開始調査

「お、お姉さん……だれ?」

 怯えた声が静かな食堂に広がる。昨日の夜と、そして今朝はあれほど騒がしく温かい料理が並べられていた食堂。しかしそこにいるのはたった三人の人影だけで、伽藍堂になってしまった今ではどこか寂しくて冷たく感じてしまう。

 その三人の人影というのは、俺とシルフィーさんと、そしてディメルノの三人だ。ニシキさんは掃除に行ってしまったし、メイヤーに至ってはどこに居るのかも分からない。

 今は俺の目の前にシルフィーさんが立っていて、そして俺の背中に張り付くようにしてディメルノが立っている。完全に板挟み。そんな状態の俺に……ではなく、俺越しにシルフィーさんはディメルノに優しく話しかけていた。

「初めまして、ディメルノちゃん。私はシルフィー、そこのお兄さんのお友達だよ」

「お兄ちゃんの、おともだち……?」

 ディメルノは初めて見るシルフィーが怖いのか、どこか怯えた様子で俺の後ろに隠れたまま。それにシルフィーさんは少しだけ困った苦笑を浮かべながら、しかしそれを止めるようにとは言わずに腰を折り曲げたまま優しい声で続ける。。

「ああ、そうだとも。なあ、ユウト?」

「え? あ、ああ……。そうだ、このシルフィーお姉さんは俺の友達だよ。あとメイヤーのお友達でもある」

 どっちかと言えば後者のほうが正しいが。

 シルフィーさんは昨夜に交わした約束通り、朝食を食べ終わって少ししたくらいには寮にやってきてくれた。一晩ぐっすり寝たからか、ディメルノは元気そうに食事をしていたし大丈夫かと思ったのだが……。

「お、おともだち……」

 ディメルノの警戒心は思っていたよりも強かったのか、それとも俺に無闇に懐いてしまったのか。ひと目見た時から明らかにシルフィーさんのことを怖がってしまっていて、こうして俺が面談に立ち会うことになってしまったのだ。

「今日はこのお姉さんにディメルノのことを色々と話して欲しいんだ。君がここに居るために必要なことだからさ」

「お、お話すればいいの……? お兄さんも、居てくれる?」

「ああ、もちろんだ。ちゃんと最後まで一緒に居るって約束する」

 本当は俺が居ても何も出来ないと思うのだが、ディメルノの不安が少しでも和らぐのであれば是非もない。それにまあ、正直に言えば面接の予定すらない今日は何もやることがないのだし。

「……分かった。お兄さんが居てくれるなら……ディメルノ、頑張る」

「おお、偉いぞ。ちょっと色々な話を聞くことになると思うけど、分かる範囲で答えてくれればいいからな」

「そうだね。君に分かる範囲で、君のことをお姉さんに教えて欲しい」

「わ、私のことを……。うん、分かった。で、でも私のことって……どんなことをお話すれば……」

 恐る恐る、だけど自らディメルノはシルフィーさんに話しかける。まだ俺の後ろから顔を覗かせるような体勢ではあるけれど、少しはシルフィーさんに心を開いてくれたのだろうか。

 幼いが賢い子。大人が自分にどうしてほしいかを敏感に感じ取り、それに合わせて行動できる、所謂『良い子』。こうした子供は、家庭に問題ある子どもに多いはず。そんな前の世界での経験が頭をよぎる。

 別にまだ決まったわけじゃない。単にこの子が聡い子供というだけかもしれない。だけど、だとしても……。

「ありがとう、ディメルノちゃん。私が聞きたいのは、君がどこで生まれたのかとか、どこで生活していたのかとかなんだ。分かる範囲で良い、教えてくれないかな?」

「……えっとね、ディメルノのおうちは確かグラストン地区の五番地ってところなの」

 ディメルノがゆっくりと口を開く。たどたどしい口調。子供記憶では分からないことも多く、言葉に詰まることも少なくない。シルフィーさんが父親のことに触れないように気を使っていることもあって、聞き取りの進みは俺の時とは比べ物にならないくらいにゆっくりだ。

 だけどそれでも、シルフィーさんはディメルノの言葉一つ一つに頷いて、丁寧に相槌を打っていた。

「グラストン地区か……。ありがとう、ディメルノちゃん。思い出してくれて、それから話してくれて嬉しいよ。その辺りだと、綺麗な噴水のある大きな公園がなかったかな?」

「う、うん。お姉さん、知ってるの……?」

「ああ、もちろんだとも。この街ならほとんど隅から隅まで行ったことがあるくらいだ。その近くにも、何度も行ったことがあるよ?」

「ほ、本当……? な、なら公園のお傍にあったお花屋さんは……?」

「知っているとも。通りの角にあるお店だろう? 一年中お店の前に綺麗なお花を飾っていて、見ているだけで癒やされたものだ」

「お姉さん凄い!! あのね、あのお花屋さんの近くにお友達が住んでてね。たまにお家にもしょうたいして貰ってたの」

 ディメルノは自分の知っている場所をシルフィーさんが知っていたのが嬉しかったのか、顔をほころばせながら話し始める。俺も背中からもゆっくりと抜け出して、ちゃんとシルフィーさんと向かい合って。

 きっと、ずっと不安だったんだろう。誰も自分のことを知らないこんな寮に来て、誰も自分の知っていることを知っていなくて

 そう、子供の世界は狭い。それは単純に行動範囲が狭いこともあるし、認知機能が大人になる経験とともに発達していくためでもある。

 子供にとって学校や家庭、せいぜいが最寄りの公園までが世界の全てで、そこから先は未知と恐怖に満ちた世界だ。特に彼女のような経歴を持つ子供は、家庭に縛り付けられやすい。それが暴力と恐怖に満ちた世界であっても、彼女にとってはそれが今までの全てだったのだ。

 だからこそ自分と知識を共有していて、しかも共感してくれるシルフィーさんの言葉で笑顔を見せたのだろう。言ってしまえば、田舎から上京した人が同郷の友人を見つけた時の安心感に近いだろうか。

「前は何回も遊びに行ってたの。お友達と公園でかけっこしたりして、どろんこになっちゃったりもしたけど。でも、すっごく楽しくってね」

「ふふ、ディメルノはやんちゃさんだったんだね。泥んこになって怒られたりはしなかったのかい?」

「ちょ、ちょっとだけ……。で、でもお母さんは優しかったの。怪我したら危ないから止めなさい、って言われただけで。でも……」

 ディメルノの声が沈む。恐らくは、父親のことを思い出して。

 本当なら、触れずにいてあげたい。彼女に傷を曝け出すようなマネをさせたいなんて、思うはずがない。だけど、それでも──。

「……ねえ、ディメルノ。君のお母さんは……今、どうしているのか分かるかい?」

 触れないわけにはいかない。それがケースワーカーという仕事だから。彼女の人生の軌跡を知らなければ、助けることも出来ないから。

 ──助けるために傷付ける。なんて酷い矛盾だろう。誰もが事情を抱えて助けを求めてやってくる場所で、治りきっていない心の傷を暴き立てる。こんな幼い子どもでも、それは変わらない。

「お母さんは……私がもっと小さい頃に、遠くに行っちゃったの。もう会えないくらいに遠くに……って。その、お父さんが……」

「……そうだったんだね。それならそれからは、お父さんと二人で暮らしていたのかい?」

 だけどこれは、ケースワーカーの宿命だ。シルフィーさんが冷たいわけではない。むしろ彼女の場合は出来るだけ優しく、ディメルノが傷つかないように気を使っているのが伝わってくる。

「うん、お父さんと二人で……。でも、その……お父さん、お母さんがいなくなっちゃってから……お、おかしくなっちゃって……」

 ディメルノの声が震え始める。無理もない、俺もメイヤーさんも出来るだけ触れないようにしてきた部分に、今から触れようとしているのだ。

「おかしく……か。それはもしかして、別に人みたいになってしまった……という感じかな?」

「う、うん。お父さん……お母さんにいつも怒られてたのに、お酒ばっかり飲むようになって。それで、その……お酒を飲むとね。お父さん、いつも優しかったのに……ね」

 嗚咽が言葉に混じり、熱い雫が床に小さなシミを作る。分かっていた、こうなるのは。分かっていて、俺はシルフィーさんを呼んだのだ。そしてシルフィーさんも、きっとこうなることは覚悟していたはず。

 誰も望んでいないこと。誰もディメルノの涙なんて望んでいないのに、避けることが出来ない過程。それならば、その過程を出来るだけ縮めてあげたい。それはきっと、俺とシルフィーさんどちらもが思っていることなのだろう。

「……ここにはお父さんはいない。誰も、お父さんに君が話したことを教えたりなんてしないと誓おう。だから、言える範囲で良いんだ。……最近のお父さんのことを、私に教えて欲しい」

「お父さんに……怒られたり、しない?」

「ああ、大丈夫だ。俺もシルフィーさんも……それにメイヤーにニシキさんも。みんなディメルノの味方だ」

 俺を見上げてきたディメるのは、まん丸な目に涙をいっぱい溜め込んでいて。俺はその目をしっかりと見つめ返しながら、ハッキリと頷いてそう言った。

 その言葉が、どれだけ彼女の心に届いたのかは分からない。安心できる根拠なんてないし、彼女にとって俺は出会ったばかりの他人だ。それでも俺にはそうすることしか出来なかったし、そして少しでも彼女に安心してほしいと心から思う。

「わ、分かった。その……お父さんは最近ね。お酒を飲むと……怖くなっちゃうの。お声も大きくなってね、それで……それでね? 私の顔を見るとお父さん、怖い顔になってね? ……ディメルノのこと、ぶつの」

「……その腕の痣も、お父さんが?」

「うん……」

 涙声のまま、ディメルノはそう言って頷く。俯いたその表情は見えないけれど、声色だけで彼女の痛みは十分に伝わってきて。俺は何も口にできないまま、俺の服の裾を握りしめる少女を見つめているしか出来なかった。

「そうか……。そうしたらあと一つだけ聞かせてくれ。昨日は……どうして路地裏に居たんだい?」

「昨日、は……。お父さんがね、沢山お酒を飲んでたの。きっとだからいつもよりも怖くって……。私、私ね? お母さんが言ってたみたいにね? お父さんに、お酒を止めてってお願い……して……」

 そこから先、ディメルノの言葉は嗚咽の中で途切れてしまう。けれど、それだけで十分だった。何が起きたのかは察するに余りある。ディメルノは、決して悪くない。きっと父親のことをなんとかしなければと思って、それで好きだった母親の真似事をしたのだろう。

 ただそれは父親にとって、恐らくは逆鱗そのものだ。妻を亡くした悲しみから逃げるために酒を煽り、そして妻の面影を残した子供からそのことを咎められる。それに逆上してしまうのは、家族を持たない俺でも容易に想像できてしまう

 そしてきっと、それはシルフィーさんも同じなのだろう。顔を上げたシルフィーさんは悲痛な表情で、そしてその深緑の瞳は涙で満たされていた。

「……ありがとう、もう十分だ」

 だけど、その涙は決して零さない。どれだけ悲しくても、手を差し伸べるべき子供の前で泣いてはいけないとばかりに。シルフィーさんは瞳をうるませたまま、そっと床に膝を着いて。

「辛かったね……。ディメルノは一人でずっと頑張ってきたんだね。もう大丈夫、私が絶対に君のことを守ってみせるから。だから……ごめんね」

 シルフィーさんはそっと、まるで今にも割れてしまいそうなガラス細工を扱いみたいに優しく、ディメルノのことを抱きしめた。

 一瞬だけディメルノの体が強張り、息を呑む音が聞こえる。それは驚きと、そしてきっとほんの少しの恐怖だったのだろう。だけどその強張りもほんの一瞬で、

「ディメルノ……ディメルノね、ずっと頑張ってきて……。だから、だから……わた、し……っ!!」

 ディメルノはそこまでを口にして、そしてきっとそこが限界だったのだろう。ディメルノの声が途切れ、そして代わりに聞こえてきたのは泣き声だった。

 さっきみたいなすすり泣く声じゃない。シルフィーさんの胸に抱かれながら、ディメルノはここに来て初めて、大きな声で泣いていた。小さい子供がそうするように、何に遠慮するわけでもなく、なにに恐怖するわけでもなく。心のままに、彼女は泣いていた。

「よしよし、大丈夫……大丈夫……。きっと大丈夫だから」

 その背中をそっとさすりながら、シルフィーさんはただそう繰り返していた。それしか言えなかったのかもしれないし、そう言ってあげるのが一番だと思ったのかもしれない。ただとにかく、シルフィーさんはディメルノが落ち着くまでその言葉を繰り返していたのだった。

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