15 彼への気持ちが溢れそうで



 感情の濁流に飲み込まれてしまった。


 息ができない。

 苦しい。


 いつもこうなるとダメだ。時間がたてば落ち着くけれど、今回はなおひどい。視界は暗闇に包まれて。あの人達の顔がかりちらつくけど。それ以外は真っ暗闇で。


 冬君の表情はまるで見えない。

 苦しいよ。何も見えないよ、冬君。

 声に出していた。


「……く、……苦しい。苦しいよ、上川君、かみか……わ君。か……冬君――」


 手をのばす。彼に。彼の姿がまるで見えなくて。あの【言葉】がただただ、私を捉えて離さないから、呼吸は苦しいままで。

 このまま、呼吸が止まってしまう、そう思っった瞬間だった。


「下河さん、しっかりしろ、ゆっくり深呼吸を――下河、下河!」


 冬君の声が微かに、聞こえて。私は朦朧とした意識のなか、冬君を探そうとした。

 どこ? どこなの、冬君? 本能のままに、冬君を探す。

 今度は、はっきりと聞こえた。

 私はその手をしっかりとのばす。


「――雪姫ゆき!」


 私の掌に、暖かいものが触れて。私ごと受け止めてもらったのを感じた。包み込まれるように、寄り添うように。私を抱きしめてくれて。恥ずかしさを感じる余裕は、この時なかった。

 ただ冬君の心配そうな――必死なその顔を見て、私は安心したんだと思う。

 今、この瞬間だけは冬君が私を最優先してくれた。そう思えただけで、私のなかの不安がかき消えて――満たされた。




■■■




 どうやって公園まで来たのか、記憶に無い。

 自分の意識が覚醒した時には、公園のベンチで冬君にもたれかかるようにしていた。その手を、彼が握ってくれたまま。

 彼がどれほど心配してくれていたのか、痛いほど感じた。


「あのさ、下河さん、本当にごめ――」


 冬君が謝るのは違うと思った。私が無理をし過ぎたのだ。弥生先生のことを意識しすぎて。それを思い返すだけで、恥ずかしくて体が熱くなる。だって、自分が知らない間に、冬君と誰かが過ごす。それが悔しいと感じてしまって。

 だから、自棄気味で――それこそ感情の赴くままに言葉を発していた。


「名前」

「え?」


 冬君はきょとんとした顔で聞き返す。しまったと思う。でも、もう止まらないのだ。


「さっき、名前で呼んでもらえて、本当に嬉しかったんです。友達だって上川君が思ってくれるのなら、名前で呼んでくれませんか?」

「……えっと?」


 冬君が明らかに困った顔をした。でも引き返せない。私のなかの欲張りさんが、冬君にもっと近付きたいと言っている。私も――私だって、心のなかだけで『冬君』と呼ぶだけじゃ、もう物足りないのだ。


「名前。友達って、上川君が本当にそう思ってくれているのなら、名前で呼んで欲しい」


 俯く。何て強引なんだろう。嫌われたらどうしよう、と今さらながらに思ってしまった。彼はあくまで弥生先生に言われて来ただけ。それは同情にも近くて。私にソコまでする義理も必要性もまったくなく――。


「――雪姫」


 私は顔をあげた。彼は、微笑んでそう言ってくれた。否定も拒絶もなく。ただ、変わらずに、私を受け止めてくれる。

 また感情が揺れそうになる。でも、それじゃダメだ。弱いままの私じゃなくて、冬君にも安心して欲しい。

 だから私は、今できる精一杯の笑顔を冬君に向けた。


「ありがとう、冬君」


 私は笑えているだろうか? 冬君がより嬉しそうに、微笑んでくれるのをみながら。

 と――ふと思った。


 ワガママついでに、こんなことお願いするのは、厚かましいと思ってしまう。でも、彼が手をのばして、受け止めてくれたから、私は息をすることができた。

 だから私は意を決して、彼に伝えてみた。心臓が暴れ狂って、恥ずかしくて、死んでしまいそうだけれど。


「冬君、もう一つ、お願いをしても良いですか?」

「え? あ、俺にできることなら、そりゃするけど」」

「それなら、手を――」


 顔が熱い。本当なら彼を直視できないくらい。今すぐここから逃げ出してしまいたいくらい、恥ずかしくて。

 でも。ココで逃げてしまったら、私はこれからも何も変わらなくて。何より、自覚している。この短い期間のなかで。イヤというほど感じたこと。

 ――私には、冬君が必要なのだ。


「手を。外に行く時、手を握ってもらって良いですか? その……あの……冬君に手を握ってもらったら、息が苦しくなくなって、その、あの、おかしな子って思うかもしれないけれど、もしお願いができたら――」


 言いながら、自分で混乱をしながら。もう理性は吹き飛んでいる。でも、本当にそうなのだ。今もこうしてゼロに近い距離で、冬君がいてくれるから。冬君の存在を体温で感じているから、落ち着いている気がする。

 と彼は、返答することなく私の手に触れてくれた。


 何の迷いもなく。

 私は冬君を見る。


 彼は微笑んでくれていて。

 苦しいくらい暴れてた心臓も、次第に落ち着いて。呼吸も、自分が驚くくらいに、落ち着いていって。


 冬君の温度が感じられた。

 この広い世界のなかで、二人っきりになってしまったかのように。私の中の血が巡って、体温が戻ってくるようで。


「……冬君、ありがとう」

「どういたしまして」


 何とか絞り出して、私は伝えた。その言葉すら、彼は全部受け止めてくれて。嬉しいって思う。私の中で、冬君という存在が、どんどん大きくなっているのを感じた。





■■■



 私はもう一度、深呼吸をする。本当に、もう大丈夫そうで。改めて、冬君の存在が本当に大きいと感じてしまう。


「……ありがとう、冬君。多分、大丈夫。息も苦しくない。でも、その手だけ。手、触れてもらえるだけで良いから、帰りも手をつないでもらっていいですか?」


 私は冬君にお願いをしてみた。


「え、あ、うん。下河が――」


 私はじっと冬君を見た。名前で呼んで欲しい。そう想いをこめて。


「――雪姫が良ければ、そりゃ。それはもちろん」


 冬君が照れ臭そうに言う。全部、受け止めてくれて。私の言いたいことも理解してくれて。本当に冬君はすごい。純粋にそう思ってしまう。


「あ、そうだ。ちょっと良い?」


 まるで照れ隠しのように、冬君は言った。でも私の手は、その腕に触れさせたままで。まるで冬君にエスコートされているみたいで。


 冬君はポケットから、可愛くラッピングされた小袋を取り出した。

 私は目をパチクリとさせた。私の思考が追いついていかない。彼は私の手に、小袋を持たせる。


「え?」

「いや、たくさん美味しいものご馳走になって、俺、下河――雪姫にもらってばかりだなって思って。海崎にも相談をしたんだけど、最初考えたのは高すぎるって言われて。それで、これにしたんだけど――」

「海崎君が?」


 幼馴染の一人の名前が出て驚く。やっぱり学校に行きたいな、って思った。私の知らないところで、冬君が他の人と仲良くなっている。その知らない時間が怖い。


「でも結局、選んだのは俺で。むしろ安物過ぎて申し訳ないんだけれど。もうこういうものしか選べなくて」


 冬君の言葉を聞いて安心――嬉しくて、嬉しくて、はしゃぎ回りたい自分がいて。冬君が、自分のために色々考えてくれて。そのうえで最終的に、頼らずに選んでくれた。その現実が本当に嬉しくて。


「冬君、開けてもらって良いですか?」


 私は冬君からこの手を離すつもりはなかった。呼吸のこともある。でもそれ以上に、一時も冬君から離れたくなくて。

 彼は苦笑を浮かべて、開封してくれた。出てきたのは、白猫のストラップで。しかも私が好きで愛用していたLINKのスタンプキャラだ。


「これって……」

「いや、最近、よく連絡しているから。これならお守りにもなるかな、って。少しでも息が苦しくならなように、ルルに祈ってもらった――はず」


 私は今すぐ冬君を抱きしめたい――その衝動を何とか堪えた。嬉しくて、嬉しくて。ちょっと間違えば、きっと感情が抑えられなくて、泣いてしまいそうで。でも、そんなことをして、冬君を心配させたくなかった。だから私はぐっと感情を抑えることに必死で。


 冬君が私のスマートフォンケースにストラップを付けてくれた。

 私は、ストラップに指で触れる。

 冬君をより感じられて、それが本当に嬉しい。

(大事にするよ。大切にします――)

 そう心のなかで呟いて。


「でも、だぞ? ちょっと今日は無理をし過ぎだって。ちょっとずつ、少しずつやっていこう? 今までのことを考えたら、そりゃ負担が強かったと思うぞ」

「うん」


 私はコックリと素直に頷いた。冬君を心配させてしまった。それは本当に申し訳ない。心の底からそう思う。でもね、冬君?


「でも、大丈夫。冬君が、傍にいてくれるんでしょう?」

「できる範囲で、になるけどね」

「うん、それで良いよ。私ね、冬君がいてくれたら、呼吸ができる気がするんだ」


 ストレートにそう言えて。これは本当。これは私の本心。冬君がいてくれるから、私は呼吸ができる気がするのだ。

 と、その言葉に返事をする代わりに、冬君は私の手を握り直して。より彼の存在を感じて。


 ごめんね、冬君。でも、ありがとう。


 何回でも貴方に言いたい。

 私ね、貴方がいるから呼吸ができる――。



 


■■■




 私はぼーっとベッドのうえで、ストラップを見やる。帰ってから、ずっとこうしていた。


 冬君の存在をより感じて、幸せで。彼は今日アルバイトだと聞いていたので、LINKのメッセージを送るのは控えていたけれど。本当は『ありがとう』をたくさん、たくさん伝えたくて。


 どんどん、私の中での冬君の存在が大きくなっていって。

 それ以上に、どんどん私がワガママになっているのを自覚する。。

 と、スマートフォンがLINKのメッセージの着信を伝えた。


「え?」


 私は信じられなくて、目をパチクリさせる。それは冬君からで――。




____________


fuyu:これからバイトに行ってきます。今日は無理をさせ過ぎたと思う。本当にごめんね。ゆっくり休んで。


fuyu:でも雪姫はすごいと思うよ。本当に前向きだって思うよ。だけど、無理にならないようにね。


____________





 私はスマートフォンを思わず、ぎゅっと抱きしめた。前向きでいられるのは、前を向きたいと思えるのは――貴方のおかげだから。

 私は、すぐに返信する。フリックしながら、早まる鼓動に誤字しないように必死で。


 自分のドキドキがバレないように。この気持ちがいったい何なのか、よく分から――ウソ。それはウソだ。本当は自分でも、この感情を理解している。

 でも今は、まだ友達で良いから。

 欲張りでワガママな【私】を抑えるためにも。





____________


yuki:冬君、今日は本当にありがとうございました。私は大丈夫。でもあまり、冬君を心配させないように、ほどほどにしていきたいと思っています。


yuki:私が前向きと思ってもらえるのなら、それは冬君のおかげです。アルバイト頑張ってね? 冬君こそ無理しすぎないように。また、明日。待ってます。


____________





 送信する。OKという犬のスタンプが。私も、白猫のスタンプで「ファイト!」と送る。既読がついて、そこから返信はなかった。

 冬君はアルバイトに行く準備がある。だからずっと私に構えないのも、よく分かっているつもりだ。


 でも胸の奥底に、温かい感情が残って。それをもう一度、確認したくて、私はスマートフォンを――ストラップを抱きしめた。

 と、タタッと小気味良い足音をたてて、階段を昇ってくる足音。一応のドアのノック。私は苦笑しながら「どうぞ」と言う。


 同時に、ドアを開けられて。

 無邪気な笑顔でを見せたのは、弟の空だった。天真爛漫と言えば聞こえが良いが、来年高校生になるとは思えない幼さだ。


「お? 姉ちゃん、そのストラップ可愛いじゃん。彼氏さんからもらったの?」


 いきなりとんでもない爆弾を放ってくるから油断ならない。ついその言葉を意識してしまい、頬がカッと熱くなるのを自分でも感じた。


「こら、空。お姉ちゃんをからかわないの。冬君はそんなんじゃないから」


 そう言う私の言葉を聞いて、空はますますニヤついて見せる。


「冬君、ですかぁ。昨日は姉ちゃん、上川君って言ってなかったけ?」

「よ、呼び方がなんだって良いじゃない。と、友達なんだから!」

「今は? ってつく?」

「つかない! 友達!」


 空はそんな私の反応を見て、楽しげに笑う。私はブスッと頬を膨らませて抗議するしかなかった。


「ま、それが本題じゃなくてさ。今日も晩ごはん、食べられそう? 母ちゃんがLINKの家族グループで聞いてたよ?」

「え、ウソ?」


 本当に通知が来ていて、慌てて返信する。


「その様子なら、食べられそうだね。最近調子良さそうだもんな」

 ニカッと空は笑んで――言葉を付け足す。


「冬君のおかげで、ね」


 さらに顔が熱くなるのを自覚した。多分、私は今、誰が見ても本当に顔が朱色に染まっているんだと思う。


「空、お姉ちゃんをからかうのも大概に――」

「でも幸せって、顔に書いてるよ?」


 ニマニマ笑みながら、空は部屋を出ていく。


「もぅ、空ったら!」


 バフッと枕を投げつけるが、すでにドアは閉められていて。まさか弟にからかわれる日が来るなんて思ってもみなかった。

 まだ熱い、と自分の頬を触れながら思う。

 自分の膝の上のスマートフォンを眺めながら。


 ――幸せって、顔に書いてあるよ?


 弟の言う通りだから、否定できない。

 冬君が傍にいてくれる日常。これが本当に幸せで、かけがえがなくて。


 もっと冬君を知りたくて。もっと冬君に近づきたくて。

 どんどん、本当にワガママになっている。

 この抑えきれない気持ちを、なんとか飲み込むために。

 私はスマートフォンをごと―冬君がくれたストラップを、ぎゅっと抱きしめた。


 気持ちが溢れてしまいそうで。とても抑えられなくて――。

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