E&S
レオニード貴海
第1話
現実とバーチャルの区別がついていなかったのは俺の方だ。
インターネットは世界を繋いだか、あるいは分断したのか。世界は狭くなったか、いや、広くなったのか。
俺にはもう何もわからなくなっていた。奥行き二センチメートルのディスプレイの向こう側には、爆死した息子の顔写真が張り付いている。
机の上に置いてあるスマートフォンが震え出す。見ると元妻からのLINE通話だった。俺はしばらく振動する電子機器をじっと見下ろしていたが、いつまで経っても鳴り止まないのでスリープボタンを押してその声を奪った。
黒い革張りの背もたれに体を預け、天井を見上げる。時が止まったようだ。いや、もうずっと以前から止まったままなのかも知れない。
気づくとスマートフォンの画面をタップしている。音無くロック画面が浮かび上がる。味気ないOSのデフォルト背景画像。元妻のロック画面には家族の写真がセットされていた。家族。価値が可視化されるのはいつも、失った後だ。
指を上にスワイプしてロックを外す。すべてはもう手遅れなのに、指は勝手に画面の上をするする滑る。親指自体が独自の意思を獲得したかのように、昔の写真を縦にスクロールしていく。
人間がスマートフォンに依存してしまう理由は原始の時代から脈々と受け継がれてきた動物としての生存本能に隠されているのだという。俺たちの祖先はどれだけ過酷な環境・状況に追い詰められても、常に何か新しいことに挑戦することでどうにか生き延びてきた。挑戦を恐れ、同じ場所から抜け出そうとせずに現状に甘んじた弱者は子孫を絶やした。強い者だけが生き残る。環境が進化のあり方を規定してきた。未知の情報に触れようと可能性の扉に手をかけるだけで俺たちの脳内では報酬系が活性化し、ドーパミンが放出されて快感が得られる。そうやって危険を顧みず、先の可能性を盲信して前に進み続けてきたものだけが未来を勝ち取ってきたのだ。
スマートフォンはあらゆる情報へとつながる窓だ。窓に指を触れるだけで俺たちの気分は高揚し、自己評価は高まる。アルコールやタバコ、覚醒剤などの物質依存に劣らず、俺たちはスマートフォンを用いたあらゆる行為に依存する。個の精神が脆弱であるためではなく、種としての動物的生存本能がそうさせているのだ。
最近になってインテリの友人からその話を聞かされたとき、愕然とした。スマートフォンに対する依存性の正体ではなく、俺たちは永遠に圧倒的な未知から逃れられないだろうという観念からだ。俺が奪い、踏みつけてきたものたちの声がマイナス340m/sの速度で鼓膜を震わせた。
「お前は病気だよ」
大学受験期真っ只中、居間で寝転びスマホを弄んでいた息子に向かって投げつけた言葉。本当は顔の見えない友人たちと一体何をしているのかが気になり不安になっていただけなのかもしれない。俺は落ち着かない感情を悟られるのが嫌で、攻撃性の殻に自らを閉じ込めていた。いつまで経っても勉強を始めない息子が何を考えているのかがわからなかった。行きたい大学があるというのに、実際の行動は常に矛盾していた。
「父さんはマトモなのかよ」
「なんだと」
毒蛇が毒を持つのは臆病だからだ。本当はとても弱くて毒がなければなにもできない。俺も息子も同じ穴の狢だ。だが俺には力があった。親であるという、父であるという
「誰のためだと思ってるんだ」
本当は誰のためだったんだ?
「ここで努力できないようなやつは一生クズだぞ、落ちこぼれに出してやる金はねえんだ」
高校を卒業すると息子は家を出、学友のひとりが立ち上げたITベンチャーで働き始めた。俺の使っていた社用携帯がガラケーからスマホに切り替わる前のタイミングで、何度話を聞かされても息子たちが何をしようとしているのか俺にはさっぱりわからなかった。広告収入? テレビでも始める気か。ネットリテラシーという言葉がちらほらと囁かれるようになってきた頃だった、見ることも触ることもできない電子の網目の外側から、透明な宇宙の地図を眺めるみたいに、俺はただぼんやりと立ち尽くしていた。お前はどこへ行ってしまうんだ。いや、もういい。勝手にしろ。
当初は軌道に乗っていた息子たちの事業も、七年目を迎えたときに暗礁に乗り上げた。海千山千の同業者たちと絶え間ない激戦を繰り返すうち、チームの精神は疲弊し、社内での不毛な言い争いが増え、赤い海の船上でコンパスは失われた。資金がいよいよ底をついたとき、彼らを繋いでいた最後の糸がぷつりと切れ、会社は空中分解した。やはり駄目だったか。俺はなかば失望しつつ、心のどこかではエールを送っていた。頑張ったじゃないか。息子たちが何をしているか、何をしようとしていたのかが俺にもわかるようになっていた。その頃はもう、仕事でも毎日スマホの画面をタップしていた。ブックマークのトップには息子たちの会社サイトを保存し、利用するわけでもないのに専用アプリも落としていた。誰に言いふらすでもなかったが、俺は少しく誇らしかった。
「便利になりましたよねえ、スマホがあれば何だってできますもん」
後輩の言葉に優越感を覚えた。
そうさ、俺の息子みたいな若い奴らが世の中を便利にしていくんだ。社会を変えて行くんだ。今回は失敗したが、経験があいつを成長させるだろう。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言うが、子どもたちは愚者でいい。賢者に世界を変えることなんかできるものか。
そう、胸の内ではわかっていてもセリフはいつも心の裏側から出てきた。
疲れ果てた息子に向かって発せられたのは愛情の籠もったねぎらいではなく、気恥ずかしさを内包した嘲笑の言葉だった。
「ほら、俺の言ったとおりだったろ」
冗談だよ、と続けて真意を伝える前に、息子はきっと俺を睨んだ。
「あんたにゃ何もわかんねえよ、だらだら生きてる場末のサラリーマンなんかにはな」
何かがズレていた。亀裂ができたのは受験シーズンだったか、それより以前だったか。
隙間は開き続け、いつのまにか修復不能なまでに広がっていた。油断。親子だから、気持ちは伝わっているはずだという甘えた考えがあった。毒が身体に回り始める。望む形ではなく無難と安定を選んで就職した不動産営業、息子には夢もヴィジョンもないくだらない職種に見えていたのだろう。それは俺にも同じだった。それなりに稼げたし、裕福とは言えずともマイホームも持てた。低迷期の息子の会社に、いくらかは資金援助もした。そうやって貼り付けてきたうぬぼれと自尊心が、その言葉で一度に瓦解した。反撃の毒素が充填される。場末のサラリーマン。事実だった。だからこそ許せなかった。
「出ていけ、二度と帰ってくるな」
呼びつけて座らせた夕食の席から、ものの五分で息子は立ち去った。永遠に。あっけない最後の晩餐が、いまでも鮮明に脳裏に蘇ってくる。十年後、アメリカで始まった怪しげな陰謀論の波に連れ去られた息子は、得意の英語で広げた人脈と器用な手先を活かして爆弾を作り、試験工程の最中に誤爆を起こして誰にも看取られること無くこの世を去った。
電源スイッチを押下して画面を消す。目を閉じて腕を組み、瞑想でもするように深く息を吸う。だが頭の中ではビニール紐のようなカオスが脳に巻き付いて幻想を見せ続けている。家族との楽しかった思い出が繰り返しフラッシュバックする。幼かった息子の笑顔。スマートフォンが振動を始める。元妻の名前の下に、赤い拒否マークと緑の応答マークが映し出される。
インターネットは世界を繋いだか、あるいは分断したのか。世界は狭くなったか、いや、広くなったのか。そんなことはどうでもいい。道具のあり方を規定するのは俺たちだ。息子も俺も選択を放棄し、自分を導いてくれるものの力に身を委ねてしまっていた。目を閉じたまま心地のいい音楽が耳に届けられるのをただ受動的に享受し続けてきた。俺たちはわかり合えたはずだ。社会も世界も本能も関係ない。俺たちに、俺に、選び取ることのできる道があったはずなのだ。
息子の人生は三十年しかなかった。
「なんでもっとはやく、気づいてくれなかったんだ」
スマートフォンを手に取る。来世で待っていてくれ、もう会いたくないってんなら、いいけど。
緑の応答マークをタップして、半面がすべてディスプレイになった薄い金属プレートを耳に当てる。誰も俺を許さないだろう。俺も俺を許すことはない。だが顔をうつむけ、悲しみに暮れて生きることはしない。スピーカーからはまだ何の音も聞こえてこない。待っているのだ。俺の言葉を。
「久しぶり」
いいわけは無しだ。語るべき言葉を選べ。
(了)
E&S レオニード貴海 @takamileovil
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