3 コゲコゲオムライスの彼には、息が苦しくない
いつからこんな風になったんだろう。
人と会うだけで、動悸が早くなって、息が苦しくなって――。
今まで色々な人が、来てくれた。一番来てくれたのが、今年から担任になった夏目弥生先生だと思う。でもインターフォン越しに、それぞれの顔を見た瞬間に、心臓が鐘を打ち鳴らすように暴れだして。動悸が早まって。そして息が苦しくなる。ひどい時には過呼吸状態になることがあった。
学校には行きたいと思う。でも、こんな状態じゃとてもムリ、そう思ってしまう。最悪、退学も考えないといけないか、そんなことを最近は思っていた。
それなのに。
インターフォン越し。初めて会う人だった。緊張している彼の声を聞いて、少しだけ――少しだけ話してみても良いかも、と思った。
今のままじゃダメだって思っていたことも大きい。
第一印象が優しそうな顔の彼を少し信頼してみようかと思った。過度な期待はしない。大丈夫、傷つけられることなら、もうとっくに慣れている。息が苦しくなれば離れたら良い。もう対処方法なら分かっている。
うん、無理はしない。私――
■■■
忘れていた。最近、食欲がなくて何も食べていなかったんだっけ。こんなにフラフラして世界がグルングルン回るなんて思わなかった。
「下河さん?」
彼の声が聞こえるけれど。ダメ、立っているのがやっと。何か言葉に、言葉にしなくちゃ。
私がかろうじて出た言葉はごめんなさい、だった。
「だ、大丈夫。ごめんなさい、私なんかのために、本当にごめんなさ――」
堰を切るように、ごめんなさいが溢れていく。
と、膝がカクンと折れるのを感じた。
貧血だ。栄養が足りなくて、緊張で。コンクリートだから痛いよねって、妙に冷静に見ていた。スローモーションに視界が動いていく。
――上川君が自分のバックも書類も放り投げて、私を受け止めてくれた。
「え?」
「大丈夫?」
「あ、あ――」
口をパクパクさせる。何か言わなくちゃ。何か、こんな時何を言えば、何を――。
「ごめんなさい、ごめんなさい、大丈夫です、ごめん、ごめん、ごめんなさ――」
溢れた言葉は、謝罪の一心で。まただ。また迷惑をかけてしまった。きっと彼も私のことを気持ち悪いって思うんだろう。早く、早く家に帰らなくちゃ。
(え?)
予想にもしない行動に、私は固まった。
彼が私を抱え込むように、抱き締めてくれたのだ。
理性が麻痺している。
自分でもそう思う。
子どもにするように、彼は私をなだめてくれている。それは良く分かる。
でも、落ち着いてしまった。
不潔感がない、淡いミルクのような匂い。
男の人もこんな香りがするんだって、麻痺した思考でとんでもないことを思っていた。
と、私のおなかがよりによって「くー」とペコペコだよ、ってシグナルを送ってきた。
ペタンと床に座り込む。
抱き締められたこと、上川君の香り、よりによって鳴ったオナカ。全部まとめてパニックになった。自分の顔が赤い。どうしよう、はずかしい。
「しょ、食欲がなくて最近、食べてなかったから。で、でも大丈夫です。何か食べます。それぐらいの気力ありますから!」
気力を振り絞って、私は一気に捲し立てた。多分、本日最大のエネルギーを使ったと思う。何とか立ち上がって、ドアを閉めようとする。
でも余裕の上川君は私の耳元で囁いたのだ。
「あのさ」
こんな風に優しく声をかけてくれた人、お父さんやお母さん以外で、私は知らなくて。ただ息を呑むしかできなかった。
「イヤじゃなければ、だけれど。何か料理しようか?」
私は小さく頷くことしかできなかった。
■■■
結論から言うと、多分、料理の腕は私の方が上だと思う。あんなに自信たっぷりだった上川君が、しょんぼりしてしまっている。
でも私は嬉しかった。嬉しくて、笑みが零れてしまう。
上川君がコゲコゲのオムライスばかり見てくれて助かった。
今まで、誰かにもらうものと言えば誹謗中傷だった。今でも疑っているし、男子を家に上げるなんて何て不用心と思ってしまう。
でも落ち込んでいる彼を見て、少し信用しても良いかも、と思ってしまう。
「あ、あのさ。やっぱり何かコンビニで買ってくるから――」
狼狽えた彼の言葉に、自然と言葉が出ていた。
「どうして、美味しそうだよ? 私の分だけじゃなくて、あなたの分も作ってくれませんか?」
「へ? 俺の?」
コクリコクリと私は頷く。
「できたら、一緒に食べたいなぁ、って。あ、迷惑なら良いんですけど」
スラスラと言えた自分に驚く。
かくして第二ラウンドに挑戦した上川君だったが――ものの見事に、同様のコゲコゲオムライスが完成してしまった。落ち込んでいる彼を慰めてあげたいと思って、オムライスに自分の名前をケチャップで書く。
上川君の名前も書いてあげよう、そう思った。
そこで手が止まる。彼の名前、しっかり憶えていない。ちゃんと名乗ってくれたはずなのに。
「すいません。クラスメートなのに、私まだしっかりと憶えていなくて……」
本当に申し訳ないと思う。
「いやいや、俺コッチ出身じゃなくし。知らなくて当然だって」
「そうなんです?」
驚く。それじゃ私のことを本当に何も知らずに関わってくれているのか。嬉しいと思うし、過去の私を知ったら幻滅してしまうのだろうか。
「その顔、可愛いな」
そう上川君が呟くので、思わず頬が熱くなるのを私は感じた。
「可愛いくないです、私」
そう返す。聞かれると思っていなかったのか上川君はあたふたしている。うん、上川君の方が可愛いよ。
「上川。俺、上川冬希です」
「ふゆき君……」
オムライスに【fuyu♡】まで描いて思った。
やりすぎだ。
初対面の男子に何てことをしているんだろう。
私は話題を変えたくて、とりあえず椅子に座りこむ。
「おい、大丈夫か?」
「えへへ、ちょっと無理しすぎたかな?」
心配してくれるんだ。それはそれで嬉しいけど。
「たいしたことが無いのならいいんだけどさ」
彼は安堵した表情を浮かべた。
「一緒に食べてくれる人がいるってだけで、何だか嬉しくて。それが誰かに作ってもらったものなら、なおさらね」
「ごめん、偉そうに言っておいて、こんなものしか作れなくて」
「食べてみないと分からないよ?」
「食べなくても分かるだろ、この見た目で」
「じゃ、食べて感想言うね」
と私はスプーンを手に取る。
――いただきます。私の声を追いかけるように、上川君の声が重なって。
意外に美味しい。あ、上川君は表情を歪めている。2回目の方がコゲコゲだったもんね。
「うん、美味しい」
私は改めて彼に伝える。
「腹壊すなよ」
「火、しっかり通ってるよ」
「これだけ焦げてりゃな」
彼の言い方が可笑しくて、それだけじゃなくて安心できて。私は久しぶりに笑った気がする。
また上川君が来てくれたら良いのに――。
そんなことを自然に思っていて、我に返って気恥ずかしくなった。
――ご馳走様でした。その言葉は自然に重なって。
私は目を丸くした。
食いしん坊のお父さんは、いつも先に食べてしまう。でも上川君は、私に合わせて食べてくれた。それがすごく嬉しい。
照れや恥ずかしさで、その後いくつか言葉を交わしたはずなのに、しっかりと憶えていなくて。
上川君は、シンクを手際良く来た時より綺麗にしてくれて。
でも何より嬉しかったのは――
「またね」
学校で会おうねとか、元気出せよとかじゃなくて。無理に引っ張り出すわけでもなくて。
もし次も上川君が来てくれるなら、今度はパジャマじゃなくて。こんなボサボサの髪じゃなくて。
舞い上がって、そんなことばかり思っていたから。この時の私は、まるで気付いていなかったんだ。
■■■
上川君と話をしていて、まったく息が苦しくなかったことに。
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タイトル、「君」表記は上川君視点。「彼」表記は下河さん視点です。
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