エスカレーターの停まるとき
藤光
エスカレーターの停まるとき
エスカレーターは上昇していた。
いまでも鮮やかに思い出すことができる。ぼくの乗ったエスカレーターはどこまでも上昇していくのだった。
物心ついたころから、エスカレーターに乗っていた。
母に手をつないでもらいながら、手前から向こうへ次々と流れてゆく動く階段。いつ、どのタイミングで足を下ろせばいいのか。躊躇したのは、いつのことだっただろうか。気がつくとエスカレーターの上で生活していた。
「ぼくたちは、どこへ向かっているの」
小学生のころ、父と母に尋ねたことがある。
父は、「ここよりも良いところに決まっているだろう」と不機嫌な声でいった。
母は、「どこへも行かなくっていいの。だってエスカレーターなんだから」と上機嫌で笑った。
エスカレーターは、ただこれに乗っているだけで、ぼくを別のところへ運んでくれるらしい。ここより上へ、いまよりもっと良い場所へ。
身体を乗り出して外を眺めると、遠くに小さくエスカレーターに乗っていない人たちの姿が見えた。みんなやせっぽちで、苦し気に顔をゆがめ、大粒のあせをかいて歩いていた。前のめりにになって、果てしなく続くながいながい階段を歩かされていた。
「エスカレーターに住めなかった人たちは、じぶんの足で階段を上らなければならないの」
母がぼくの耳元でささやいた。
「階段は長い。目がくらみ、足を踏み外して、落ちてゆく者も多い」
父の声は、情け容赦なかった。
ぼくはエスカレーターについて尋ねることをやめた。これに乗れるというのはきっといいことだ。そして、これについていろいろと問いただすことは悪いことなのだとじぶんに言い聞かせた。そうしている間も、エスカレーターはぼくたちを運び続けていた。
外へ目を向けない限り、エスカレーターに乗っていることは忘れることができた。なにかに夢中になっていればいい。父は休日も会社へ出勤するくらいの仕事人間だったし、母も習い事に、ボランティアにと毎日忙しくしていた。ぼくにとってのそれは、学校へ通うことだった。
同級生たちと一緒になって遊んでいると、多少の違和感は気にせずにすんだ。鬼ごっこやドッジボール、ジャングルジム。子どもの毎日も忙しい。同級生はみな、行儀よくて、優しくて、頭が良かった。世間の学校にはありがちな、いじめというものを見聞きすることもなかった。
幼稚園から小学校、中学校へと、学校もエスカレータ―方式に持ち上がる。気心は知れているし、嫌な意味での競争意識は、ぼくたち同級生の間にはなかった。クラス役員も、係の担当も持ち回り、お互いさまと割り切れることは割り切ることができていた。
どうしても割り切れないこと――みんながわがままを押し通そうとする、二か月に一度の席替えや、学芸会のお芝居で演じる役選びなどは、くじを引いて選んだ。
――あみだにしよう。
だれかがきっとそう言いだすのを、みんな待っていたので、異論はなかった。だれもがわくわくしながら「あみだくじ」にじぶんの名前を書き込んだ。当たるときもあれば、当たらないときもあった。ぼくが窓際に席を引き当てることはなかったし、学芸会では羊飼いBや村の子どもCなんかを演じていた。世の中の不確かなことは、すべてあみだが解決した。
同級生との穏やかな学校生活は、エスカレーターが運動を続けるのと同じで、これまでどおりずっと続いていくものだと、ぼくは疑っていなかった。
カノンと出会うまでは。
中学に上がると同時に学校へ転入してきた彼女は、エスカレーターの外からやってきた。
短かい髪は、明るい色をしていた。
同級生がしらない、いろいろなことをしっていた。
目に強い光がたたえられていた。
はじめて見たときから、ぼくはカノンから目が離せなくなった。
エスカレーターの外をしらないぼくにとって、彼女は外の世界の象徴だった。
そのころ、父がエスカレーターを降りた。
あみだを引いたのだ――とっさにぼくはそう思った。
父がいなくなるその日まで、ぼくにそのことは知らされなかった。ぼくも、うちでなにが起こっているのか知ろうとはしなかった。でも、突然いなくなってしまうなんて、あんまりじゃないか?
「あなたは大丈夫、お母さんとここにいられるのよ」
母は、そういってぼくをなぐさめようとしたが、まったく的はずれだ。
あなたは理不尽と考えないのか。
一緒にいたくないのか。
寂しくないのか。
ぼくはもう子どもではない。
父は、なにも言わず去っていった。
父と母は別れた。
ぼくは、父があの階段をのぼることができるのだろうかと心配した。彼が、苦しそうな顔をするところも、汗をかいているところも見たことはなかった。ゆらり。父は眩暈して、階段を踏み外すだろうか。
父の行ってしまったところから、カノンはやってきた。
彼女を見ていると、父ならエレベーターを降りてもやっていけそうだと少し安心した。ふたりはとても似ていたから。
カノンがやってきてから、学校生活が刺激的になった。
学校でなにかが起こるとき、その中心にはいつも彼女の姿があった。体育祭のリレーメンバーを決めるときも、学園祭の出し物を決めるときも、くじ引きする必要はなかった。カノンが話し合いの中心となって決めてくれたからだ。彼女がやってきてから、あみだの出番はなくなった。ただ、リレーメンバーの補欠に選ばれたときは、カノンの選択も、ぼくにとってはあみだと大差ないなと笑ってしまった。
「レヴンって、おとなしいんだね」
「ごめん」
「きみが謝るって、おかしくない?」
「……ごめん」
「ま、いっか」
それでも、はじめて交わしたカノンとの会話でモノクロだったぼくの生活に色彩が加わった。
ぼくたちは友達になれた。カノンはだれとでもすぐに友達になれるのだ。
母にカノンのことを話すと、「その子は、あなたにふさわしくないわね」とだけ言って、以来、同級生のなかに、彼女はいないかのように振る舞うようになった。いなくなった父のことが脳裏をよぎった。ぼくがカノンと友達になれたことを話し出す機会はなかった。
カノンのことを良く思っていないのは、母だけではなかった。
ぼくたちの担任をしている教師は、自己主張の強い彼女のことを苦々しく思っていたし、ニキも彼女のことはきらっていた。ニキは、クラスで一番の美人で、カノンがやってくるまで一番成績もよかった。先生のいいつけも率先して守っていたので、担任からもかわいがられていた。
ニキが担任と示し合わせて、体育祭のリレーメンバーをあみだで決めようとしていたのをカノンがひっくり返した。
「みんなが納得するよう、話し合おうよ」
カノンの意見は、しごくもっともで、クラスの大半は彼女に賛成したのだが、「恥をかかされた」とニキは腹を立てた。ことあるごとにカノンとニキは対立した。ただ、対立していると考えているのはニキだけで、カノンのほうはそう考えてはいないようだった。
「ニキが怒ってるよ」
「どうして」
「だって、ニキの思いどおりにならないから」
「でも、あみだじゃ強いリレーチームはできない。みんな納得したじゃない」
それはそうだ。カノンのように正しいと考えることを、決然とやり抜く態度はすばらしいと思うし、見ていてまぶしい。でも、不安にもなる。
――みんなじゃないよ。
カノンが来るまでは存在しなかった不満が、クラスの中に渦巻くようになっていた。
彼女は、魅力的ではあったけれど、ぼくたちのなかにあっては異分子だった。
「外の人って、みんなそうなのかな」
「なにそれ」
「じぶんの思うとおりにして、へいきとか」
いかにもふしぎ、という表情でカノンがぼくの顔を長い時間見つめていった。
「ここの人だってそうだよ?」
ぼくは、じぶんの質問が生んだ結果にびっくりしていた。
なんでも、ここと向こう、エスカレーターとそれ以外の世界とに分けて考えがちなことに。
ゆらり。ぼくは眩暈した。
ぼくと、ぼく以外の世界のあいだに境界線を引いたのは、じぶん自身なんだということに。
「レヴンって、おもしろいんだね」
そう笑うカノンに、ぼくも笑ってごまかした。
学校生活は、穏やかに過ぎてゆき、ぼくたちは高校生になった。
そして、大学生になり社会人となって、やがては結婚し、子どもを授かって……と人生はエスカレーターで運ばれるように、上昇をつづけて来るべきゴールにたどり着く。15歳のぼくは、そんなふうにじぶんの人生のことを考えていた。エスカレーターが、ぼくをあるべきときに、あるべき場所へ導いてくれるのだとぼんやり捉えていた。
でも、ぼくたちは大きくなりすぎた。エスカレーターは大きなものをたくさん運べる機械ではない。少し考えればわかることだ。ぼくたちは知っていながら、考えずにいようとしてきた。いずれエスカレーターからは降りなければならない。みんなを乗せてゴールまで運べるほど、エスカレーターは丈夫でなければ寛容でもない。
クラスメイトのだれかをエスカレーターから降ろさなければならない。そうでなければ、このエスカレーターそのものが停まってしまう。高校生になったぼくたちに、突きつけられた大きくて難しい課題だった。だれをエスカレーターから降ろすのか。
あみだが引かれた。
こういう場合、学校が公平にくじ引きで降りる者を選び出すことになっていた。引き当てたのはニキだった。
「いやぜったい」
真っ青になって、ニキはあみだの結果を拒否したが、受け入れられなかった。数名の教師がやってきて、泣き叫ぶニキを机から引き剥がし、教室の外へ連れ出そうとしたとき、静まり返った教室のなかからひとり、カノンが立ち上がった。
「わたしがいく。エスカレーターを降りる」
「あなたは、行かなくていいの」
担任がカノンの前に立ちはだかった。ルールを踏み破られるのはもうたくさんだとうんざりした顔だった。
「こんなことばかげてる。くじ引きで決めるなんて間違っている。ニキが嫌なら、わたしが代わりにいく。降りるのはだれだっていいんでしょう」
「これはルールなのよ」
「じぶんたちで決められないから、くじを引かせたのに、それがルールだなんておかしい」
カノンは、きっと教師たちの顔をにらみつけて言い放った。
「決められないなら、わたしが決めてあげる。エスカレーターはわたしが降りる」
そして担任を突き飛ばし、ニキを教師たちから奪い返すと、さっと教室を出ていった。あっけにとられて彼女を見送る教師とクライメイトたち。ぼくだけが、彼女を追いかけた。
「どうして」
「おかしいじゃない。くじ引きなんて。理不尽でしょ。あのニキが、髪の毛振り乱して、叫んじゃって。怖かったんだろうね。エスカレーターを降りるのが」
「……」
「わたしはあの子と違って、怖くないから」
「でも、カノンはそれでいいの」
なにか言わなくちゃと追いかけてきたのだ。
「じゃあ、レヴンが代わってくれる?」
絶句。
「どうして追いかけてきたの。わたしと代わって、エスカレーターを降りてくれるの?」
じっと見つめられて、なにも言えなかった。カノンが引き受けたのもののほんの一部ですら、肩代わりする覚悟が、ぼくにはない。
「嫌なこと言っちゃった……」
カノンが視線外してうつむいた。
謝らなければならないのは、ぼくの方だ。カノンに。こんなことを言わせてしまって。いくつもある理由から、ぼくはじぶんのことを卑怯者だと思った。
「ごめん」
「謝んないでよ。ほんとうに嫌な子みたいになるじゃない」
「……」
「レヴンが追いかけてきてくれて。うれしかったよ。じつはちょっと不安だったの」
ついてきてほしいというので、エスカレーターの境界まで並んで歩いた。
ぼくとカノンは、ずっと黙ったままだった。
「わたしのこと忘れないでね」
差し出された細い手が震えていた。
ちょっとなものか、とても不安にちがいなかった。ちからいっぱい、彼女の手をにぎった。ほんの少しであっても勇気をもってもらえたら。
「さようならは言わないよ」
「いつか、このエスカレーターがたどりつく先で会おう」
「約束だ」
「約束ね」
カノンが向こう側に足を踏み出した。
とたんに、空間が伸びたかのように、ふたりの距離が開きはじめた。彼女は向こうに、ぼくをこちらに置いたまま。カノンが追いすがるように駆けだしたが、みるみる距離は開いていく。エスカレーターは加速度を増してゆく。
ゆらり。遠ざかってゆく彼女の姿が、ゆれてにじんだ。これは涙だ、眩暈じゃない。
(了)
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