第39話松山の合戦
成田正等が松山城の救援の為に4000人の兵を率いて来てから対陣する事4日間、毎日のように両軍が50メートル程距離まで接近し石を投げ合い罵声を浴びせるだけと言う死傷者の出ない合戦が続く。
自分が指揮する4000人の豊嶋軍にはスリングを使用せず普通に石を投げる事を徹底させている為、双方が投げる石は届くことなく、矢のも飛び交わない不思議な光景となっている。
流石にしびれを切らしたのか成田軍に中から2~300人程の兵を率いて攻めかかって来た部隊はいたものの千人以上が一斉に石を投げた事で近づく事も出来ず引き返して行った。
恐らく松山城に籠る兵からしたら成田軍に対し何をやっているんだ! と言いたくなるだろうけど双方がほぼ同数で一定間隔を維持して膠着している状態という事で状況を見守る事しか出来ないと言う歯がゆい状況だと思う。
成田正等率いる兵と対峙しさらに3日、その間も川越城を囲む上杉定正の様子を風間さんの配下や和議の使者として行き来をしている斎藤さんから聞きくと、どうやら松山城を攻め落とすことも出来ず、成田軍と松山城の兵に釘づけにされていると伝わっているようで既に豊嶋軍8000人は眼中には無い感じとの事で和議の話をしようにも全く取り合って貰えず、それどころか豊嶋領をすべて差出した上で自分が上杉定正に臣下の礼を取れば許してやると言い出し、既に勝ったかのような感じらしい。
そんな雰囲気が将兵にまで伝わっているのか、兵達は毎日酒を飲み、女を買い、博打を打って過ごし、上杉定正の本陣でも毎日のように酒宴が開かれ既に戦勝祝いをしているかのような感じとの事だ。
まあ確かにこの状況下で6万の兵を率いていたらそうなるよね。
しかも商人達が兵糧に酒、そして周辺から遊女が集まって来てるから兵が暴走する事も無いし…。
まさか10日もしないうちに、力攻めから包囲しての兵糧攻めに切り替えるから最初の数日は兵糧を、そして更に数日後からは酒を売り、そして20日後ぐらいからは相模で募集した遊女も運ぶよう商人達に伝えておいた甲斐があった。
江戸湊、品川湊の商人が入間川の水運を使って大量に売り利益を出している事で、六浦湊などの商人に加え普通の商人まで商機と捉えて荷車に積めるだけ積んで売りに来ている。
6万人もの人間が居るんだから消費量も半端ない。
だから持って来た物は全て売れるんだから各地から商人達が群がって来ている。
しかも遊女も何処からともなく集まって来ているから軍紀も包囲を始めて時間が経てば経つほどユルユルでもはや合戦に来たとは言えない状況になる。
うん、予定通りだ!!
報告を聞き、斎藤さんには、江戸城、赤塚城を含む豊嶋領の安堵と自分に味方した国人領主の所領安堵、道灌さんの助命と川越城及び道灌さんの所領を安堵する事を和議の条件としてどうしても受け入れて欲しいと上杉定正に懇願するように指示を出し、風間さんを呼んで用意した書状を数人も元へ届けるように指示し、泰経さんを始め諸将を呼んで軍議を開く。
「そろそろ本格的に動きがあると思う。 ただ青鳥城に居る1000人の兵は動かせないから実質7000人で松山城の上田朝直と成田正等の兵、合わせて8000人を相手に合戦する事になるんだけど何か質問はある?」
軍議の席で唐突に本格的な合戦があるけど質問ある? と聞かれ諸将が困惑の表情を浮かべ困った顔をしている。
確かに何の説明も合戦になるけど質問ある? って聞かれても困るよね…。
話す順序間違えた!!
その後、現在進行している作戦、戦場予定地、作戦などを説明し再度質問があるか聞いてみる。
「恐れながら…、宗麟様の策を疑う訳ではございませんが本当に信用できるのですか?」
一部の将からそんな疑問が上がったものの現在の状態を鑑みて信用できると伝え納得してもらう。
実際の所は自分も信用できるのかは分からないんだけど、本音を伝える訳にはいかないし…。
「それじゃあ成田正等が動いたら松山城を抑えてる兵と合流して青鳥城方面に少し後退してから合戦をする。 今回は松山城の兵に全力でぶつかり、成田正等に対しては2000人程で足止めをする感じで」
そう伝え軍議を締めくくり陣へ戻ると、風間さんの配下から書状の返事を受け取る。
書状には3日後に兵を動かし松山城の兵と合流し合戦に臨むようにすると書いてあるけど、本当に大丈夫かな。
今更ながら猜疑心に駆られてきた…。
3日後、書状に記載されていた通り成田正等に動きがあり軍を2つに分け前進を開始した。
片方は自分が率いる部隊、片方は松山城と対峙している泰経さんの部隊を攻撃する構えだ。
自分が率いる部隊は4000人の為、合戦になっても数の差を活かして有利に戦えるものの松山城と対峙している泰経さんは挟撃されるので当初の予定通り全軍後退した上で合流する。
地図を見る限り合流して陣を張った場所は、現代の東松山警察署辺りかな?
合流が完了したところで泰経さんには2000人の兵を率いて前進してくる成田正等に備えてもらい、自分は5000人の兵を率いて松山城から出陣してきた上田朝直に備える。
両軍の距離が2~300メートル程になったのを見計らい、自分が率いる軍より豊嶋家一門衆の志村信頼さんと平塚基守さんが合わせて500人程の兵を率い上田朝直の軍に突撃を開始する。
今回の合戦で豊嶋軍を殲滅する気満々なのか上田朝直は城に兵をほぼ残さず全軍で出陣して来たようで4000人程の兵で2人が率いる500人程の部隊を迎え撃つ。
勢いよく突撃した志村さん、平塚さんだったけど、4000人程の兵が密集隊形に近い形で迎え撃った為、2人共あっけなく弾き返されて後退を始める。
反対にあっさりと先陣を追い散らした事で勢いづいたう上田朝直の兵は2人を追撃し勢いそのままに突撃を開始する。
「よし、喰いついた! 恐らく籠城が長く鬱憤が溜まってたんだろうな…。 500人ぐらいじゃ喰いつかないかもとか思ってたんだけど」
そう呟くと自分の横に控えて居た宗泰君が「流石宗麟様…」と言いながら今にも飛び出して行きたそうにしている。
「宗泰君は自分が退却してくる志村さん平塚さんと入れ替わりで突撃をした後に全軍の指揮を執るんだからね! 先頭に出て突撃したらダメだからね!」
何となく心配になったので釘をさしておいたけど、思いっきり渋々と言った顔で頷いてたから先頭に立って突撃する気だったらしい。
そんな宗泰君をしり目に黒帝に跨り大太刀を持って向かって来る上田朝直の兵に突撃をする。
チートの一つであると思われる黒帝はこの時代の馬より圧倒的に体躯が良いうえ全速で走れば倍以上の速さという事もあって自分に続いて突撃を開始した騎馬武者をグングン引き離し、走り出してからものの十数秒で上田朝直率いる兵の中に躍り込む。
巨大な馬に跨り深紅の鎧を纏い大太刀を左右に振り回し敵軍の中を駆け抜ける。
最初は一直線に突き進み、暫くしたら右側へ、その後Uターンするようにして左へと駆け抜け敵軍の足並みを乱し混乱させる。
敵軍の中で大太刀を振るい駆け抜けてる途中、身なりの良い騎馬武者を見かけたら斬り捨てて進む。
身なりの良い騎馬武者は指揮を執ってる可能性があるから敵を混乱させるには将を討つのが手っ取り早い。
自分が突入し綻んだ部分へ豊嶋軍の騎馬武者が一塊になって殺到し敵軍の中を駆け抜け混乱に輪をかけその後に続く足軽が混乱する兵に襲い掛かる。
上田朝直率いる4000人の兵に対し豊嶋軍は5000人、数で勝っているうえ自分と騎馬武者の一団が敵軍の中を駆け抜け足並みを乱された事で、合戦が始まって30分もしないうちに兵が浮き足立ち雪崩を打って松山城目指して敗走を始めた。
泰経さんが対峙している成田正等はゆっくりと陣形を組んでる最中に上田朝直の方で合戦が始まり、30分もしないうちに敗走し始めたのを見て追撃を阻止すかのような動きを見せるもその動きは鈍く、泰経さんの兵が一定距離を保ってついて来るため有効的な援護が出来ずにいる。
上田朝直は敗走する兵と共に松山城に逃げ込むも、宗泰君の追撃を受けかなりの損害をだした。
城から打って出る際は勢いよく飛び出せるけど、城に入る際は逃げる兵が城門の所で詰まり右往左往しているうちに後ろから来た兵に攻撃をされ損害が増加した感じだ。
宗泰君には城門まで追撃し適当に損害を与えたら引き上げるように伝えてあるので、そのうちかえって来るだろうから、泰経さんが対峙している成田正等の方に目を向けると、やはり動きは鈍く松山城へ逃げ込む兵を追撃している宗泰君が引き上げるのを待って松山城の南側500メートルぐらいの所に陣を移動させ守りを固めている。
これで松山城の上田朝直はもう城から出てこないだろうな…。
死者だけでもざっと5~600人は居そうだし、城へ戻らず逃げ散った兵も居たから城には良くて2000人居るかどうかだろうし。
風間さんには既に敗戦の報を川越の上杉定正に知らせようとする人を討ち取るように伝えているので恐らく数日は合戦結果が伝わらないはず。
さて準備は整った。
あとは本番がうまくいくかどうか…。
そう思いつつも、全軍を集結させ怪我人を青鳥城へ移動させ、代わりに青鳥城から兵を補充する。
青鳥城を守る兵1000人の内、400人程が怪我人だけど多分攻められることはないだろうから大丈夫でしょ。
そう思う事にしよう!
攻められたら攻められたで…。
その夜、戦勝に湧く本陣に1人の国人領主がやって来た。
うん、今回の合戦における最大の功労者がやって来た。
補足----------------------------------------------------
この時代、敵味方の区別は当主がどちらに味方すると宣言し味方する相手にその旨を伝えるだけの事が多く、形勢が不利になれば簡単に裏切るなども良くあったそうです。
にもかかわらず、合戦の際には手を組んだり敵対したりを繰り返していたようです。
裏切りが卑怯とか主君をよく変えるのは不忠者と言われだしたのは戦国時代末期からと言われ、それまでは名のある武士は合戦で手柄を挙げて受け取った感状の数などを仕官先に見せて自分を売り込む事を繰り返していたそうです。
昔は多くの武士に忠誠を誓うと言う概念はあまり無かったようで地位と対価で主人を選んでいたと言われています。
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