第18話:品川宿の瞽女
「まず神使様の奥医師役でございますが、売り払う事は許されませんでした。
その代わりと言っては何ですが、必要な御金は臣が御用意させていただきます。
音羽に与えられた屋敷でございますが、売る払う事は許されません。
しかしながら、音羽の屋敷に加えて品川宿近くの芝高輪と王子稲荷社近くと向嶋の三カ所に、三百坪ほどの屋敷を下賜されることになりました。
品川宿の瞽女屋敷に行かれるにしても、王子稲荷社に参詣されるにしても、一之江新田の名主屋敷に行かれるにしても、拠点に使うことが出来ます」
芝高輪と王子稲荷社近くに屋敷を与えられる理由はわかります。
ですが之江新田の名主屋敷に行くことと、向嶋に屋敷を貰う理由が分かりません。
もしかしたらあのことが関係しているのでしょうか。
「一之江新田の名主屋敷に、越後の瞽女達が来ているのですか」
「はい、その通りでございます」
なるほど、それなら助かりますね。
「そこで誠に申し訳ない事なのですが、神使様には時期を見て、この屋敷を出て頂きたいのでございます。
屋敷の稲荷社に鳥居を造るまでの間は、大工をはじめ多くの者が出入りすることになりますので、何時刺客が入りこむか分かりません。
警護の者と気の利く女中を付けさせていただきますので、三つの屋敷を利用して、身の安全を図って頂きたいのです」
田沼意次の話しは、半分は本当でしょうが半分は嘘ですね。
矢張り田沼意次は、自分を囮にする心算です。
信用できる腕利きの家臣と女中を私に付けて、新たに召し抱えた家臣と女中だけを屋敷に残して、敵が襲い易い状況を作り出す気なのでしょう。
「分かりました、そうさせて頂きます。
ただし今直ぐは困ります。
屋敷の手入れが済んで安全が確認されるまでは、ここを移るわけにはいきません」
自分が殺されるのは絶対に嫌ですが、いま保護してくれている田沼意次が殺されるのも困ります。
腹立たしい事が沢山あって、嫌味や文句を言ったり、困らせる行動を取ったりしましたが、今こうして覚悟を見せられると、死なれては困る事がよく分かりました。
今私がここで安全安楽に暮らせているのは、田沼意次の御陰なのです。
今のこの環境を守るためには、田沼意次の安全も大切なのです。
「承りました。
出来るだけ早く明屋敷に移って頂けるように、急いで準備致します」
そんな話しをしただけで、田沼親子は部屋を出て行きました。
それから三日間は、田沼家上屋敷から安全に往復できる場所にある、御稲荷様に参詣していました。
その三日間に、芝高輪の屋敷を優先的に整えてくれていたようです。
田沼家の人数だけでなく、幕府の人間も動いてくれていたようです。
それが徳川家治直々の指図なのか、それとも田沼意次が老中として指図したのか、私には分かりませんが、僅か三日で三百坪の屋敷を整えたのは凄いと思います。
「姫様、出立の準備が整いました」
ようやく品川宿の瞽女屋敷に行くことが出来ます。
今日の供頭も、久左衛門殿が務めてくれます。
駕籠脇にはお登勢さんがついてくれます。
当麻殿も、六人に増えた門弟と一緒に駕籠側を護ってくれています。
この前渡した百両の影響か、家族持ちの門弟が参加してくれています。
駕籠に慣れない私が乗っているので、あまり速足で進まないようにしてくれているからか、田沼家上屋敷から品川宿の瞽女屋敷まで、三時間弱かかりました。
スマホの電源を切っているので、正確な時間が分からず、お登勢さんに聞いたこの時代の時刻を、私が適当に計算した時間です。
瞽女屋敷では、目の不自由な女の人達が、私の到着を待ってくれていました。
「今日は大切な仕事を休んでもらってしまい、申し訳ありません」
「とんでもございません、姫様。
御家中の方々から、十分な心付けを頂いておりますので、謝って頂くような事はございません。
何か御聞きになりたい事があるとの事でございますが、私らのような者が答えられる事など、何もないと思うのですが、それでも宜しいのでしたら、何なりと御聞きくださいませ」
「私が聞きたいのは、幕府からの扶持でちゃんと食べて行けているかです。
不足があるとしても、芸事でその不足を補えているかです。
宿場の者や旅人に、酷い目にあわされていないかが知りたいのです。
幼い子供もいるようですが、幾人かは目が見えているようですね。
何故ここに目の見える子がいるのですか。
ああ、処罰しようという訳ではありません。
何があっても、今の扶持を減らすような事はさせません。
現状のまま行くのか、それとも増やすのかを決めるのに確かめたいだけです」
「何から御答えさせていただきべきか、無学な私には分かりかねます」
「気にされないでください、思いつくまま話してくださればいいのです」
「では遠慮なく、思いつくまま話させて頂きます。
最初に幕府の御扶持だけで食べて行けるかですが、飢え死にはしないですが、屋敷の修理や古着を買うのにも困ります。
ですが私達は乞食ではありません。
幕府に御扶持を頂いて、助けてもらってはいますが、生きて行けるくらいの御金は、歌舞音曲で頂けると自負しております」
「これは申し訳ない事を口にしてしまいましたね。
瞽女の方々は、誇りを持って芸を売られているのですね」
私は彼女達を、保護するべき可哀想な人達だと、上から目線になっていました。
ですが彼女達には、働いているという誇りがあるのですね。
職業独占で座頭や瞽女を優先しているからといって、優越感を持って下に見てはいけないのですね。
今思い出せば、祖父も父も鍼灸師達を、同じ病院で働くスタッフとして遇していましたし、どの役職の人とも対等に接していましたね。
「はい、歌舞音曲が未熟な者達には、御座敷の仕事はさせません。
家の事や雑事をやらせて、評判を落とさないように心がけています。
それぞれが自分のやれることをやって、助け合って暮らしております」
「そうですか、話しを聞いて安心しました」
「全く不足がないとは申しませんが、宿場の人達には親切にしていただいています。
ただ私達を御座敷に呼ぶ旅人の中には、腐った奴もいて、乱暴されてしまって、子供を宿してしまう事もあります。
ここにいる眼の見える子供達は、その時に出来た子供です」
「何ですって、そのような不埒な者がいるのですか。
宿場役人は、不埒な連中を捕らえて罰さないのですか」
私が怒りに任せて吠えてしまうと、視線の端に、合図を出してくれている久左衛門殿の姿がうつりました。
「そんな連中は事前に色々と準備していて、宿場役人の方々が助けに来て下った時には、もう宿場から遠く逃げてしまっています」
瞽女達に聞こえないように合図を出すという事は、何か裏がありそうですね。
「そうですか、では何も言わない事にしましょう」
「ありがとうございます」
話してくれている瞽女が、安堵しているのが伝わってきます。
何か後ろめたい事があるのでしょうか。
私は別に、彼女達の秘密を暴きたいわけではないですから、根掘り葉掘り聞かれたくない事まで、ほじくり返す気はありません。
「目の見える子供達の事は、今御話しさせていただいた通りです。
目の見ない子供達は、実の親から預かって芸事を教えています。
実の親が死んでしまっても生きて行けるように、目の見えない者同士で助け合えるように、幼い頃から一緒に暮らすようにしています。
ただ、裕福な家に生まれた目の見えない子は、家で養ってもらうか、家が師匠を雇って芸事を教え、生きて行けるようにしています」
なるほど、実家がしっかりしていれば、両親が亡くなっても、兄弟姉妹が助けてくれる社会なのですね。
「そうですか、よく分かりました。
貴女方が、誇りをもって生きている事が分かってよかったです。
話しを聞くだけで心付けを渡してしまっては、貴女方の誇りを傷つけてしまうかもしれませんね。
私達に貴女方の芸を見せてくれませんか」
「はい、喜んで披露させていただきます」
彼女達が聞かせてくれたのは、三味線を中心とした語り物でした。
これは、宿場町の御座敷に呼ばれて歌舞音曲を披露したり、宿場の家々で門付演奏するために、運び易い楽器になっていったからでしょう。
ですが今回は、瞽女屋敷で聞かせてもらっているので、琴を使った語り物も聞かせてもらうことが出来ました。
「彼女達の仕出しも取っております。
昼食をここで食べて急いで戻れば、警護が心許ない、芝高輪の屋敷に泊まらなくてもすみます」
久左衛門殿は流石に老練で、主君を護ることを忘れていません。
田沼意次の命令には逆らわない形で、出来る限り主を護ろうとしています。
私の命令に従うように見せかけて、田沼意次の警護も怠りません。
私の警護についている若侍達が、日暮れまでに田沼家上屋敷に戻れば、一橋や松平定信も刺客を放つ事を躊躇うでしょう。
しかもそれを、私を十分満足させたうえで行っています。
私が知りたい事を事前に色々と調べて、瞽女達が答え難い事まで十分調べて、自分が代わりに答えられるようにしています。
何より瞽女達に酒食を振舞い、私を喜ばせてくれています
だから芝高輪の屋敷に泊まらずにすみます。
「今日はたっぷりと御祝儀を下さり、感謝の言葉もございません」
私は昼からほろ酔い加減で、御機嫌になった瞽女達に見送られて、田沼家上屋敷への帰路につきました。
来る時と同じなら、十分余裕を持って日暮れ前に帰れます。
私に話す事があるのでしょう、久左衛門殿が駕籠脇についてくれました。
「神使様、先程の子供の件ですが、あれは無理矢理乱暴されたわけではありません」
「そうなのですか、それでは恋に落ちて妊娠したのですか」
「はい、左様でございます。
宿場の女房持ちや旦那衆と恋仲になり、表に出せない子供を産んだ者もおりますし、旅人とのひと夜の恋で子供を産んだ者もおります。
中には割り切って身体を売った果てに、子供を産んだ者もおります。
瞽女達も女ですから、子供を産みたいと思う時があるのでしょう」
なるほど、そういう事ですか。
女房のいる恋人の子供を産んだ場合は、素性が明かせない事もあるでしょう。
幕府から屋敷と扶持を賜っている以上、堂々と子供を産むのも憚られます。
私娼として身体を売っているなら、猶更役人には言えません。
旅人に乱暴されたと言うしかないでしょうね。
「宿場役人達は、本当の事を知っているのですか」
「はい、宿場内の事ですから、本当の理由は知っております。
ですがそれを暴いて事を荒立てるような、無粋な者はおりません。
人間には表の顔と裏の顔があって当たり前ですから」
確かにそうかもしれませんね。
私のような小娘は、四角四面で考えがちですが、実社会は違うのでしょうね。
二十歳前になっているとはいえ、小説を書く事と受験勉強だけの人生でした。
田沼意次や徳川家治に、どうこう言えるほどの人生経験などないのでした。
今回は本当に色々と考えさせられました。
支援や権利は、ただ与えればいいという訳ではないのですね。
与える側が優越感を持ったり、威丈高になったりする事は、絶対に許されない事ですし、支援を受ける側も、誇りを忘れてはいけないのですね。
何より男性にしろ女性にしろ、性による望みを蔑ろにしてはいけないのです。
「神使様、瞽女屋敷からずっと後をつけている者達がおります」
久左衛門殿が急に怖い事を言いだしました。
「辻番所や自身番屋に人をやっておりますので、よほどのことがなければ襲ってこないとは思いますが、何時でも駕籠から逃げられるようにしておいてください」
久左衛門殿がそう言うのなら、かなり危険なのでしょうか。
それとも本当に念のためなのでしょうか。
敵が覚悟を決めて襲い掛かってくるとしたら、出来るだけ江戸城から遠い場所を選ぶはずですから、品川周辺にいる間に襲ってくるはずです。
「神使様、敵は神使様が芝高輪の屋敷に泊まると考えていたはずです。
このまま田沼家の上屋敷に帰れば、襲われない可能性が高いと思われます。
ですから心配し過ぎないでください。
あくまで念のために御知らせさせて頂いただけです」
よかった、本当によかったです。
またあの時のように襲われてしまったら、今度こそ恐怖のあまり腰が抜けてしまって、逃げる事も出来なくなってしまうかもしれません。
武芸の達人だと聞いている久左衛門殿や、頼りになる当麻殿がいてくれるとしても、真剣を振り回す武士に襲われたら、とても冷静ではいられません。
「辻番所の者達が表にでてくれているのですね」
「はい、使いの者がよくやってくれています」
田沼家の中間達が走り回ってくれているのでしょう。
それに道もよく選んでくれているようです。
寺社の立ち並ぶ海沿いの近道ではなく、時間がかかる遠回りの入り組んだ道であろうと、ちゃんと辻番所のある道を選んでくれています。
海沿いの道には辻番所がありませんから、寺社の敷地内に潜んで襲い掛かる方法も、考えられたのでしょう。
「いえ、全部久左衛門殿が事前に調べ手配りしてくれていた御陰です。
有難うございます、助かりました」
「神使様、まだ御礼を言ってもらっては困ります。
無事屋敷に帰り着くまでは、心配し過ぎず油断せずにいてくださいませ」
久左衛門殿も無理難題を口にしてくれます。
そんなことが出来るのなら、こんな風に籠の中で震えていたりしません。
何とか無事に屋敷まで帰り着ければいいのですが。
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