第4話 建前ではわからないこと
バキっという鈍い音に、エルトゥールは「ひっ」と息をのんで肩をすくめた。
殴り飛ばされた男が、路上に倒れこむ。さらにその横には、がしゃん、と吹っ飛ばされた勢いで立て看板に飛び込んだ男が一人。
ただいま目の前では、昼日中の往来にて、荒くれ者風の男たちが喧嘩の真っ最中。
先導していた黒髪のアルが長身の背にそれとなくかばってくれているが、いつ巻き込まれるとも知れぬ距離感。
(治安良いって言ってたのに……!)
飛び交う怒声。
身を縮こまらせ、足を震わせて立ち止まってしまったエルトゥールを肩越しに振り返り、アルが口の端を吊り上げて笑った。
「よくある」
「よくあるって……。この街は、ひとりで夜でも歩けるって、いま聞いてきたばかりなんですが!?」
にこっとアルは笑みを深めた。
「建前って知ってる?」
「建前とは」
聞き返した瞬間、アルが腕を伸ばしてくる。肩を掴まれて、ぐいっと抱き寄せられた。
咄嗟のことに固まったエルトゥールの脇腹すれすれを、ひゅん、とどこからか飛んできた重そうな壺がかすめて、背後の石畳に落ちた。
盛大な破砕音が続く。
呼吸も忘れたエルトゥールを胸に抱き込みつつ、ふう、とアルは軽く吐息した。
「昼間は女性も子どもも出歩いている。その意味で治安は悪くはない。ただやっぱり、港町特有の空気なんだろうな。喧嘩は日常茶飯事。巻き込まれないように気を付けること。その限りには安全」
「それは、『物は言いよう』では」
なんとか言い返したエルトゥールを解放し、肩を並べて歩き出しながらアルは実に気さくに答える。
「だから『建前』なんだ。一応、王宮も近いし、国内外の王侯貴族の観光地でもある。治安は良いという触れ込みにしておかないと」
「夜出歩くのは……」
「気を付けろよ? ぼーっとしていると、普通に危ない」
言い切られて、エルトゥールはとほほ、と横を向いてこっそり溜息をついた。
「私、そんなにぼーっとしているように見えますか」
「まあね。大切に育てられた世間知らずの坊ちゃん、って感じ。どうしてまた働くことにしたの? 社会勉強?」
坊ちゃん。
旅の間通してきた男装の状態が初対面だったのと、おそらくブラッドリー氏から「新入りの男子」と伝わっていたせいだろう。アルは、エルトゥールを男性と信じ込んでいるようだ。
(これは……、「男性として働く」には幸先が良い、のかな?)
「勉強と実益、両方です。平民の生活、いえ、世間を知れという意味と、自分にかかるお金は自分で稼げという意味で、姉から斡旋されたんですよ。働くって、実はまだ、全然想像がつかないんですけど」
あはは、と笑うと、アルもははははは、と笑い声を上げた。明るく、裏の無さそうな声と表情。思わず目を奪われていると、笑いを収めたアルが片目を瞑って言ってきた。
「エルは見た目が美少年
アルが足を止めた。エルトゥールは「ん?」と顔を上げる。
待ち構えていたようにアルの手がエルトゥールの
星を浮かべたように輝きを放つ黒瞳に覗き込まれ、心臓が跳ねる。
(アル……!?)
エルトゥールの焦りをさておき、アルは実直そうな口調で言った。
「肌も綺麗だな。娼館からのスカウトもあるかもしれない。何か困ることがあったら隠さないで言えよ。主に金銭面。シフト増やしてやるから、きっちりうちで稼げばいい」
「うち……」
「ここ。着いたよ」
にこりと笑ったアルが、片手を差し伸べて目の前の建物を示した。
堅牢そうな石造りの二階建て。表面は潮風に削られて風化しており、少なくはない歳月そこにあることを示している。
店の周りには鉢植えの植物が所狭しと置かれ、色鮮やかな花や緑が目をひく。道に面したテラス席も豊富だった。開け放たれた店内からは、食器の触れ合う音や人々の笑い声、活気のある空気が溢れ出してきている。
「ようこそ、カフェ・シェラザードへ。スタッフ一同、新入りのエルくんを歓迎します」
差し伸べていた手を自らの胸の前に持って来て、アルは人好きのする、柔らかな笑みを浮かべて言った。
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