿の広間には太田道真、豊嶋泰明、白子朝信、宮城政業、斎藤真氏、木戸孝範、風間元重、武石信康、上田朝直を始め数人が集まった。
「今集まって貰った皆さんには我が鳳凰院家の直臣としてそれぞれの仕事をやって貰う」
自分がそう言いい全員が平伏したのを確認したうえで各自に役割を与えていく。
太田道真は自分の相談役に任命し助言をする役目を与えた。
白子朝信は引き続き農政改革の責任者に。
木戸孝範は領地の管理、商人の管理などの責任者、農政奉行に。
宮城政業は生産関連の責任者、生産奉行に。
上田朝直は領内の街道整備、治水整備の責任者、生活基盤奉行に。
豊島泰明は鳳凰院家の兵を纏める責任者、軍奉行に。
吉良成高は領内の治安維持責任者、警邏奉行に。
風間元重には鉱山開発、鉱山奉行に。
武石信康は旗本衆を纏める旗本奉行に。
斎藤真氏は外交担当に。
それぞれ任命した。
これで大体形になった。
領内に楽市楽座を敷いて関所を撤廃したので後は街道を整備して往来しやすくすれば経済が活性化して収入が増える。
上田朝直は街道整備が急がれるうえ治水整備までしないといけないので青い顔してたけど今後資金が潤沢になれば金を気にする事ないと言うと安心した表情をしていた。
松山城及び所領を安堵したんだからこき使っても問題ないはず!!
本人も安全に実績をあげられると知ってやる気出してるし。
補足---------------------------------------------
補足
昔はシイタケが大変高価な食材として取引されていました。
そして現在高級品として扱われる松茸、な、な、なんと普通のキノコとして扱われ価格はほぼ二束三文だったと言われています。
しかし時代が移り変わり1700年~1800年頃から、シイタケの人口栽培が始まった事で価格が下がり始めたと言われています。
尚、シイタケ栽培が始まった時期や場所は諸説あり調べましたがよく分かりませんでした。
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