異形

 その両手に備えられているのはハサミ――まるで蠍のように。

 前屈みの身体を覆っているのは黒灰色の外骨格――まるで蠍のように。

 腰のあたりから伸びた尾の先に武骨な針――まるで蠍のように。

 だが、二本の足で立つ姿から連想されるものは……やはり人間なのだ。

 その頭部に蠍を連想させる歪な物体が乗っていたとしても。

 トゥハットがから、即座に逃げ出すことを選択できたのは幸いだったと言うべきだろう。

 だが、それ――蠍人間は縄張りを主張するような野生生物では無かった。

 執拗に。そう執拗にトゥハットを追った。まるで自らの姿を見たものは生かしてはおかないと訴えているかのように。

 それはやはり人間なのではないか? ――しかし人間であったとしても、やはりそれも慰めにはならない。

 そんな事を考えてしまうのは、トゥハットの一種の逃避だったのだろう。

 そんな精神的に逃避しながらも、身体は一心に逃げ続けてはいたのだけれど。

 トゥハットはそれでも尚、行き道で寄った村や集落を避けるだけの理性は保ち続けた。しかし、その理性を以てしてもトゥハットはベイファスに戻ることしか選びようが無かった。

 ベイファスでは他にアテが無かった事もその理由だろう。

 あるいは蠍人間が人間の多さに引き返すのではないかと――そんな希望を抱いてしまった弱さが、そこにあったのかも知れない。

 度重なる蠍人間の襲撃に、いつしか思考能力までも低下したのか。

 それとも、未だ逃げ続けているトゥハットの身体能力、それに加えて運を讃えるべきなのかも知れない。

 だが、その体力も運もついに尽きる時が来たようだ。

 今は真夜中。当然のようにベイファスの門は閉じられている。外からの助けを求める声に応じる義務は門兵にはない。むしろ、その声に応じて門を開ける方がよほど問題がある。

 つまりはトゥハットは追い詰められたということだ。

「ちくしょう……」

 すでにトゥハットは悪態を蠍人間に投げつける余裕も無かった。剣身が半ばで折れたロングソード。間一髪で躱し続けたことで顔と言わず全身に傷を負っている。革鎧はずっと前に千切れ飛んでいた。

 それでもトゥハットが未だ命を永らえているのは、ニーロが指摘したような、間合いの取り方の巧みさ。さらには折れたはずのロングソードを逆手に持っての“いなし”。

 そういった理由を探し続けることは出来る。

 だが、それはもう無益なことなのだろう。夜空は分厚い雲に覆われているため、星明かりさえ届かない。

 蠍人間が振るう鋏を、トゥハットの折れた剣がすんでの所でかちあげる。火花が散り、眩い光が蠍人間の異形を晒すが、トゥハットはそれに反応できるような精神こころの瑞々しさはすでに喪っていた。

 謂わば機械的に、攻撃を凌ぐだけ。

 今まではその果てにベイファスに逃げ込むことが出来れば――という希望があったが、門が開かれる夜明けまでは、とても保ちそうもない。

 保つはずがない。

 その絶望がとどめであった。気力だけで身体を支えていたトゥハットの両の足から同時に力が抜ける。

 そらを仰ぐ。

 その時、雲間から月明かりが漏れた。その光を遮るようにさらに振り上げられる蠍人間の鋏。

 もうトゥハットの腕に力は残っていない。

 自分の命を絶つであろう、その鋏をただ呆然と見上げるだけ。

 傷から立ち上る血の香りが、トゥハットに覚悟を促していた。


 ギッ……


 その時、蠍人間から異音が響く。それは声では無い。ただ蠍人間の外骨格が軋み響いただけ。では外骨格が響いたその理由は――?

 蠍人間もまた仰ぎ見ていたからだ。

 前屈状態であったその身体を伸ばして月を……いや。

 真円にも思える月を背負い、ベイファスの城壁の上にかがいた。

 やはりそれは人間であるのだろう。そうとしか見えない姿形フォルム。その下半身は馬に乗っているように見えるが、上半身は間違いなく人間だ。

 しかし、人間であれば頭部があるべき場所に仄かな灯りに覆われて浮かんでいるのは――髑髏。

 「死」

 その果てまでも連想させる、あまりにも象徴的シンボリックな――異形。


 ――月が哭く。

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