5

「待って。お願い、ちょっと待って!」


 先の話を続けようとするキシムを制止した。今日は私は早く家に帰ることになっているのだ。だいたい、突然のキシムの出現に加えて、想像だにしていなかったこと言われて、咄嗟にうまく対処できるとは思えなかった。時間を稼ごうという、またいつものずるい発想が浮かび、自分なりに心は痛んだけれど、そうするしかなかった。


「明日、話しましょう。そうだわ、それがいい。図書館で、場所は分かるわね?」


「分かる。あんたが通っている図書館だな」


 私はとにかくとにかくを何度も繰り返して、その場を離れた。背中にずっと視線を感じていた。キシムが私のことを見送っていると気づいていた。いいや、見送りなんて優しいものではなく、彼はきっと私をにらんでいた。そうに違いない。


 家に帰り、両親にはなんでもないような顔をして、夕食をとってそそくさと自分の部屋に戻った。いつもよりも早かったかもしれないけれど、多分誤差になってくれると思う。


「もうひとり、いたんだ……」


 そうだよなあ、と自戒する。私だけが特別な理由なんて、あるはずがなかったんだ。


 でも、私とキシムだけが特別な理由は何?


 それは二人の共通点を調べていけば分かるかもしれない。もしかすると、キシムはとうにそれに気づいていて、だから私に声をかけたのかもしれない。


 私は同じような人を捜そうともしなかった。下手にいつもと違うことをしたら、この毎日の連続が崩れてしまうかもしれないと思ったからだ。私の調べ物の範囲は、図書館の中。図書館だけなら、他の人に影響はないだろうと思った。キシムが走り回って町のことを調べたとすれば、よほど慎重に行動したに違いない。


「明日、図書館で」という待ち合わせをしたものの、私は憂鬱だった。だって、彼のほうが私よりも真実を理解していて、現状の打開策も持っていそうだったから。


 そう考えて、なんて自分は自意識過剰なんだろうと嫌になる。きっと私は、この町でいまや一番賢いなんて、ついさっきまで思っていたんだ。そうに違いない。


 ああ、嫌だ、嫌だ。


 明日にならなければいいのに——ならないんだっけ。


 それとも、明日図書館に行ったらキシムがいて、それをきっかけに時間が動き出したりするのだろうか。


 私はベッドにもぐりながらも、いつまでたっても寝つけなかった。


 それなのにいつか意識を失って、気がついたら朝になっていた。窓から見える時計塔の日付けは、変わっていなかった。


 いつもよりも重い足取りで図書館に向かったが、カフェのマスターと八百屋のおじさんはいつも通りだった。この町の時間は、動いていないんだ。


「遅い」


 挨拶もせずに、キシムは言った。この少年の三白眼は、どうも好きになれない。服装もあまり清潔感がないし、髪の毛もボサボサだし。


「中で話しましょうよ。中なら世界に影響を与えることもないわ」


「世界って何だよ。あんた、自分が神様にでもなったつもりか?」


「あなたこそ、もうちょっと品のある話し方はできないの?」


「評議員候補のお坊ちゃまとは違うんでね」


 思わず怒鳴りそうになったけど、実際に怒鳴る前にキシムは図書館の中に入っていった。


「座れよ」


「いちいち命令しないでよ」


 椅子を移動して、キシムから少し距離をとって座る。キシムは勝手に喋り出した。


「俺なりに研究はした。この町は時間がとまっているように見える」


「知ってるわ」


「この町だけだ。他の町は時間が動いている。その証拠に——」


「テレビの番組は、毎日違うものね」


「なんだ。それほど馬鹿じゃなかったんだな」


「だから、いちいち突っかからないで」


「まあいい。その原因のほうが重要だって、俺は考えた。つまり、この町の時間を止めている何かがあるんだ。釘を打って動けなくしているみたいに」


「それが私達だって言うのね」


「違うな。俺も最初はそう思って、わざと『日常』と違う行動をしてみた。……あんた、因果律って知っているか?」


「……知らない」


「簡単に言えば、『そうなる運命にあるものはどう頑張ってもそうなる』っていう法則のことだ。俺が日常と違う行動をしても、結局町としての変化はなかったし、時間が進むこともなかった。因果律なんだと考えてる」


 そういうキシムは、不思議と嫌味がなく、私は驚いていた。私の中では、言われた難しい言葉を知らなかったというコンプレックスが渦巻いていたっていうのに。


「じゃあ、時間を動かすことなんかできないんじゃない」


「まだ分からない。時間を止めているパーツが、俺たち以外にもあるのかもしれないしな」


「どうして、そこまでして時間を進めたいの?」


 キシムの動きが止まる。床を見ている。図書館の床は木で出来ていて、天然の模様が隅から隅まで変化しながら続いている。その一点を、キシムは見ていた。


「あいつが、病気なんだ」


 目を動かさずに、キシムは言った。


「明日が手術の予定だったんだ。だけど明日にはならない。このままじゃ、あいつはずっと病院で苦しんだままだ」


 あいつって誰? 病気って何? どれから質問すればいいのだろう。


 考えて、考えて、出てきたのは少し的外れな質問だった。


「手術すれば、治るの?」


「分からない。医者は半々だって言ってる。だけど、俺には家族がいないから。あいつしか、いないから。だから……」


 その人はきっと恋人なんだろうなと、私は直感的に思った。そんな風に思える人がいることを、素直に羨ましいと思った。そして、私のジャックに対する気持ちが不純なものに思えてきて、恥じ入りたい気持ちになった。


 駄目だ。キシムの前だと、自分がどんどん惨めになる。


 恥ずかしくて逃げ出したいのに、私の身体は動かなかった。この空間に閉じ込められてしまい、二人きりであることを誰かに強制されているみたいだった。


 それなのに、嫌な気持ちはしない。


 逃げ出したいほど苦しいのに、嫌ではない。


 不思議な感覚の中で、時間だけが過ぎていく。


 私は呼吸ができなかった。息の音を聞かれたら、そこから私のすべてが見透かされてしまうんじゃないかと思った。


 時計の針の音が、古い図書館に響いていた。


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