13 君がのばした手
ひゅーひゅー。ひゅーひゅー。
下河の喉元から喘鳴が浅く、響く。
下河をしっかり見ていれば、もっと早く気付けたのに、と思った。
刹那――下河が口をパクパクさせた。まるで、水中の中で溺れて、必死にもがくように。その手を、喉や胸元に手を置いては、離して、必死に酸素を求めていて。
今さらだが、弥生先生の言葉が、脳内で再生された。
――下河さん、人と関わる時ストレスで過呼吸になったことあったの。そこだけ気をつけてあげてね。
妙にスロー再生で。いつも呑気な弥生先生の声が、より間延びして聞こえて。
愚かなことに、ここにきて俺はようやく気付いたのだ。
下河が発作を起こしたことに――。
■■■
まるで、世界の音が一気にカットアウトされてしまったかのように。何も聞こえなくなった。
ただ下河の息遣い。浅い喘鳴。ひゅーひゅーとその音だけが、俺の鼓膜にやけにリアルに響いて。
とくん、とくん。
俺の心臓が、強く胸打つ。何でソコで突っ立ているんだよ。動け、動け――。
下河が俺に向かって、何かを呟く。それは最初、小さくてよく聞き取れなくて。
「……く、……苦しい。苦しいよ、上川君、かみか……わ君。か……冬君――」
俺のなかの何かが弾けた。
「下河さん、しっかりしろ、ゆっくり深呼吸を――下河、下河!」
俺は彼女の両手を握る。一瞬、氷かと思うくらい、その手が血のめぐりが悪く、冷たかった。
「――雪姫!」
下河が俺を見た。その手が、求めるように俺の手を握る。気のせいか、少し体温が戻ってきたような感覚で。
無我夢中で、雪姫の名前を呼んでいた。
彼女を引き寄せ、抱きしめて。
誰も、通り過ぎなかったのは幸いなのだろうか。通ったのかもしれない。そんなこともどうでも良かいくらいに、下河のことしか考えられない自分がいて。
喘鳴も少しずつ、落ち着いてきたのに安堵を憶えながら。
恥も外聞もなく。ただ下河が元気に笑ってくれたら――。
ただただ、俺はそれだけを願った。
■■■
公園のベンチで、二人並んで座る。
――もう少し、休んでから。それから帰って良いかな?
下河にそう言われて、俺は頷くしかできなかった。本心は、早く下河を連れて帰りたかった。自分が迂闊だったと、本当にそう感じる。たまたま調子が良かっただけなのだ。俺が彼女の背中を、押していたと勘違いしたばかりに、下河み苦しませてしまった。心底、そう思う。
「あのさ、下河さん、本当にごめ――」
「名前」
間髪入れず、下河が俺の言葉を遮った。
「え?」
「さっき、名前で呼んでもらえて、本当に嬉しかったんです。友達だって上川君が思ってくれるのなら、名前で呼んでくれませんか?」
「……えっと?」
「名前。友達って、上川君が本当にそう思ってくれるなら、名前で呼んで欲しい」
下河は――雪姫は、自分の意見を曲げようとしない。この短い期間のなか、自分なりに悟っていたが、これほどまでとは。俺は髪をかきあげながら観念してため息をつく。
もとより、雪姫にもっと近付きたい、もっと知りたいと思っていたのは俺なのだ。
「――雪姫」
言葉にすると本当に気恥ずかしいが、雪姫はにっこり微笑んで頷いた。
「ありがとう、冬君」
そう雪姫は本当に嬉しそうに言う。さっき名前を呼ばれた時、そう言われていたっけ。今までそんな風に呼ばれたことはなかったので、妙に気恥ずかしい。
「冬君、もう一つ、お願いをしてもいいですか?」
「え? あ、俺にできることなら、そりゃするけど」」
「それなら、手を――」
ぎゅうと、雪姫が俺の手に振れる。俯いて、耳まで真っ赤にしながら。それでも意を決したかのように、顔をあげて。俺の目を覗きこみながら。しっかりと自分の意志を伝えようとする。その想いは伝わってきた。
「手を。外に行く時、手を握ってもらって良いですか? その……あの……冬君に手を握ってもらったら、息が苦しくなくなって、その、あの、おかしな子って思うかもしれないけれど、もしお願いができたら――」
俺は雪姫の手に、そっと触れた。本当に触れただけ。重ねただけ。心臓がこれでもかというくらい暴れだして。変に意識してしまう。これは雪姫の発作を少しでも抑えるためであって。そう言いわけがましく、心の中で反芻しながら。
自分の顔が熱い。それは自覚している。
雪姫が深呼吸したのを感じた。密接するわけもなく、離れすぎるわけもなく。雪姫の手に温もりが戻るのを感じながら。
「……冬君、ありがとう」
「どういたしまして」
何て言葉にすべきか悩むけど。結局、出た言葉は、そんな気の利かない一言でしかなかったけれど。
そのまま言葉は、なくて。
ただ手と手で伝わる温度。それが妙に心地良かった。
■■■
「……ありがとう、冬君。多分、大丈夫。息も苦しくない。でも、その手だけ。手、触れてもらえるだけで良いから、帰りも手をつないでもらっていいですか?」
「え、あ、うん。下河が――」
じっと雪姫が不満そうに俺を見た。【名前】のことを、無言で指摘していると気付いて、慌てて言い直す。
「――雪姫が良ければ、そりゃ。それはもちろん」
手をつなぐのもそうなんだが、名前で呼ぶことがこんなに照れ臭いと思わなかった。
「あ、そうだ。ちょっと良い?」
もう恥ずかしいついでだ。ここで渡してしまおう。
雪姫の手を腕に触れさせたまま、俺ポケットから小さい紙袋を取り出した。ポケットのなか、ちょっとシワクチャになっているのが申し訳ないと思う。それを雪姫の左手に差し出した。
「え?」
「いや、たくさん美味しいものご馳走になって、俺、下河――雪姫にもらってばかりだなって思って。海崎にも相談をしたんだけど、最初考えたのは高すぎるって言われて。それで、これにしたんだけど――」
「海崎君が?」
「いや、結局、選んだのは俺で。むしろ安物過ぎて申し訳ないんだけれど。もうこういうものしか選べなくて」
「冬君、開けてもらって良いですか?」
雪姫はあくまで、その手を俺から離すつもりはないようだった。彼女の言うままに、開けると――スマートフォンのケースにつけられるストラップがお目見えした。
雪姫が愛用している白猫キャラスタンプだ。自分でもよく見つけたなと感心した。
「これって……」
「いや、最近、よく連絡しているから。これならお守りにもなるかな、って。少しでも息が苦しくならなように、ルルに祈ってもらった――はず」
ストラップを彼女のスマートフォンにつけてあげる。
俺からは雪姫の表情がよく見えなかったが、大事そうにストラップを。スマートフォンをその指で撫でる。
「でも、だぞ? ちょっと今日は無理をし過ぎだって。リハビリならちょっとずつ、少しずつやっていこう? 今までのことを考えたら、そりゃ今日は負担が強かったと思うぞ」
「うん」
雪姫は神妙にコックリと頷いた。
「でも、大丈夫。冬君が、傍にいてくれるんでしょう?」
「できる範囲で、になるけどね」
「うん、それで良いよ。私ね、冬君がいてくれたら、呼吸ができる気がするんだ」
俺は何て返して良いか分からず、言葉が詰まってしまった。
その返答代わりに雪姫の手に触れて、その手を握る。彼女がしっかり握り返してきて。暖かい温度をその手と手で感じながら。
彼女の穏やかな呼吸を聞きながら。
このまま息が止まってしまうのでは、と正直な話、俺は怖かった。だから脱力をおぼえる
本当に良かった。――心の底からそう思って。
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