明暗のツガイ

原多岐人

第1話

 目の前に立ちはだかる巨大な鬼。悪鬼という。二本角があるのは面倒だと“相棒”が言っていた。私より屈強な彼は足元から、彼よりも比較的軽い私は上から攻めるのが定番になっている。ひとまず、1本目の角をへし折るべく跳躍した。だが、跳ね上がったはずが地面に叩きつけられる。鬼の腕に弾き飛ばされたと気付いたのは地面の感触を嫌というほど味わってからだった。

「これだから社畜は! 使えねえな」

相棒--マコトの怒声が聞こえてきた。イラッとしたのでもう一度跳躍、糸で角を絡めてへし折る。私の装甲のモチーフが蜘蛛なのは若干納得がいかない。悪役っぽいからだ。マコトは手甲の3本の鉤爪を巨大化させ、悪鬼を貫いた。黒い靄となって消える悪鬼の向こうに豹型の頭部が目に入る。マコトの方がスタイリッシュなモチーフなのは本当に納得がいかない。


 見慣れたコーヒーのシミが目に入る。すっかり弾力性を失くした我が家のラグ。またベッドから落ちて目が覚めた。最近こんな夢からこの目覚め方のパターンが多い。きっと脳が嫌な記憶に整理をつけようとしているみたいだ。ほぼ6時半を指す目覚まし時計をアラーム直前で解除する。

 体を起こすと急激な冷気が襲ってきた。2月初旬の早朝はかなり寒い。ベッドの上に脱ぎ捨てたパーカーを羽織り、寝室を出る。築30年以上のアパートは微妙に隙間風が吹き込んでいる気がする。ソファの側ではマコトがファンヒーターの前で小さくなっていた。

「まだいたんだ」

前に来た時は一晩中エアコンを暖房でつけていたので、きつくキレた。その甲斐あってか、今日は言いつけを守ってくれているようだ。都内在住しがない雑貨販売員の私の収入では暴挙に近い。

「6時には起きるって言ってなかったか?」

恨めしそうな目つきのマコトの腹の虫が盛大に鳴く。

「まさか朝ご飯まで食べていく気?」

「昨日お前の分まで悪鬼倒しただろ」

当然の対価だと言いたいらしい。確かに私は悪鬼が現れたのに、残業を優先した。それを私よりも暇なマコトが倒してくれたらしい。頼んだ覚えはないけれど、後味の悪い結果を回避出来たことには感謝しなければならない。また悪夢のバリエーションが増えそうだ。

 米は昨日の夜かろうじてタイマー予約出来たから、そろそろ炊き上がる。1人であればインスタント味噌汁でいいけれど、この間マコトに出したらものすごく嫌そうな顔をした。幸いにも冷蔵庫に豆腐とエノキがあったので、適当に切ってぶち込む。その隣でヤカンを火にかける。

 いつに間にかマコトは炊飯器の側に移動していた。そこまで広くないキッチンに侵入されると正直邪魔以外の何物でもない。世界を守るヒーローは2人いてもいいけれども、キッチンにヒーローは2人いらない。

 適当に味付けした卵を焼き、油を捨てたツナ缶にマヨネーズを絞り、混ぜる。作り置きしていた無駄に味の薄い切り干し大根を適当な器に移したら完了だ。

「私お弁当の用意するから、先に食べてれば」

近所の100均で購入した茶碗汁碗湯飲みと箸をマコトに押し付ける。我が家の急須と茶葉の位置も心得ている彼は、こちらが言わなくてもそれらを準備する。私が食卓に着く頃には、マコトはほぼ食べ終わっている状態だった。切り干し大根にほとんど箸をつけていないのが嫌味ったらしい。

「今日も遅くなるのか?」

「だったら何?」

まさか今夜も居座るつもりなのか、若干嫌な予感がした。

「人の命と自分の糧とどっちが大事だと思ってるんだ」

私は答えなかった。朝から説教をされる筋合いはないし、私たちが悪鬼の気配を察知して倒しに行ける範囲は限られている。圏外の場所で何が起きても知ることは出来ないし、手の出しようがない。私の脚が6本に増える迅蜘蛛でも守備範囲はせいぜい区内だ。マコトの疾風豹でもそこまで変わらないだろう。

 私達に出来ることなんて、たかが知れている。マコトはそれを気合いと根性的なものでなんとか出来ると考えているようだけれども、身の程を知るべきだと思う。変身出来ても所詮人は人なのだ。悔しかったらそこそこ移動力と機動力のある巨大な何かしらを用意していただきたい。

「お前はいつもそうやって黙り込む。たまには言いたいことちゃんと言えよ」

「言っても意味ないでしょ。何も変わらないんだから」

マコトはそれ以上は何も言わなかった。


 食後にゆっくりと茶を啜っているマコトを尻目に、私は寝室に戻り服を着替える。制服があるわけではないが、それなりに小綺麗な服装であれば問題ない。それから洗面台でメイクをして、髪も整える。この間約30分、マコトは新聞を読んでいた。就職したてだった頃、新聞くらいは読んでおけと上司に言われたが、最近はもっぱら掃除用品としてしか使用していなかった。だいたい朝ゆっくりと新聞を読んで世の流れに思いを馳せるような余裕はない。

「家出る時に鍵は新聞受けに入れておいて」

一応そう言って出勤するが、入っていた試しがない。このまま住みつかれてはたまったものではない。だから私はこの状況でいってきますとは言わない。当然ただいまも言わない。




 今日もメイは、いってきますと言わなかった。挨拶をしない奴はクズと俺に言ってきたくせに。自分に都合のいい解釈で、いとも簡単に事実を捻じ曲げる。だからそこそこの年齢なのに結婚も出来ない、そうに違いない。

直物としての使命よりも自らの生活を優先させる、その身勝手さが俺は許せなかった。銀漆の腕輪は何故あいつを選んだのか。

 俺は未だに納得していない。あいつは正義を為すのには向いていない。悪鬼羅刹はいつどこに現れるかわからない。だから俺は定職に就かない。最低限食うに困らない金が有ればいい。じじいの話だと、俺の父も人々を守るために戦っていた。そして母は、そんな父を支えるために身の回りの世話をしていたという。父から受け継いだ粋錦の鏡と、母が残した銀漆の腕輪。俺もその2人の様に人々を守るために生きるのだと、心に決めていた。

 都会は、というかこの時代そのものが悪意に溢れている。朝刊だけでも詐欺殺人汚職と酷い事件には事欠かない。悪鬼羅刹が増殖する贄としては十分過ぎる。

 新聞を片付け、食器をシンクに持っていく。きちんと片付けないと煩い。怒鳴られる訳ではないから、煩いというのは間違っているかもしれない。だが、煩い。明らかに苛々しているのに口に出さないせいで、気配の騒めきがすごい。それが悪い意味で気になる。釈然としないが、俺はそれが嫌なので一応洗い物を片付ける。ついでに、昼飯分も握り飯にして持ち帰る用意をする。握り飯2つ分にしてもまだ有り余る量があるから、これくらいなら問題ないだろう。

 そろそろ戻らないと、真面目に仕事をしろとどやされる。空っぽの倉庫番をすることにどんな意味があると言うのか。しかし広い空間で好き勝手出来るのは魅力的だ。剣の鍛錬もしたいので、とりあえずこの街での自分の家に戻ることにする。水しか出ないシャワーと暖房のない環境は流石に冬場は辛い。そう考えると、メイは恵まれていると思った。恵まれているのに、その心はちっとも豊かではない。銀漆の腕輪に選ばれたのだから、その心が良い方向に変化するまで、俺はこの鍵を返す気はない。


 メイの家を出ると、もう10時近かった。

通勤ラッシュはひとまず落ち着き、駅前の道も空いていた。都会の人混みは恐ろしい。特に通勤時刻のそれは特に。悪鬼羅刹の糧となる障気を纏った人の群れが駅舎から吐き出される様子は、直物として子供の頃から戦ってきた俺でさえも足が竦む。自ら障気を放つもの、他人の障気に巻き込まれたもの、障気を増長させるもの。それらが渾然一体となって向かってくる様は、昔じじいから聞いた百鬼夜行の話を思い出させる。ここでは昼間から、それも至る所で起こっている。ここに来て、初めて電車や駅を見たがすすんで利用したいとは思えなかった。1時間ほどであれば余裕で歩ける。俺の住処まで30分程度あれば着く。着いたらすぐに剣の稽古に入ればいい。人の少ない、障気が溜まっていそうな場所の見廻りも兼ねて、俺は歩き出した。

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