3

 朝の目覚めはいつもと同じ、快適な目覚めだった。


 時計塔の鐘がなる。ベッドの上に半身を起こし、鐘の音に耳を澄ませる。丁度七つ。窓のカーテンを開けると、時計塔の姿が見える。このアパートメントの特等席だ。


 時計塔は、町民の誰もが自慢に思っている立派な建築物で、毎時に鐘が鳴るばかりか、日付けも大きく表示される。時計でもありカレンダーでもあった。


 文字盤の中央の日付けの文字を確認し、私は溜め息をつく。


 ——また同じ一日が始まった。


 服を着替えて台所にいったら、既にお母さんが朝食の準備を整えてくれていた。お父さんとお母さんにおはようのキスをして、テーブルにつく。


「カレンは、今日も図書館に行くのかい?」


「うん」


「本当に図書館が好きなんだなあ。でも早めに帰ってくるんだよ。今日は投票日だから、夕方を過ぎると投票を終えた若者たちが酒屋に繰り出す。そんな連中に絡まれたらいけない」


「お父さんは、心配しすぎ」


「しかたがないさ。心配するのが父親の役目みたいなものだからね」


「大丈夫、そんなに遅くはならないわ」


 そうだ、ジャックとの待ち合わせが終われば、家に帰る。


 図書館に向かう道の途中。


 カフェのマスターに挨拶をする。


 八百屋のおじさんから果物を貰う。


 選挙運動の大人の集団とすれ違う。彼らは私を相手にせずに、素通りする。


「最後のお願いです。この町の未来は、みなさんの一票にかかっています」


 今日の昼から、投票が始まる。


 大人達は必死に未来を語る。一昨日も昨日も今日も、そして明日にならない明日も。


 明日になっても、投票日が繰り返される。開票されることはない。


 この町の、未来が決まることはない。


 図書館に到着し、いつものように本を積み上げ、順番にページをめくる。私がここでずっと調べているのは、どうしてこの町がこういう状況になったのかということだ。


 この町の時間は、止まってしまった。あの日、評議員選挙の投票日の夜を境にして、次の朝が来ることはなく、同じ一日をずっと繰り返している。などと言うと、空想科学小説のような事態を想像するかもしれないが、どうやら違うみたいなのだ。


 テレビが告げる日付は毎日変わっているし、番組も変化している。電波に乗ってやってくる外の世界は、ちゃんと時間が進んでいる。だから世界の時間がループに陥っているとか、そういうドラマティックなことではない。


 ただ、この町だけが、次の日になるのを止めてしまったのだ。


 図書館に通い、得意でもない物理とか化学なんかの勉強をした結果、私がたどりついたのは「過冷却」という現象だった。過冷却というのは、たとえば水の温度をゆっくりと下げていくと、零度を過ぎても凍らない現象をいう。この状態の水を、過冷却水という。過冷却水に衝撃を与えると、一気に氷へと相転移する。相転移ってのは、液体が固体になったりする現象のことだ。


 私の予想では、多分この町はとっくの昔に塩に侵略されていたんだと思う。ただ、それがあまりにもゆっくりで、なにせ風も吹かない静かな町なので、誰もそのことに気付かずにいたのだ。そこに、あの夜の地震の衝撃で、みんな一気に塩になってしまい、なんのはずみか同じ一日の行動を繰り返すようになってしまった。


 今この町にいるのは、塩の人だ。男性も女性も若者も老人も、お父さんもお母さんも、カフェのマスターも八百屋もおじさんも——もちろん、ジャックも。


 世界では、身体が塩の結晶になって崩れ落ちる病気が発生している。きっとこの町の人の身体も、少しずつ崩れている。だけど風が吹かないものだから、その消耗はとても少なくて、空気に含まれる塩によって補われてしまうのではないだろうか。根拠はないし、下手な実験もできないけれど、私の想像はだいたい当たっているんじゃないかと思う。


 そうなると疑問なのは、どうして私だけがその輪から外れてしまったのか、ということだと思う。私は塩ではない。なにより、私だけは時間が進んでいることを知っている。


 本当、なんでこんなことになってしまったのだろう。


「ほんとっ、なんでこんなことになったんだろう」


 声に出して自分に質問してみたけれど、答えが返るはずもなく。


 私はもう何十日も、こうやって図書館に通い、町の日常が崩れないように、みんなに合わせて同じ生活を繰り返している。


 選挙の開票結果も出なければ、ジャックのプロポーズへの答えも出ない。


 そうなのだ、私はジャックのプロポーズに返事をしていないのだ。


 彼のことは、嫌いではない。むしろ好意は持っている。


 ……違うなあ。こういう表現をするから、私は理屈っぽくて可愛げのない女の子になってしまうのだ。


 多分私は、ジャックのことが好きだ。その半分は尊敬と憧れの気持ちからなる。憧れるのは仕方がない。私は庶民の、それも下町の娘だし、ジャックは裕福な評議員の家庭に育ち、彼自身も父の後継者として評議員に立候補している。私からみたら、高嶺の花だ。……ん? 高嶺の花って、男の人相手でも使っていいんだっけ?


 そんな私達がどうやって知り合ったのかについては、テレビドラマのオファーが来てもひるまない程度にはドラマティックなんだけれど、いまや塩の塊となった町の状況を前にしたらどうだっていいことだ。


 私とジャックは、互いに相手を意識しながらという微妙な距離のまま、何度かの逢瀬を重ね、そして投票日のプロポーズとあいなった。


 そのまま流れに身を委ねるのが楽なのかもしれない。一六歳で結婚するのは珍しいことではないし、玉の輿なのは事実だし。ジャックの家のような名家に嫁入すると、大変だろうとは想像できるけれど、彼は味方になってくれる人だ。


 ゴーか、ストップか。一晩悩んで出した結論は、ゴー。彼のプロポーズを受け入れて妻になろうと思った。


 その答えを、ジャックに伝える日は、今のところ訪れていない。


 そして、そのことに安堵している自分がいる。ずるい感情だとは分かっている。


 町を出たいのか、町に居残りたいのかすら決めかねているのに、そんな人生の重い決断を迫られても困るというのもあるし、評議員夫人という重責はちょっときついなあという気持ちもある。


 逃げているのかもしれない。


 しかし、それを責める人は誰もいない。町中みんな、投票日で止まっているから。


 だから、なあ。


 私はためいきをついた。


 本当に私って、勇気がないんだな。


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