第32話:決意

 私は恐々伏見稲荷大社の参道を登りました。

 もし元の世界に戻れなければ、お登勢さん達の所へ帰らなければいけないのです。

 そんなことになったら、恥ずかしくていたたまれません。

 自分達が幕府から処罰されるのを覚悟の上で、私を元の世界に戻そうとしてくれた皆に、どんな顔をして皆に会えと言うのですか。


 長く続く参道が、永劫の罰のような気がしてきました。

 私がこの世界に来たのが伏見稲荷の意思ならば、私がその思惑通りに動いていなかったとしたらら、元の世界には戻してもらえないでしょう。

 伏見稲荷の思惑通りにこの世界を変えるまで、私は絶対に元の世界に戻してもらえないのです。


 そう考えると涙が流れてきました。

 私がこの世界でやれた事など殆どありません。

 瞽女の待遇をほんの少しよくできた事と、ほんの少し早めに天然痘の予防接種を広めたくらいしかありません。

 まあ、伏見稲荷が徳川家斉の事を嫌っていたのなら、話しは別ですけどね。


 母や私が考えているように、田沼意次が失脚することがなく、田沼意知が殺される事もなく、その上で徳川家基が名君だったら日本の歴史は大きく変わっていた。

 伏見稲荷がそんな歴史を望んでいたのなら、少しは役に立てたでしょう。

 徳川家基は名君ではありませんでしたが、死んでしまいました。

 国松と幸松がどのような性格に育つかは分かりませんが、まだ乳飲み子の段階ですから、田沼意次と意知なら愚か者に育てたりはしないでしょう。


 元の世界に戻れないかもしれない不安と恐怖を押し殺すために、どうでもいい事を考えながら参道を登りましたが、それでもとても長く遠く感じてしまいます。

 このまま参道が終わるまで赤い着物の童女が現れなかったどうしましょう。

 お登勢さん達はまだあの場所で待ってくれているでしょうか。

 どうか御願いします、元に世界の戻してください。


 気持ちが追い込まれたのでしょうか。

 余計な事など考えずに、真摯に請い願い祈り続けました。

 その請願が届いたのでしょうか、赤い着物の童女が私の前に現れてくれました。

 童女がにっこりとほほ笑んでくれます。

 中、右、左、中、左、中、右、中と鳥居をくぐって行きます。

 私は間違えないように、必死に後をついて登ります。


 眼が眩みそうなくらい激しい光に襲われました。

 目の奥どころか頭まで痛くなるくらい激しい光です。

 思わずその場にしゃがみ込んでしまいましたが、同時に心から安堵しています。

 この世界に送られた時と全く同じです。

 これで元の世界に戻れる、そう思えたのです。


 光を感じなくなるまで、目と頭の痛みが完全になくなるまで、私はしっかりとしゃがみ込んで時間が経つのを待ちました。

 万が一にもこんな所で立ち眩みを起こすわけにはいかないのです。

 しっかりと意識を保っていなければいけないのです。

 私は十分に安全を図って立ち上がり、霧の立ち込めた参道をゆっくりとおります。


 この世界に来た時と同じ条件にするために、早朝に来たのです。

 それに、他に人がいたら元の世界に戻れないかもしれないとも思ったのです。

 だから時間の違いで戻れたかどうかの判断は出来ないのです。

 不安と期待が相半ばする、心臓が跳ね回るような状態で参道をおります。

 足がすくんで立ち止まりそうになる心を叱咤激励して、おり続けました。


 深い霧が立ち込めていなければ、参道から見下ろすと車や電車が見られたでしょうが、残念ながら全く視界がなかったのです。

 一番下までおりて、アスファルトの敷かれた道路に車が走っているのが目に入って、安堵の余りその場にへたり込んでしまいました。

 腰が抜けたというのはこんな状態なのだと、馬鹿な考えが頭を過りました。


 何故あの世界に行ったのか、私には分かりません。

 もしかしたら白昼夢を見ていただけかもしれません。

 ですが、本当によい経験になりました。

 自分の愚かさ至らなさがよく自覚出来ました。

 自分の若い正義感と身勝手さを思い知らされました。


 向こうの世界に行くまでは見向きもしなかった、ハンバーガーが無性に食べたくなってしまいました。

 好きではなかったはずのマニュアル化された接客を受けて、思わず涙が流れそうになり、慌てて花粉症のマネをしてしまいました。

 誰にも見られない所にまで行って食べたハンバーガーは、とても美味しかった。

 涙が口の中にまで流れて、塩味が強くなるくらい美味しかったです。


 人心地ついて、怖くて境内の中に入られず、道路を挟んで伏見稲荷大社を見ながら、現実だったの白昼夢だったのか分からなくなりました。

 スマホで日時を確かめようにも電源が入りません。

 でも、ずしりと重いバックパックを恐る恐る確かめると、田沼意次からもらった四十個の包金が入っています。


 あれは本当にあった事なのだと、ずしりと心に響きました。

 もう目を背けるわけにはいきません。

 あれは夢だったのだと、夢と現実は違うのだと、言い訳する事は出来ません。

 努力をしていなかった事で、向こうで出来なかった事が沢山あります。

 考え方は違うけれど、命を懸けて理想を叶えようとした人達がいました。


 特に見ず知らずの私を助けてくれるために、命まで懸けてくれた当麻殿の事は忘れられません。

 あんな命懸けの誇り高さを持って生きられるとは思いませんが、せめて金銭的な損得を考えずに身の回りの人を助けていた、はるさんのようには生きたいです。

 いえ、はるさんも私の為に命を懸けてくれましたね。


 御二人のような事は出来なくても、少しは人の助けになれる生き方がしたい。

 その為には、自分の弱さを補う経済力と資格と能力が必要です。

 田沼意次のように、権力まで手に入れようとは思いませんが、弱者を下に見て施すような環境を作るのではなく、弱者が誇りを持って健常者と肩を並べて働ける環境を、作れるようになりたいのです。


 祖父と父に高かい理想のはいいですが、理想を追い過ぎて、利益を出して組織を大きくする努力を怠っていたのだと、今は思ってしまいます。

 叔父達のように金儲けだけに走るのは論外ですが、御金がなければやれない事があるのだと、今なら祖父や父に堂々と言える気がします。


 その上で、理想と現実のすり合わせをするのです。

 小説家になるのは何時だってできます。

 医学部に入学して、感染症のワクチン開発が出来るようになる。

 先進国の製薬会社は採算が合わないから手掛けない、発展途上国の限られた感染症のワクチン開発に携わりたい。


 その上で、そう言う話しを小説に出来れば、現実と夢を両立する事ができます。

 元々祖父も父も、医師免許さえとってくれればいいと言っていたのです。

 今の覚悟が挫けるような事があっても、最低限の事は出来ます。

 祖父と父が大切にしてきた、健常者と障碍者が肩を並べて医療を提供する病院を、維持する事だけはできます。

 この一年間は死んだ気になって受験勉強しましょう。

 

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神隠しにあってしまいました 克全 @dokatu

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